ウォロディムィル・ウィヌィチェンコ

ウォロディムィル・クィルィロウィチ・ウィヌィチェンコ(Володимир Кирилович Винниченко、1880-1946)はウクライナの政治家、ウクライナ社会民主党の指導者。
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革命前

 ウィヌィチェンコは1880年ロシア帝国ウクライナのクロプィウニツィクィー*1で農民の一家に生まれた。家は貧しかったが、幼少の頃から才能を示し一家は生活を切り詰めてウォロディムィルの学業を支援した。
 ギムナジウムに入学したが、7年生のころに民族主義的なウクライナ語の詩を書いた咎で放校された。そのためアルバイトをしながら独学に勤しみ、1901年に当時の聖ウラジーミル大学、現在のキーウ(キエフ)国立大学に入学した。そこでカール・マルクスと出会い、社会民主主義者の学生サークルに没頭した。その後「革命的ウクライナ党」と呼ばれる初期のウクライナ人政党に参加したため、1902年に逮捕された。
 大学を追放されると家庭教師をして食いつないでいったが、結局オーストリア・ハンガリー帝国に亡命した。当時オーストリアガリツィアと呼ばれるウクライナ人居住地域を支配していた。ウィヌィチェンコはガリツィアの中心都市リウィウに住み、カール・カウツキーといったドイツ人社会民主主義者と交流を深めた。しかしロシアに不法出版物を持ち込もうとしたため国境で捕まり、ロシア帝国に送還され、キーウに収監された。
 1905年にロシア第一革命が勃発しドゥーマ(議会)が設置されると、ウクライナでも革命的ウクライナ党をもとに「ウクライナ社会民主党」が創設され、ウィヌィチェンコは創設メンバーの一人となった。ますます激化する革命勢力の動きに秘密警察は弾圧を加え、ウィヌィチェンコもたびたび逮捕された。1914年にはフランスに亡命しパリのウクライナ人共同体では知られた存在になった。
 1917年の2月革命を機にロシアに帰国し、キエフウクライナ中央ラーダに参加した。そこでウクライナ社民党の正式な党首として認められた。中央ラーダの中心的人物としてウクライナの独立宣言を起草し、ペトログラードと交渉を行った。
 中央ラーダ政府の在するキーウががボリシェヴィキの攻勢で陥落すると、ウィヌィチェンコは西へ逃亡した。そこでドイツの支援で政権を得たパウロ・スコロパードシクィーはウィヌィチェンコを危険人物として逮捕したが、政情の不安定化を恐れたドイツ軍の圧力で再びすぐに釈放された。このときウィヌィチェンコは中央ラーダ議員らでなる「ウクライナ国民同盟」の中心的人物に名を連ね、同盟内でも最も強硬にヘチマンたるスコロパードシクィーに議会開設を要求した。スコロパードシクィーが譲歩すると、一転して対ボリシェヴィキの観点からウィヌィチェンコはヘチマンに協力するようになった。

戦間期

 ボリシェヴィキに反対したウィヌィチェンコだったが、マルクス主義の信条は捨てず、むしろコミュニズムを信じていた。ただしボリシェヴィキウクライナをよく理解しておらず、ウクライナ式の共産主義が必要である、というのが自身の意見だった。
 とはいえ、ロシア内戦で白軍が勝利するとかつてのウクライナ国内における革命熱も冷めていってしまった。議会でウクライナ社会民主党はヘチマンに批判的な立場をとったため、議会選挙の際はヘチマン政府の政治的圧力を受けるようになった。立候補地区を都市部に限定されたため、限られた議席数しか獲得できなくなったのである。
 1922年、ヘチマンは左翼政党を除く各政党を「全ウクライナ国家同盟」に終結させ、左翼政党を孤立させた。ウクライナ社会革命党の
ムィハイロ・フルシェウシクィーが革命路線を放棄したこともあり、ウィヌィチェンコも当局の圧力に屈し、従来の社会民主主義路線に復帰するよう中央委員会で演説をし、自身は第一線を退き党の名誉職に就いた。1923年のことである。
 1920年代のウィヌィチェンコは革命以前からの趣味である文芸に力を入れるようになった(後述)。そのいっぽうで、マルクス主義研究を欠かすことはなかった。当時のウクライナ社民党は集団指導体制に移行し、都市部の産別労働組合に支えられる政党となっていた。
 1929年に世界恐慌が起こると、ウクライナにも不況の波が訪れ失業者があふれるようになった。ウィヌィチェンコは階級対立の激化を感じ、党が再び革命的にふるまうよう主張したが、当時のウクライナ社民党はドイツ社民主義の影響で硬直化した労働組合に縛られ、失業者や農民を黙殺していた。農民においてはむしろ、ヘチマン体制の支持者として蔑む傾向があった。ウィヌィチェンコはこうした党の姿勢を批判し、再び党の主導権を握ろうとした。ウィヌィチェンコをこうした行動に至らせたのは、現状の社会問題だけでなく党の硬直化に反抗したムィハイロ・アウジエーンコ*2のような若手の存在もあったといえる。
 1934年パリ・インター大会で「人民戦線戦術」が採択されると、同年末にひそかにベルリンに赴きパリのウクライナ共産党幹部で元ウクライナ社民党員であるシモン・ペトリューラと会談し、共産党との同盟を探った。ウィヌィチェンコはコミュニズムを捨てていなかった。
 ウィヌィチェンコはウクライナ国内で知られた存在であったため、実質的な役職を持たずとも直接労働者に語りかけることで階級闘争を呼び掛けた。ウィヌィチェンコや共産党に同調し、労組の若手や失業者による「赤衛隊」が結成された。赤衛隊は階級闘争だけでなく、ポグロムといった民族主義的対立も引き起こしてしまったことは事実である。
 ウィヌィチェンコ自身がユダヤ人排斥を支持したことは一度もなかったが、ウィヌィチェンコが構築に参加した「国家コミュニズムの理論」においては、「ブルジョワプロレタリアート」という階級構造が「非ウクライナウクライナ国民・ウクライナウクライナ国民」と置き換えられていた。すなわち、資本家の多くを占めるドイツ系やユダヤ人を倒すことで、プロレタリアート独裁=ウクライナ人による独裁が完成すると解釈されたのである。
 また、ウィヌィチェンコはパリのウクライナコミュニスト同様、フランスの哲学者ジョルジュ・ソレルの信奉者がWW1後に確立した思想「ソレリアリズム」の影響を受けていた。革命における独裁の正当化、フォルスに対するヴィオランス、帝国主義に対する永久闘争……、これらの思想はウィヌィチェンコの著作にも表れている。
 1937年9月、ウィヌィチェンコは議会でヘチマンを鋭く批判し革命を呼び掛ける過激な演説をし、議員を辞職させられ逮捕された。すぐに釈放されたが、これに対するゼネストが発生しウクライナは内戦寸前の状態まで追い込まれた。
 このときエールフランス航空機がキーウに着陸しパリのウクライナ共産党組が到着、ヘチマンは自ら辞任しここにヘチマン政権は崩壊した。

国家元首として

 新体制においてウィヌィチェンコは国家元首に相当する全ウクライナ中央執行委員会議長となった。実質的な権限はほとんどなかったが、「ウクライナ・ラーダの父」と呼ばれたほどの国民的人気と、独裁政党である「人民戦線」の書記と政治局員を兼務したことによる党内権力によりウクライナで最も強力な影響力を手にした。
 新ウクライナはウィヌィチェンコ、ミキータ・フルシチョウ、シモン・ペトリューラのトロイカ体制で成り立った。感情的な演説をするフルシチョウ、ペトリューラとは対照的にウィヌィチェンコは「ラーダの父」にふさわしい威厳ある落ち着いた演説を得意とした。一部の識者はウィヌィチェンコが革命の急進化を防ぐとの観測をしたが、そうはならなかった。ウィヌィチェンコは過激化するユダヤ人とドイツ人に対する攻撃に対し批難することはなかった。それだけでなく、反帝国主義に基づきドイツ帝国を批難し、間接的にドイツ人に対するテロルを擁護した。
 議会に当たるラーダ大会において、パリ組に対し元ウクライナ社民党員は数的に優位を保ち、閣僚の大半にウィヌィチェンコ派を据えることに成功した。ウィヌィチェンコの元秘書であり、外務人民委員という重要な役職を務めるパナス・フェデンコは、将来におけるフルシチョウに対する対抗馬として重用した。
 国家元首として軽率な批判をウィヌィチェンコは避けていたが、側近にはフルシチョウ書記長に対する軽蔑を隠さなかったという。「力と人間性があふれているが、粗野すぎる。権力欲を隠さない」と批判したとされる。しかし、1937年の権力掌握、1941年の東部戦線開戦と情勢はめまぐるしく変化し、ウィヌィチェンコはフルシチョウを失脚させるタイミングを掴めなかった。これが命取りとなった。
 WW2においては、ウクライナ国家防衛委員会を設置し自らその議長に就いた。しかし、高齢ゆえに日々変化する事態に対応する機動的な動きをこなすのは難しく、またキーウ空襲中に地下鉄で人民を鼓舞したり、軍需生産体制の構築に貢献したりしたフルシチョウのリードを許してしまった。ロシア・ソビエトの成立においても、ウィヌィチェンコはパリとのつながりを持たなかったためほとんど関わることができなかった。
 戦争が終結した直後の1946年12月1日、ロシア・ソビエトの首都ペトログラードを視察に訪れたウィヌィチェンコは、政府の暫定庁舎であるスモーリヌイ学院に至る廊下で暴漢レオニード・ニコラエフに射殺された。66歳だった。
 このニコラエフはフルシチョウが差し向けた暗殺者であるという説があるが、真相は闇の中である。暗殺事件後、事件調査とウィヌィチェンコ仇討ちの名を借りた粛清劇がフルシチョウにより演出された。ウィヌィチェンコ派の閣僚、党幹部はほとんどが処刑された。いわゆるレニングラード裁判、キーウ裁判、モスクワ裁判である。
 「ラーダの父」の死は、トロイカ体制崩壊とフルシチョウによる独裁権力確立、そして大粛清につながった。

文学者ウィヌィチェンコ

 文芸を好んだウィヌィチェンコはロシア革命以前から多くの文学を残している。特にロシア革命前においては文学による階級意識の醸成と啓蒙を試みたようである。
 ロシア革命以後は戯曲と映画脚本に没頭した。演劇理論に関する記事も書き、ロシアのコンスタンチン・スタニスラフスキーとしばしば議論を行った。ヘチマン政権時代、ウィヌィチェンコの作品の出版は当局の妨害で困難だったため、まずドイツ語訳されてドイツで出版された。ドイツでは人気を博し1921年には作品の一つである『Die schwarze Pantherin』が映画化された。この映画はウクライナでも公開された。
 人民戦線政権時代には作品が積極的に映画化された。1925年の『泥だらけのサーベル』はロシア革命時代の兵士をテーマとしており、ジャン・ジオノの『丘』やエルンスト・ユンガーの『嵐』に並ぶソレリアリズム文学であるとフランスでは見なされている。1924年に完結した『太陽装置』はウクライナ文学初のSFと評されている。このように活動の幅は広いが、共通しているのは印象的な心情表現と切れ味ある展開である。
 ちなみに、ミキータ・フルシチョウは若いころウィヌィチェンコの小説『御守り』をよく読んでいたと公言している。
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*1:ラーダ時代に「ウィヌィチェンコフラード」と改名。

*2:党指導部を批判しウクライナ共産党に移った。