グレゴール・シュトラッサー

グレゴール・シュトラッサー(Gregor Strasser、1892-1977年)はドイツの政治家、汎ドイツ同盟員。
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 1892年にバイエルン王国ガイゼンフェルトに生まれる。ミュンヘン大学在学中にWW1が勃発し従軍した。
 戦後はサンディカリストによる蜂起の目撃し、1919年にロシア・ボルシェビキ政権に対する白軍攻勢に義勇兵として参加した。この際は後に汎ドイツ同盟の民兵である「民族突撃隊」を率いるフランツ・フォン・エップ将軍の部隊に参加した。これをきっかけに汎ドイツ同盟を知り、1920年に民族突撃隊を通じて参加した。
 汎ドイツ同盟では一時ルーデンドルフ派に近かったが、すぐに離れて労働者の社会問題に興味を持つようになった。シュトラッサーは君主制に反対し、皇室や貴族の財産を分配すること、産業の国営化することを主張した。これは、貴族や軍人などが多い当時の同盟では特筆すべきことであり、シュトラッサーの存在が主に労働者層の新規参加に繋がった。
 1928年にゲーリングが東アフリカ総督に就任した際、シュトラッサーは本国に残ることを選択した。ゲーリングが本国に帰還するまでの間、北ドイツでの党組織運営を任された。戦間期のシュトラッサーはフランス・コミューンやドナウ連邦などの計画経済を研究していた。
 1940年にドイツが枢軸国軍に敗れ臨時政府が設立されると、シュトラッサーはこれを機に抜本的な経済再編を主張し、汎ドイツ同盟の穏健派や汎ドイツ同盟以外の政党と対立していった。また、ドナウ連邦との協力を推進しており、この点はゲーリングとも一致していた。大戦末期にシュトラッサーは経済大臣として入閣し、諸改革を実行していった。なお、弟のオットーはドイツ敗戦時に帝国政府とともに亡命し、戦後北米で活躍する。
 戦後ゲーリングが失脚しノイプロイセン(旧東アフリカ植民地)行きを決意した際は、シュトラッサーもそれに同行した。
 ノイプロイセンにおいてシュトラッサーは全国宣伝指導者と経済建国全権大使に就任し、ノイプロイセンの基礎を造り上げた。ノイプロイセンにおいて緻密な電話線とラジオ網が設置されたのはシュトラッサーによるものである。60歳になった1958年に全国宣伝指導者を辞任するも、その後もノイプロイセン建国の「元老」として大きな影響を保持した。
 1977年にガンで病死。国葬をもって弔われた。