勘察加庁

 勘察加(かんさつか)庁とは、大日本帝国において勘察加半島などを統治している地方行政機関である。勘察加とはWW2の結果ロシア共和国から日本に編入された地域で「カムチャッカ」とも呼ばれていた。

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日本領北方領土における勘察加の位置と、CSAの軍事衛星が撮影した勘察加の全景

歴史

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左はWW2終結直後の本留加、右は1960年代

 勘察加の歴史はロシア人ウラジミール・アラトソフが1697年に勘川(ウスチカムチャツク)に港を建設したことから始まる。1740年に天然の良港である本留加(ぽんるか、旧ペトロパブロフスク)が建設され、行政の中心地はそちらへ移った。
 日露戦争中、特に戦闘はなかったが、北千島に入植していた郡司成忠らが勘察加南端の湖畔(オジョルノフスキー)を襲撃するも、撃退されている。この郡司成忠という人物は存命中賛否両論だったが、勘察加を領有したWW2以降はプロパガンダのためにしばしばその名前が用いられている。
 ロシア革命以降、本留加は浦塩(うらじお、旧ウラジオストク)からアメリカを結ぶ北太平洋航路の中継地として、また日本も参加した北洋漁業の拠点として、さらにロシア海軍の基地として発展していった。1938年にデニーキン政府の肝いりで本留加に造船所が建設された。
 WW2末の1945年、日本はロシアに宣戦布告し翌1946年に戦闘が終結した。勘察加は日露戦争同様に直接戦場にはならなかったが、枢軸軍から逃れ新大陸へ亡命しようという密航者が、終戦から数年間断続的に西方から現れた。彼らの一部は実際にアラスカへ亡命し「新シベリア」と呼ばれるコミュニティを建設したが、また一部は勘察加にとどまった。
 日本領有以降、勘察加はアラスカを支配するイギリスの脅威に対する前線基地として、海軍により整備された。本留加の向かいにある部領(べりょう)に軍港が建設され、本留加から勘川にかけての鉄道建設事業が始まった。これと同時に、各都市に飛行場が、さらにそこを起点とする自動車道路の建設がなされた。
 勘察加は北樺太、北辺総督府同様に内閣北方局の指揮下に入ったが、これは形式的なもので実際には海軍人脈で埋まった勘察加庁が主導していた。勘察加庁は勘察加特別会計を国政において有し、さらに国策会社「勘察加開発」をもって日本本土から資金を供給し続けた。
 例にもれず勘察加も日本人による植民キャンペーンがなされた。しかし、地理的隔絶性と極北にある緯度から、自発的な植民は満洲や南方に比べて少なかった。ただし、北方にしては気候が比較的暖かく、農地が開発されていったので北樺太ほど悲惨な事態には陥らなかった。加えて、終戦直後に政治犯を北方へ事実上流刑する制度が生まれると、続々と若い男性が事実上の流刑囚として勘察加に集まっていった。勘察加は北樺太、北辺総督府と比べて最も多くの日本人流刑囚を受け入れていた。
 彼ら流刑囚はロシアの流刑とは異なり、法的には囚人ではない。単に、本土の刑務所における形式的な短期間の服役ののち、刑期満了と同時に住民票と戸籍が勘察加に移っただけなのである。これは今後勘察加で配給を受けることを意味するから、元囚人らは「自由意志」で勘察加に移住せざる得ないというカラクリだった。
 もちろん、勘察加には東洋拓殖を通じて真の自由意志で植民する者も多かったが、ともかく、勘察加の地では彼ら流刑囚が政治的影響力を蓄積していった。もともと身の回りの社会問題に対する意識が強いこともさることながら、政治犯のうちファシストが特に勘察加に送られたこともあって、流刑囚は団結して勘察加の入植地における生活の改善に取り組んでいった。流刑囚は一般人をも味方につけ、勘察加庁による公選町村長、町村議会議員に任命されていった。もとより、勘察加庁の海軍出身の歴代長官が、ファシズム運動に一定の理解を示していたことも無視できない。1950-60年代には本土では行えないようなファシズム運動の会合がしばしば本留加で行われた。
 前述の町村長公選制は日本人が入植した南勘察加で1950年に導入された。同じく1950年に、本留加市では市長と市議会の民選制が始まった。勘察加庁全体の自治を司る議会は開設されなかったが、少数民族のイテリメン、コリヤク人の代表・諮問機関としてそれぞれ「土人会」が設置された。ロシア人の代表・諮問機関はなかったが、勘察加庁に露人局が設けられた。

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唐牛健太郎(1937-1984)は北海道帝国大学出身で勘察加を拠点にした農本主義者・ファシストであり、勘察加を代表する政治家・思想家だった。

地理

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勘察加は手つかずの美しい自然に満ちている

位置と地勢

 勘察加庁は勘察加半島全体とその付け根付近にあるユーランシア大陸の一部分からなるが、この地域はユーラシア大陸の最北東にある。
 面積は約47平方キロメートルで、日本本土の約1.2倍であり、その形は日本本土と同じく南北に長い。ユーラシア大陸の一部ではあるが、厳しい気候とその辺境的位置のために大陸からは経済的往来の点で孤立しているとみなされている。そのこともあり、勘察加は朝鮮や北辺総督府のような完全な外地や、満州国のような外国などではなく、将来の本土編入を前提とした勘察加庁による統治が敷かれている。本土から移住する日本人からすれば、勘察加は本土と同じような島国なのである。
 勘察加半島の最南端は北千島の占守島に面する占守を挟んだ、呂波斗加(ろぱとか)岬である。この地域はサケの養育地であると同時に、アイヌの北限として知られる。半島の東にはベーリング海が、半島の西にはオホーツク海が広がる。北はユーラシア大陸チュコト半島につながっている。
 南北を貫くのは中勘(ちゅうかん)山脈で、これに並行して東に東勘(とうかん)山脈が走る。この山脈は3000−4000m級の活火山が連なり、中でも勘察加富士は標高が4835メートルと、外地を含んで日本最高峰である。どれも火山活動は活発で、温泉や地震などは日本本土と同様に多い。
 半島北部、すなわちチュコト半島との境のあたりは、コリヤク高原という緩やかな丘陵が広がっている。
 河川においては起伏に飛んだ地形から豊富であるが、群を抜いて流域面積が大きいのが勘察加川である。勘察加川は両山脈の中間を南から北へ流れ、やがてベーリング海に注いでいる。他に小さな河川はいくつもある。湖や沼地は手付かずで存在し、自然豊かな風景を産んでいる。 

気候

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幸いなことに勘察加ではエキノコックスが未だ上陸していない

 気候は北にある割には温暖である。特に両山脈に挟まれた中央部は、北極からの北風が遮られ、穏やかで過ごしやすい。中央部にある見入子の気温は北海道の道北とほぼ同じである。
 西海岸は北極からの北風を直接受けるために極寒である。東海岸は千島・勘察加寒流の影響でやや寒い。
 冬は11月から3月まで続くがコリヤク高原では更に長くなる。中央部と南東部の気温はあまり低下せず、真冬でも平均で氷点下5−10℃で、最低気温は−20℃を下回らない。ときどき千島から台風が到来し、気温を僅かに上げつつ吹雪をもたらすことがある。
 中央部の夏は、過ごしやすくあたたかいことで知られ、最高気温は30℃を記録することがあるが、大陸的な乾燥した空気のためジメジメすることはない。このことからも、勘察加は避暑地として有名である。海岸部は湿気が比較的高く、霧が多くなる。
 降水量は地域によって異なるが、南東部は1500−2000ミリメートルで、西海岸は約600ミリメートルである。

天然資源

 勘察加は鉱産資源の豊富さで知られている。半島全体に天然ガスが埋蔵されているとされ、南部では採掘が行われている。炭鉱は大規模な鉱山が北部のコルフ島にある。
 また、活発な火山活動のため半島全域で温泉が豊富に存在する。特に越艘は軍民をあげて温泉開発がなされた。地元住民はもちろん、半島外からの湯地客も多い。
 西のオホーツク海と東のベーリング海では漁業が盛んである。極寒の気候で漁は過酷であるが、そのぶん給料払いはいいため本土やアジア各国から借金を背負った労働者がやってくる。毎年数十人が事故死している。
 未開発の開拓地に残る雄大な自然も天然資源の一つである。森林、湿地、海岸、山岳は一度も人の足に踏まれず残っており、貴重な生物学的資料を提供している。
 こうした自然を保護するため、政府による国立公園と勘察加庁による保護区が設置されている。国立公園や保護区などによっては、市町村または郡のほぼ全域を占める場合がある。これら自然の保護は戦後興った農本主義的なファシズム運動の後押しを受けてなされた。
 

人口と民族

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上陸した日本人植民者(1952年)

 ロシア革命からWW2まで、ロシア人3万人ほどが住んでいた。1946年の終戦直後に難民のために人口が約10万人に激増したが、ペストの流行と日本官憲による逮捕と北辺総督府への追放、国外脱出などもありロシア人人口は6万人になった。それから日本人の入植がはじまり、1950年に全人口は10万、1960年に25万、1970年に40万、1980年に45万へと増加していった。
 少数民族としてイテリメン人とコリヤク人がいる。勘察加庁設立まで多くはロシア人に同化していたが、勘察加庁は少数民族文化を復興すべく改良仮名によるイテリメン語、コリヤク語の表記と教育、ロシア語地名の少数民族言語化を推し進めた結果、少数民族の割合は3,4%ほどで推移している。
 日本人の入植地は、入植者の氏名や現地語地名に基づき改名されたが、ロシア語地名の場合はもとなった少数民族言語の言葉をわざわざ調べ当て、それを基に漢字を充てていた。例えば、本留加の向かいにある部領軍港は、部領山(ヴィリュチンスカヤ山)から名付けられたが、ヴィリュチンスカヤはイテリメン語で「ヴィリョー」であることを参考にしている。
 日本本土と同様、配給制度を利用した事実上の移動の制限が長らく続いていた。進学と兵役と結婚を除き、勘察加を出ることは難しかった。その一方で、勘察加庁は職場単位による勘察加内部での旅行事業を振興し、勘察加内部の航空路線網が整備されていた。そのため、勘察加内部であれば移動は比較的活発に行われていた。

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勘察加の日本人は、イテリメン人やコリヤク人、ロシア人などとの混血で多少エキゾチックな趣を隠さない。

行政区分と主要都市

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勘察加庁行政区分図

本留加支庁

 行政拠点である本留加市を中心とし、郊外の襟祖と南東部海岸線を管轄する。本留加の抱える工業と港湾産業による雇用だけでなく、それを支える農業と商業が、勘察加第一の人口を支えている。ちなみに本留加支庁だけで勘察加全体人口の約2/3以上を占めているという。

本留加市(勘港、ペトロパブロフスク)

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開拓期~1960年代の本留加

 名前はアイヌの古名から。アイヌ語では「ポンルルカ」だが、当て字から「ぽんるか」という読みが定着している。WW2~WW2直後までは「勘港」という名前も定着していたが、後述の勘川と区別するためにも1949年に本留加へ改名された。
 亜馬茶(あばちゃ)湾と呼ばれる天然の良港に面し、本留加の向かいには部領軍港がある。市内の北東には亜馬茶山(2741m)と本留加富士(3456m、旧コリャーク山)があるが、両方とも活火山でしばしば噴火している。
 本留加港は不凍港であり、勘察加と本土やアジア各国などを結ぶ物流を独占的に支配している。港には燃料と物資の備蓄基地がある。
 市の北西部に新市街が建設され、国鉄勘察加線本留加駅を中心に大通りが延びている。そのうちの一本は銀座通りといい、駅からアジア解放記念塔まで続いている。この地域は特に目抜き通りで、日露融合の荘厳な建築物からなるオフィス街と、アジア解放記念塔付近に千代田市場がある。
 市の西部に工業団地を有し、産業製品の自給自足を支えている。また、郊外にはスキー場がある。
 気候はシベリア寒気とアジアのモンスーンの中間点にあるため、風が強いものの暖かい。8月には最高気温が30℃にまでのぼる。冬の最低気温は-32℃である。
 軍民共用の本留加飛行場があるが*1、小規模のため普段はパイロットの訓練に使われている。
 

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現代化された本留加(2000年代)
曙郡

 所属町村:曙町、黒ノ津村

襟祖群(えりそ、エリゾヴォ)

 所属町村:襟祖町、北静内村

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襟祖の空撮風景と農業の様子

 本留加からやや北西に位置する。襟祖とは旧エリゾヴォ村に名付けられた白軍殉死兵エリゾフに由来する。かつてすぐ近くにザヴォイコという街があったが、勘察加領有以降の襟祖への入植で衰退した。
 本留加と距離が近いのにもかかわらず、夏の襟祖はさらに暖かく、霧は少ない。ただし冬はさらに寒い。
 こうした気候を生かして、襟祖では勘察加で最も成功した農業団地を生み出した。馬鈴薯はもちろんのこと、夏季の果物栽培が盛んで、最新鋭の設備である温室栽培もいち早く導入された。ここで栽培された苺は「襟祖苺」として日本全国で有名である。
 町内には国鉄勘察加線の襟祖駅がある。また、本留加国際空港があり、国内線は大日本航空を通じて真潟や豊原、札幌、東京など、国際線はイギリス領アラスカにあるアンカレジなどと繋がっている。国際空港という性格上、空港内には勘察加地区陸軍憲兵隊の分署がある。

部領郡(べりょう)

 所属町村:部領町、幌屯加村

 本留加の向かいにある軍港。軍需産業が発展し、本土から技師工員を呼び寄せつつ急速に発展した。全住民が軍需企業と海軍軍人または軍属であるため、厚生福祉が充実している。
 本留加とは船便と自動車道路でつながっている。市内には部領鎮守府がある。

土山別郡

 所属町村:土山別村、北羅臼

羅須取郡

 所属町村:羅須取町、新幌村

真留加郡

 所属町村:真留加村、北網走村、賀成村

大川支庁

 勘察加の南西部に位置する。オホーツク海に面し北極からの寒波を直接受けるため冬季は極寒である。
 漁村を中心とする北部、支庁舎があり本留加方面へと自動車道路が繋がっている中部、山がちな地形で漁村が多い南部に大別できる。町村制に基づく集落は二町八村あるが、これ以外にも非公式の集落がいくつかある。人口は1980年時点で4万人。

寒丘郡

 所属町村:寒丘村、井鎮村

蘇幌郡

 所属町村:蘇幌町、小沢村

 蘇幌町は歴史の古い露人村だった。寂しい漁港だったが、ガス田が発見されて以来採掘拠点となった。蘇幌飛行場があり、夏季に数回飛行機が往復する。普段の交通はこれを用いる。海岸にある露人村へのもの以外、自動車道路はない。

大川郡

 所属町村:大川町、狩舞村、上大川村、亜八弥村

 大川町は川の河口付近にある漁港である。支庁舎があり、本留加へ続く自動車道路があるため比較的発展している。蘇幌同様、川そばの沼地であるため、農業は大規模排水と干拓を行わない限りできない。小さな総合病院がある。
 亜八弥村は大川から本留加へ続く自動車道路にある、内陸部の村。多少の湖沼があったが、流刑囚の精力的な自力更生をもって排水し、もともとの豊かな土壌もあって巨大な農業団地が現れた。亜八弥飛行場がある。

湖畔郡

 所属町村:湖畔村、郡司村

 湖畔(こはん、オジョルノフスキー)は南部の中心地であり、勘察加で最も栄えている漁港の一つ。アイヌの北限といわれ、これより北には本留加を除きアイヌ語地名が知られていない。
 湖畔を流れる川はサケの繁殖地で、さらに町内にサケの養殖基地がある。養殖基地からの放流を含めて、湖畔町は南オホーツクのサケの約半分を養っていると推測されている。日露戦争中にこの村を襲撃した郡司成忠の記念碑がある。陸上交通は隔絶しており、納出(ノッシュツ)山に続く道以外ない。湖畔飛行場がある。
 郡司村はかつて「納出村」と呼ばれており、勘察加でも数少ないアイヌ語地名の村だった。納出別川の河口付近にて北千島の柏原青年義勇隊*2により建てられたのが1955年である。新しい村名は郡司成忠から取られている。

勘川支庁

 本留加支庁の北隣にある地域で、二つの山脈に囲まれている。こうした地理的特徴から北極からの寒波が遮られ、本留加同様に緯度にかかわらず北海道道北とあまり変わらない平均気温が観測されている。また、土地が豊かで露人居住者がまばらだったため、積極的に日本人が植民された。
 地理的に隔絶された地域だったが、本留加からの鉄道と自動車道路が建設された。著名な活火山としてシベルチ山(3307m)と勘察加富士(4750m)があるが、頻繁に噴火している。人口は1980年時点で約8万人。

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勘察加富士は日本最高峰とされる(ただしオーストララシアとの国境未画定地域にあるニューギニヤ富士とする場合もある)
勘川郡

 所属町村:勘川町、青岸村

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 勘川はベーリング海に面する、山脈の東側の漁港である。本留加よりも歴史が長い*3が、人口は本留加よりはるかに少なく、1万を上回ったことはない。よく勘察加富士の火山灰が降ることでも知られる。
 水産加工施設と木材加工工場があり、交通においては国鉄勘察加線の最終駅たる勘川駅がある。また、小舟を使って小さな勘川飛行場に至ることができる。

泉郡

 所属町村:泉町、黄田村

 泉群は勘察加富士北川山麓に面する、勘川と同じく歴史の長い露人集落である。町の北には勘察加川が通っており、その向こうには沼地が広がっている。この勘察加川は国鉄勘察加線に沿って南から流れ、泉を通って勘川から海に流れ注いでいる。勘川支庁内陸部の入植地はこの勘察加川を水源として畑を耕している。南側には勘察加富士飛行場がある。

間宮郡

 所属町村:間宮町、羅蘇村、大坪村

遠里郡

 所属町村:遠里村、斜日野

越艘郡

 所属町村:越艘村、穴鵜養村

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 越艘は勘察加川の支流である早流(そうりゅう、ブィストラヤ)川のそばにある。二つの山脈にはさまれた内陸部の、西側の山脈に入った地点に位置する。村民はほとんど露人かイテリメン人であるが、勘察加庁が経営する冬季スポーツ訓練所がある。また、周辺各地で温泉が湧き出ており、越艘温泉は勘察加ではもちろん日本本土でも知られており、湯治客が絶えない。
 見入子方面へ自動車道路が伸びている。

見入来郡

 所属町村:見入来町、斜呂見村、夫篠村

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 見入来は江戸時代の赤蝦夷調査で「上勘察加」と呼ばれた町である。勘川と本留加の中間点からやや南に位置し、勘察加内陸部への入植拠点として知られる。
 北方に位置しながら両脇を山脈にはさまれているためあまり寒くなく、風は弱い。北海道に比べれば平均気温は確かに低いが、夏には気温が30℃にのぼることもある。こうした気候もあり、日本人入植者が多い最北の土地の一つである。
 市街には入植者のための訓練施設や、勘察加農業大学見入子校舎、東洋拓殖見入子事務所、勘察加農業銀行見入子支店のほか、トラクター修理工場などがある。国鉄勘察加線と自動車道路が通っており、作物はこれを通じて出荷される。
 国民学校はもちろんのこと中等学校と博物館もあり、地域の教育拠点にもなっている。

幌名支庁

 大川支庁の北隣にあり、勘察加半島北西部に位置する。この地域はイテリメン人ではなくコリヤク人が多い。コリヤク人はトナカイ放牧に長けており、特に幌名支庁は盛んである。ここからは耕作農業は困難で、北極からの厳寒が吹き付けて非常に寒い。天然資源が豊富で、人口の少なからずは鉱山夫が構成している。幌名を含む北勘察加は町村制未導入地域である。人口は1万人ほど。

幌名郡

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 幌名(ぽろな、パラナ)は勘察加半島の付け根付近にある行政と経済の中心地である。もとはコリヤク人の集落だったが、ロシア革命後ロシア人が少しずつ移住してきた。最高気温は一年を通して15℃を超えることはない。
 勘察加編入後、勘察加庁による幌名周辺の鉱産資源開発が本格化し、幌名港と幌名空港が整備された。また、土人文化研究と教育の拠点として、勘察加庁土人局幌名出張所、コリヤク学校、幌名北勘察加文化博物館が設置された。
 夏季は北辺総督府の真潟港や満洲国の浦塩、北海道の稚内などと船便が行き来している。

千木良郡

 千木良(ちぎり、チギリ)は中南部に位置する小さな集落で、勘川と並び歴史は長い。しかし古くにすたれてしまい、露人とコリヤク人の寂れた住居と教会、要塞の跡が昔を偲んでいる。千木良飛行場と漁港が外部との連絡手段である。

背龍郡

御曽楽支庁

 幌名支庁の東隣、すなわち勘察加半島北東部にある。住民のほとんどはコリヤク人で、鉱産資源が豊富とされているが厳しい気候から開発は進まない。夏はほとんどない。コリヤク高原の南端にあり、温泉が豊富である。人口は4千人ほどとみられる。

御曽楽郡

 御曽楽(おっそら、オッソラ)はベーリング海に面する南北に細長い砂州の上にある。漁港としてわずかながら海産物加工場が建設された。御曽楽飛行場がある。

美湾郡

香免支庁

 勘察加庁最北端に位置し、地理的には勘察加半島というよりは北辺地域に属していると言える。天然資源が埋蔵されているとされ、勘察加開発による採掘が試みられている。人口は2千人ほど。

香免郡

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 香免(かめん、カメン)はオホーツク海に面する小さな漁港である。これといって何もない。

幌似郡
綾加郡

知里地支庁

 香免支庁の東隣にあり、勘察加半島というよりはユーラシア大陸本土に位置する。大部分をコリヤク高原が占めている。天然資源採掘は進まないが、唯一海岸付近にあるコルフ炭鉱が活発に採掘している。

知里地郡

 知里地(ちりち、チリチキ)は崖の下にわずかにある砂浜の上にある寂れた漁村である。付近に炭鉱があり、これと漁業以外の産業はない。南にはコルフ港とコルフ炭鉱があるが、朝鮮から不法に連れてきた労働者がタコ部屋労働として働いているという。

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コルフ港
馬八郡
有鹿郡

駒取支庁

駒取郡

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 駒取支庁は駒取諸島を管轄している。この駒取諸島は、駒取島、北蜜島を中心に他数々の小島があるが、友人島は駒取島と北蜜島のみで人口は1000人に満たない。小さな潜水艦基地に付属する小売商業と北洋漁業が島々を支える経済を占めている。原住民にアレウト族があり、これはイギリス領アラスカのアリューシャン列島に住んでいる者と同じである。

経済

 勘察加経済的に支えているのは、主に入植者の農業と先述の鉱産資源である。これに付随して、各地に小さな軽工業がある。重工業は本留加を中心に立地し、軍港都市部領とともに製鉄所、トラクター、燃油といった主要産業を抱えている。

勘察加の主要企業

 勘察加食糧営団、勘察加製鉄、勘察加自動車、勘察加燃油、勘察加開発、勘察加銀行、勘察加農業銀行、コルフ鉱産、勘察加北洋食料水産など

交通

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亜馬茶湾にある客船

 勘察加における交通は、地域によってかなり差がある。西海岸では一部を除いて道路がなく、海岸沿いの漁港を漁船やフェリーなどが往復している。
 本留加から見入子、勘川までは唯一の鉄道である国鉄勘察加線が通っており、内陸部の開拓や殖産を支えている。鉄道を北辺総督府の真潟まで延伸するという計画はあるが、実現には至っていない。この内陸部は道路が比較的整備されており、国鉄バスや自動車などが使われている。
 コリヤク人が住む北部はトナカイまたは犬ぞりが大変役に立つ。北部には道路らしい道路はなく、トナカイは放牧も含めて地域にとって不可欠な生き物である。
 本土から勘察加に行く場合、北海道の根室から北千島の柏原を経由して本留加に至る根本航路のほか、稚内から始まる稚本航路がある。軍用航路はこの限りではない。北辺総督府に対しては、中心地真潟とチュコト半島の区港から各地へ貨物航路がある。
 空路の場合、大日本航空は僻地の小さな滑走路にまで数多くの航空便がある。東京発は本留加行きの大型噴気機のみで、多くの場合は北海道の千歳空港が起点となっている。僻地向けの航空便の場合、限られた需要のため離発着が月に一度しかないということも珍しくない。
 襟祖にある本留加国際空港は、東京発アンカレジ行きの国際路線が経由する空港である。国際空港として検疫・国境検査体制が整備されているが、ここで下車する外国人はほとんどいない。

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勘察加は一年中観光客でにぎわっている。写真は冬季のスキー観光の様子である。

*1:本留加国際空港とは別。

*2:ファシズム団体の一つ。

*3:蘇幌のほうが長いという異説もあり。