冷戦期日本史 第1回 1946-1951年

総理大臣となった東條英機は戦後直後の日本を象徴する人物だった。

前史

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 極東の島国日本は、WW1に勝利したドイツとロシアがアジアに伸張するに従い、欧米人種を脅威としてアジアの大同団結を掲げるアジア主義に傾斜していった。満洲建国やノモンハン事件、そして蒋介石への北伐支援などはいずれもアジア主義の国民的発露ということができる。一方で、国民の熱狂が冒険的外交を推し進め、アメリカ内戦、反帝協定という国際バランスの一大変化もあり、日本は枢軸国側に立って独英米蘭豪、のちにロシアの同盟軍を相手にした巨大な賭けをすることとなった。
 日本軍は1941年12月のドイツ領南洋諸島のトラック攻撃を皮切りに、破竹の勢いでインドシナ半島インドネシアビルマへと進軍した。南洋諸島は大規模な攻略戦もありつつ日本の手に落ちたが、1943年8月のガダルカナル島の戦いに敗北、またビルマ方面ではインパール作戦が大失敗し、その勢いは止まった。
 中部ソロモン、東ニューギニアも陥落し敗北に敗北を重ねたが、海軍と協同して制海権と制空権を奪い、1944年12月には東ニューギニアのフィッシュハーフェンと歓喜嶺の防衛に成功。対日作戦の主力を担ったオーストラリア、ドイツ、イギリス軍は息切れ気味となり日本軍は東ニューギニアを奪還。さらに1945年にナウル島、ギルバート諸島ハワイ諸島を占領し、オーストラリアに対する封鎖作戦を実施した。このころが戦局の転換点だったといえる。
 さらに、同年8月8日には弱体化したロシアに対し背後から宣戦を布告し、北樺太沿海州、蒙古、ザバイカルを舞台に壮大な侵攻戦を行った(「日本対露参戦」)。ロシア攻略戦当時日本のマンパワーは不足しており、ここで初めて外地の朝鮮人、台湾人部隊が動員された。戦争末期の混乱の中にあったシベリアでは気候の厳しさもあり病死と非正規戦での戦死が多く、マンパワー不足で兵の質が悪化していたこともあり日本軍は莫大な死者を出した。
 1946年8月にロシアは降伏し、残る支配地域をサンディカリストに引き渡すまいと、日本軍にウラルと西シベリア地域を進駐させた。日本はレイキャビク休戦協定に参加はしなかったが、同盟国がレイキャビク休戦協定と同時に戦闘停止を申し出、昭南にて正式な休戦協定が結ばれた。こうして大東亜共栄圏は完成し、東アジアは日本の勢力圏に置かれた。
 しかし4年間以上の戦争が日本に与えた影響は予想以上だった。軍人においては140万人が死亡*1し、傷痍軍人も多かった。
 軍需に頼り切った経済は戦勝と同時に崩れ始め、食糧はアジア全体はもちろん枢軸国全体で慢性的に不足していた。日本本土の農村は男手が消えたことで荒廃し、飢餓の危険もあった。もともと日本は欧米諸国との貿易に支えられていたが、戦争と戦後の船舶不足、ブロック経済化のさらなる進行でそれが見込めなくなり、何もかも日本は自前で用意せねばならなくなった。生産能力に対し需要はあまりにも巨大だった。戦勝をきっかけに人々の不満が爆発しはじめ、さらに復員軍人を適切に再配置せねばならなかった。大東亜戦争直後の日本は、戦時中よりもさらに危機的な状況に置かれていたのである。

戦勝と混乱

宇垣組閣と崩壊

宇垣一成総理大臣

 戦争を指揮した東久邇宮内閣は総辞職し、重臣会議を経て宇垣一成に組閣の大命が下った。ほかにも候補がいなかったわけではないが、この最も困難な時期にあえて首相を買って出るつもりはなかった。唯一陸軍出身の宇垣のみ意欲があったため、渋々消去法で選ばれたとされる。
 1946年9月1日に組閣した宇垣内閣は、先述の諸問題に取り掛からざるを得なかった。
 食糧問題については1946年が豊作年となったため最悪の状況は脱したが、長期的には特に大陸アジアの人口爆発に耐えられないのは必至だった。復員は数百万の将兵を一気に解除することは食糧上、輸送上不可能だった。経済も抜本的な改革が必要だった。要するに、この危機的状況を完全に乗り切るためには中長期的な計画が必要だったのである。
 しかし、宇垣内閣には悠長な余裕はなかった。食糧と物資不足で闇取引がまかり通り、破滅的なインフレが進行しつつあり、逮捕者は急増しており、宇垣はまずこの対応そして今期のコメ収穫と配給に追われた。さらに、衆議院では硬直的な翼賛政治会を解体すべしという声が、中野正剛岸信介などの「体制内野党」の人物から上がっていた。一方、本土にいる陸軍の東条派と内務省はこれに反対しており、政権内部の対立が徐々に表面化しつつあった。政権の内部対立は、民心に動揺をもたらし社会荒廃に拍車をかけた。
 1947年4月に予定された衆議院議員任期満了に伴う総選挙*2が近づくにつれ政争は激化した。翼賛政治会は解散し、主流派は大日本政治会(日政)を、反対派は翼壮議員同志会と興亜同志会を結成したのである。
 戦後の与党構想をめぐる政争は総選挙で片が付いた。翼賛政治会の運営を握る多数派である陸軍東條派と官僚ら、一部老齢党人派は反対派立候補者を推薦せずに刺客候補を送った。さらに警察と連携して非推薦候補を妨害し、次々に落選させたのだった。
 宇垣は総選挙完了を経て総辞職し、後任には戦時中の陸軍大臣だった東條英機が就任した。ちなみに、このとき興亜同志会を主導した岸信介近衛文麿への大命降下に向けて工作をしたが、結局実らなかった。岸は選挙に立候補はしていない。
 こうして宇垣内閣は1年足らずで崩壊し、ほとんど成果は残せなかった。唯一の例外は、大東亜省から領事機能を外務省に戻して対アジア外交を外務省に一本化し、企画院の提案で大東亜省は大東亜共栄圏内の「圏内貿易」*3に特化させたことである。この出来事は外務大臣重光葵の影響力を押し上げ、のちの大東亜連盟設立の足場となった一方、陸軍東條派を怒らせて宇垣辞任を早めたという見方もある。

戦ふ東條首相

宇垣~東條政権では数々のストや暴動が起こったが、その多くは報道管制で封じられた。

 東條英機は大命を拝し、1947年4月に内閣が成立した。戦時中に陸軍大臣だった東條は昭和天皇から絶大な信頼を受けており、天皇は慣例を破って直々に東條を指名したのだった。
 総理大臣と陸軍大臣を兼務した初の首相である東條は、陸軍大臣としての権限とコネを活用し、憲兵隊をもって治安回復に取り掛かった。ストライキや農村争議、小作争議などを物理的に排除していった。宇垣政権で東條と対立した翼壮議員同志会と興亜同志会も弾圧を免れることはできなかった。落選した非推薦候補者は憲兵隊と特高警察の手で一斉逮捕され、当選した非推薦候補者でさえ危険を被った。岸信介は海軍の駆逐艦に乗って一時渡満し、当選した右翼の中野正剛憲兵に監禁され、満洲に追放された。
 政敵を排除した東條はじっくりと政権運営に取り掛かることができるようになった。

外交政策
第二回大東亜会議(1947年)
大東亜共栄圏の図。
日系人収容所

 重光葵らの外務省と一部現地駐留軍の努力もあり、大東亜共栄圏帝国主義の延長ではなく独立国家の共同体とするべく「大東亜連盟」の設立が大詰めを迎えていた。東條首相はこれに反対しなかったが、馬来やインドネシアなどの戦略資源産出地の独立は時期尚早と見ていた。ほかにも、休戦協定において大東亜共栄圏に含めるか否か曖昧な立場となった独立インドの問題もあった。
 1947年5月に開催された第二回大東亜会議に際しては、重光葵インドネシア独立勢力を率いるスカルノが出席を強く主張したのに対し、東條と政府主流派は反対して鋭い対立が水面下でなされた。インドネシアでは連日独立を求めるデモが起き、現地駐留軍は本国政府と板挟みとなり、たびたび衝突が起きた。
 結局、この「インドネシア問題」は相互譲歩してスマトラ島とジャワ島、バリ島をひとまず独立させ、スマトラ島パレンバン油田は日本とインドネシアの合弁企業が管理することとなった。この独立三島以外は引き続き軍政が敷かれ、馬来も同様だった。スカルノ大日本航空の一式陸攻に乗って東京へ急行し、大東亜会議に滑り込むことに成功した。インドネシアは1947年8月17日に独立した。
 スカルノやハッタなどインドネシア首脳はこの独立を一時的なものと見なし、やがては硬軟圧力をかけてボルネオ島やセレベス島、マルク諸島など軍政地域を「解放」するべしと考えていた。このため、インドネシア大東亜共栄圏の一員でありつつも、最も日本と潜在的対立要素を持った国の一つであった。
 一方、本土では軍部だけでなく官僚も馬来、ボルネオ、その他諸島を経済運営上不可欠であると考えており、東條は重光に「これ以上の譲歩はしない」旨語った。これを裏付けるように、陸海軍の主導で1947年12月にはセレベス島を中心とする東部で傀儡国家「大チモル国」が独立し、同時にボルネオ島は「馬来庁」の行政区域に併合された。ボルネオは併合の際に現地のスルタンらに権限を一部譲渡し、各スルタン国の権威を保つことでインドネシア民族主義をくじいた。こうしてスカルノらは裏切られたのである。
 第二回大東亜会議が扱った議題はインドネシア問題だけではなかった。各国が共通して提起したのは戦争で破綻した経済の再建、特に金融、通商、食糧の再建だった。この問題は日本も同様に抱えているものだった。東條は経済問題を最優先課題とすると同時に、これを大義名分としてアジア諸国大東亜共栄圏に引き込み、国際組織としての大東亜連盟において日本の優位性を持たせようとした。つまりは、日本の手で経済システムを再建し、かつ日本の優位なシステムとすれば日本の立場は安泰であると目論んだのである。東條の脳裏には日本のライバルとして蒋介石率いる中華民国があった。中国でも経済は激しいインフレと飢餓で破綻しつつあり、排日世論が再び高まっていた。くわえて、中国には将来日本を超えかねない国力の潜在的発展性があったのだった。
 アジアの外においては、同じ枢軸国であったドナウ連邦との交流を中心として、シベリアをめぐる旧交戦国であるソ連との交渉と、新大陸における日系人問題の対処をすることとなった。
 この当時生存圏外との国際貿易は最も細く、国際決済システムが完全に破壊され通商路も機雷封鎖箇所が多々あったことがもっぱらの理由だった。海上貿易においては海賊的な私貿易が行われていたが、国家レベルでは戦争中からドナウ連邦と軍艦を用いて技術者や学生などの交換がなされており、東條内閣でも継続された。大学生や若い官僚、技師、軍人などがウィーン大学シュコダ重工、軍アカデミーなどに留学しており、最新の思想や技術などを持ち帰っていった。この細々とした留学事業は、ささやかながら確実に日本に知的変革をもたらしつつあったが、それが明らかとなるのは1960年を待たねばならない。
 ソ連に対しては、WW2によるロシア敗戦の結果中央アジアトルキスタンが、シベリアにはシベリア共和国という緩衝政権が生まれ、これに関する調整と駆け引きが問題となった。日本は遠く離れたこの地域に影響力を与えることはできず、トルキスタンに関しては中立を認め、シベリアに関しては同地産出の重要資源の輸出をもってソ連を宥和せざる得なかった。1950年代半ばになると、ソ連中央アジアを通じて中国に赤化勢力を送り込むようになる*4。 
 新大陸においては、戦前から百万人近くの日系人が暮らしていた。アメリカ、カナダ、ブラジル、ペルーの日系人は戦争勃発とともに財産を没収され強制収容されていたが、例外としてアルゼンチンは親枢的なファン・ペロン政権の恩情でほとんど弾圧されなかった。メキシコにおいては、アメリカ内戦の混乱で少なからぬ日本人コロニーが賊に焼かれたという。アメリカ太平洋州国やアメリカ連合、カナダを統べるイギリスとの交渉は難航したが、白人捕虜とハワイの白人住民との交換を条件に日系人の帰国を勝ち取った。このころ北米の日系人強制収容所だけでなくカナダ北部の開拓村へ強制移住されていた。合意後、日系人は本人の意思にかかわらず残らず集められ吐き捨てるように日本領ハワイへ送還された。同様に、排日運動が盛んだったペルーとブラジルも日系人全員の追放となった。メキシコは後継政権が日系人を把握しておらず「土着化した」ということとなり、アルゼンチンは全員現地に残ることとなった。結果として、日系人は約25万人が帰国した。帰国した日系人のほとんどは本土に住まず、ハワイ、南洋、マレー、香港、満洲といった外地への居住を選択した。
 ところで、1947年にはドナウからホライ・ルーリンツを団長とする訪日使節団が来朝し熱烈な歓迎を受けた。東條首相との会談がなされ、その後明治神宮靖国神社、宮城参拝をはじめ、名古屋や大阪、九州などの重要工業地帯をめぐり、ついで満州国を視察した。荒んだ世相もあって訪日使節団の存在は注目を浴び、帝国軍に劣らず映えた国民衛兵隊とドナウ連邦軍の制服姿に人々は驚きつつ羨望の眼差しを持った。ホライが個人的にアジアに興味があったこともあり、この出来事以来日本とドナウの政治・文化交流が組織化し、活発化した。ホライがひときわ関心を寄せたのが満洲国の農業開拓であったが、これは言うまでもなくアフリカ開発を意識したものだった。満洲国協和会と満洲国政府の若手官僚や甘粕正彦*5は、多民族国家ドナウの民族・政策を満洲国に活かすべく、使節団と議論を交わした。戦後アジアのファシズム運動を語る際、ホライの訪日・訪満は欠かすことができないだろう。

人口・食糧問題
食糧増産隊(1948年)

 当時の人口及び食糧問題は次の二点に集約された。すなわち「いかにして戦災で荒廃した食料生産・供給を復活させるか」と「いかにして将来確実に起こる人口爆発に備えるか」だった。この問題は経済、農政だけでなく兵士の復員と日本人の植民政策とも結びついており、高度な専門知識と部門横断的な指導性が求められた。戦後日本とアジアの人口・食糧問題の根幹が決定されたのが東條内閣の時期だった。
 戦勝からちょうど一年となる1947年8月に東條内閣は復員に関する暫定指針を示し(第一次復員方針)、兵士を全員復員させるのではなく一部を占領地に残すか、外地に植民させることとした。日本本土の農業は荒れ果て、このまま復員兵士を本土の農村に戻しても食糧が足りず、また農村復興作業を行わせても成果が出るまで時間を要し、その生産性も限界があると農商省の官僚は報告していた。この方針に前線将兵は反発し、すぐに東條内閣は郷里の家族を追って開拓地に送って兵士と合流させること、将兵の計画的一時帰国を許可すること、兵役*6を終えた兵士は優先的に本土に復員させること、食糧確保は喫緊の課題にして開拓作業を兵役に代えることを認めることを発表した(第二次復員方針)。最後の部分は若い世代を対象とする新規徴兵にも永続的に適用され、以降一般的となる屯田兵的な兵士による開拓という形式が示された形となった。
 人口・食糧問題の処理として、農業実務に関しては本土において農商省と農業会、外地において大東亜省が、食糧流通に関しては本土において農商省と食糧営団、外地においては大東亜省と東亜圏内貿易営団*7が担当した。人員の確保と移動は陸海軍が行った。開拓の具体的事務は内務省が担当していた。ほかにも、植民において食糧・経済的視点ではなく人種論的な社会衛生学的視点から扱った機関として厚生省があった。厚生省は戦前からドイツの人種論研究を分析し、戦後もドナウやドイツ民族国*8などへ留学生を派遣していた。研究成果は厚生省研究所に集積し、1943年に同研究所が出版した『大和民族を中核とする世界政策の検討』は人口論に基づく戦後構想を示している。厚生省は、植民とは単なる農地開発だけではなく、将来諸民族の人口が増加するなかで日本人が指導的民族であり続けるために、いかに権益を確保し、人口を殖やし、最も適当な地域に居住するかという戦略的な作業であることを指摘した。戦後人種論はドナウにおいてもアフリカ統治の点から注目されたように、巨大な帝国を持つ日本の官僚もまた人種論に夢中となった。1947年末には厚生省研究所人口民族部が分離し「東京人種民族研究所」として拡充された。
 こうして、1947年9月に内閣諮問機関の一つである大東亜建設審議会にて総合的な植民計画の策定を目標に議論が始まった。しかし、大東亜連盟創設を成功させるべく大東亜共栄圏各国の主権を尊重した外務省及び重光葵大臣は難色を示し、反東條派の残党と呼応して1948年に辞職したが、東條はすぐに後任として河相達夫元外務次官を据えることに成功、倒閣運動は阻止された。
 1949年8月、内閣大東亜建設審議会は「大東亜二十ヶ年三百万戸移住計画」を発表し、これが1950年から1970年にかけての植民・農業・人種政策の骨子となった。ほとんどの機関が作成に参与したこの計画は、日本の政府、軍、社会をフル活用したある種の「合意」で、各分野の各部局が綿密にかかわることで成り立っていた。この計画を基に、各機関はより具体的な計画を作成し実行した。
 計画の概要は、復員軍人と本土の過剰農民合計約1500万人を1950年から1970年の20年かけて外地に入植させるという野心的なものだった。入植者は外地における日本の支配を確固たるものとし、原住民、特に中国人の人口爆発に耐え、日本の支配的地位を維持する使命が与えられた。本土においては入植をもって過剰人口をさばき、東北地方を中心とする「農業不毛地帯」を一掃するという大掛かりな国土改造の展望があった。
 計画で述べられたのは日本人に限らず、アジア各地域の人口問題とその対策路線の大筋が書かれている。朝鮮は満蒙・シベリアへの農業移民を継続しつつ、本土への工場・鉱山労働者としての移民を主たるとすること、インドネシアのジャワ人はボルネオや大チモルに、中国人は西北、蒙古、シベリアなどへ入植すること、さらにこれに並行して日本の指導による「食糧戦」*9が食糧生産を下支えすることとした。
 戦後における日本人の満蒙開拓を象徴する三江平野の開拓も明記されている。満蒙だけでなく樺太、勘察加、果ては北辺総督府にニューギニヤ総督府などの不毛地帯まで開拓すべきとされ、担当部局に具体的計画作成が望まれた。
 このようにして、戦後アジアの歴史に「人口と食糧」という大きなテーマが添えられた、これは各国の政治的ダイナミズムとイデオロギー的熱狂とともに、アジアに大きな歴史のうねりをもたらすこととなる。

国内政策
終戦後数年間は出生率が急上昇した。言われる「ゲブルテ世代」*10である。

 次に日本本土の国内政策について述べる。東條首相は現役時代から統制派の第一人者で、国防による経済統制を主張した最も古い派閥の人間だった。本土における統制経済は、ノモンハン事件や北伐、フィリピン占領などの刺激を受けて徐々に始まり、奢侈品の物品税や統制会社、食糧管理制、企業整理など少しずつ進んでいき、戦争の中盤には統制経済システムがほとんど完成した。統制経済は限られた資源と技術力の中で最大限に働き、太平洋とシベリアの諸作戦の軍需物資をフルに生産していった。
 しかしながら、戦争による荒廃はアジアで最も豊かだった日本本土の経済も蝕んでいった。物資の絶対的不足は公定価格と実勢価格の乖離を招き、闇市場を発達せしめた。軍人や警察、資本家や地主などの小エスタブリッシュメントらは塩や砂糖をため込んで暴利を働いた。食糧については既に語った通りだが、配給食糧の質は目に見えて悪化していたため闇物資の蔓延は大いに不満を呼び、空腹は社会全体に殺伐とした感を与えた。芋一つのために子供は血だらけになるまで殴り合うのは当時珍しくなかった。
 大規模徴兵による男手不足は女性と青年の労働を強力に推し進めたが、田畑と工場での過重労働は日本人の健康を大いに損なった。医薬品不足も手伝って乳児死亡率が上昇し、戦後最初の徴兵検査の合格率は開戦前に比べて大いに下落した。
 努力家の庶民派を自称した東條首相は、世論を宥めるためにあの手この手のパフォーマンスに勤しんだ。ゴミ箱をあさって民草の生活を計り、悪徳経営者を見せしめ的に逮捕し『戦う東條首相』というテーマソングまで作る始末だった。一方で、成り上がりゆえに自我を押し通すしか知らず、反対勢力や私怨の相手は公私混同にも憲兵隊を動員して徹底的弾圧をした。ある議会政治家が「政治は妥協なり」と言えば、東條の好んだ「努力即権威」は彼を端的に表した最適な言葉になるだろう。ただし成り上がるほどの能力と観察眼を持っていたのは確かで、盲目的にアジア解放戦争を唱えた中野正剛アジア主義者に比べれば、大変冷静な現実主義者だった。アジア主義石原莞爾東條英機の対立は有名なエピソードである。
 まず、国内政策として本土の統制経済システムは「経済検事制度」*11創設といった細かな点を除けば、大幅な変更は見られなかった。世論の気を引くために定期的に経済犯罪者が摘発されていたが、大財閥に大地主など庶民から諸悪の根源と見なされたエスタブリッシュメントとは固い同盟を結んでおり、農村争議とストライキは一切弾圧されていた。歯向かう農民や労働者などは問答無用で開拓地に強制移住された*12。事実上の強制移住を制度化するため、議会を通して犯罪者・前科者の戸籍及び住所の強制的移転を認める法律が、日政議員による盲目的な拍手をもって成立した。
 岩手県のある農村では、雪害が尾を引いて政府強制買い上げによるノルマ達成が不可能である旨を訴え、村長及び農業会も揃って県庁に赴き援護を要求した。これに東北農村は感涙して抗議のために稲穂を青田刈りする者まで現れたが、東條首相は一喝して弾圧を命じた。きっかけとなった某村では村長及び農業会幹部が家族もろとも逮捕され、勘察加に流された。そのほかにも見せしめに農民が数十人逮捕され強制移住の憂き目となった。横浜では貴重な港湾労働者がストライキ計画の咎で満洲浦塩に流され、代わりに中国人労働者が補充された。高度な熟練労働者である港湾労働者の摘発は大打撃となり、しばらく横浜港には貨物が野ざらしで積みあがっていたという。
 農業においては食糧戦の一環として、経済的見地から抜本的な改革が行われた。先述のように本土農業は西日本を除き低い生産性が問題となっていたが、企画院の主導で農地関連法制が改正され、政府主導で強制的な農地集約ができるようになった。イギリスのエンクロージャーを彷彿とさせる農地整理政策は、満蒙開拓で減少傾向にあった東北の小農、中農に最後の一撃を与えた。こうして集積した農地は必要に応じて大地主の農地と合併させ、集約的な機械化大農場へと生まれ変わった。このような大農場は東北を中心に関東地方まで登場し、東條首相は大農場第一号を視察したほどだったが、農民はこのエンクロージャーに戦々恐々だった。なぜなら、これは残酷で露骨な棄民政策であったからだった。立ち退く農民は外地へ植民する以外の選択肢を認められていなかったのである。農民の心情や生まれ故郷と歴史への愛着を無視し、ひたすら経済的生産性を追求したエンクロージャーは本土の農民に根深い政府不信を植え付け、農村と都市の対立という点で後のファシズム運動に影響をもたらすこととなった。
 政治制度においては、戦時中の統制体制とその路線を踏襲することとなった。与党日政と大政翼賛会、そして内務省を始めとする警察と中央政府が治安維持と経済統制を理由に指導するシステムは、戦争の臨時措置から恒久的体制へと固まった。復員軍人と余剰農民の消化のために警官数は倍増し、そのほかの人員も統制経済を管理する様々な営団に雇用された。官僚、官吏の人材源である大学は定員が増加したが、それでも日本人全体に強くあった階級上昇の意欲を満足させるにははるかに足りなかった。そのほかに大学においては中堅理系テクノクラート育成を目的に、1942年の興亜工業大学を契機としつつ、1949年に九州工業大学関門海峡に、1952年に北方工業大学が北海道に建設された。新規獲得した外地では師範学校がいくつも創設された。
 女性参政権の議論は戦後急速に盛り上がり、1947年の衆議院選挙は世相の混乱のため参政権付与には至らなかったが、東條首相も女性参政権を好意的に捉え、1950年に町村議会での選挙、翌1951年には衆議院選挙において女性参政権が投票・立候補ともに認められた。しかし、町村議会は戦時改革で骨抜きにされており、地方行政は本質的に地方総監に全てが委ねられていた。
 地方総監府は戦争後期に創設された地方単位で、いくつかの県および県知事を地方総監が指導する制度だったが、当初はうまく行かず有名無実化していた。東條首相は地方総監の権限を増強しつつ県組織を簡素化し、地方総監府を単位とする中央集権化を行った。行政組織はいくぶんか効率化し、適切な場所に集中投資するといった「能率向上」がもたらされたが、これは一方で産業に恵まれない県の空洞化を招くこととなる。ちなみに、戦前昭和研究会が県廃止と地方総監府制に反対した第一の理由が、弱小県の経済空洞化だった。
 その他に金融と経済方面においてはインフレ抑制と通貨再建のための金融引き締めがなされたが、外地においては相変わらず紙幣が乱発されていたため、これとバランスを取るべく本土の庶民に対しより強硬な重税とデノミがなされた。企業に対する課税は不十分だった。また、通貨再建の切り札として北方地域における金採掘が断行され、最果てのツンドラにある北辺総督府では、ロシア人捕虜や中国人匪賊を用役して金鉱開発が開始、突撃作業で1950年には早くもまとまった量の採掘が始まった。もちろん、背後には膨大な量の記録されざる死亡者があった。枢軸国はどの国も金不足で通貨再建が遅れたなか、最も深刻な通貨崩壊を被った円の復活はフランやクローネよりも早かったのは幸いだった。東條内閣退陣直前の1951年には、中華民国における製造業の大幅な拡大もあって大東亜共栄圏経済は復活の兆しが経済官僚には見えていた。

ファシズム運動の勃興
ワンダーフォーゲル。日本青年運動の一つである。

 ファシズムの定義自体が容易ではないが、もしその後に起こった「宮城進軍事件」の関係者をファシストと定義するのならば、ファシズム運動は戦勝とともに始まったと言える。戦前からの潜在的反対者である興亜同志会らアジア主義の右翼、そして重臣平沼騏一郎を筆頭とする日本主義者の観念右翼があり、後にはこれらの影響も受けているが、日本ファシズムの最初の萌芽といえばまさに前線将兵に他ならなかった。戦友と固い絆で結ばれた兵士は、相互監視で緊張感を持つ文民とは違った政治的余裕があり、将校は政府の統制外にある唯一の知的資源だった。そして彼らは復員後に軍隊時代のコネを維持したまま社会の様々な場所に溶け込んだが、これは東條政権及び官憲の弾圧に対抗できる唯一の存在だった*13
 復員後の軍人を最も受け入れた職業の一つが教師だったが、復員軍人は教師として子どもたちに英雄的戦争の価値を、戦士的連帯の尊厳を伝え、ドナウ哲学でいう「塹壕社会主義」を次世代に継承する役割を果たした。団結を知った子どもたちは、統制社会に対する潜在的な反対者となっていく。
 これとは別に、哲学としてのファシズムは戦前の革新官僚の流れをくみつつ、世代交代したより若い世代の青年知識人を中心に、ドナウ社会主義を受容する形で復活した。戦争直後のホライ来朝は、青年の間でファシズムの流行を引き起こした。ルカーチ、ポラーニ、ホライらドナウ哲学者の書籍が翻訳、出版された。青年知識人の大きな波は官憲の警戒を呼んだが、数的な有利と軍部による保護、彼らを積極的に受け入れた満洲国の存在もあり一定の勢力を保つようになった。
 将兵と青年知識人の一つの合流点が「日本青年運動」だった。ドイツ青年運動とドナウのローゼッカ青年団に影響を受けたこの運動は、青年が自発的に野山を行進し、歌を合唱しつつ連帯と自然を讃える新しい流行だった。日本青年運動は中学校から大学にかけてエリート学生に限らず普遍的に見られ、青年に対する当局の締め付けや勤労動員への抵抗として機能しており、当時の同盟新聞は「前線を直接経験せざる青年世代が将兵の魂を継承した」と評したほどである。
 日本青年運動は反東條のアジア主義者や軍人有力者の支援を経て拡大し、同様の現象が見られた満洲国では本土よりも堂々と歓迎された。何より百人力だったのが皇弟である秩父宮殿下と、皇子である永仁皇太子殿下の援護で、これもあって当初弾圧していた官憲も矛を控えるようになった。代わりに日本青年運動を官製運動化すべく1950年に「国民歌声運動同盟」が建てられたが、その目論見は外れただけでなく、むしろメンバーにかつての反東條派に近いアジア主義*14を登用することとなり、日本青年運動は更に勢いづいていった。
 そして日本青年運動と連動していたもう一つの動きとして、満洲国のファシズム運動と三江平野の大開拓がある、三江の開拓は満洲だけでなく日本の青年も広く募集し、満洲国政府及び協和会が援護した大掛かりなファシズム運動体へと発展していくが、これに関しては「満洲国の歴史」で述べるほうがいいだろう。

文化史

 戦勝と同時に不満のガス抜きのために歌謡曲に関する様々な規制が緩和され、再びモダンな音楽が徐々にではあるが戻り始めた。
 ブギウギやジャズなどを得意とする作曲家服部良一*15の『夜来香幻想曲』(1944年)のレコードが発売され、続いて同氏の『夜のプラットホーム』(1947年)、『東京ブギウギ』(1950年)が続き、一度は完全に消え去ったかと思われたモダニズム音楽の命脈が、東京や大阪などの大都市で復活を見せた。並木路子は『リンゴの唄』(1947年)で華々しいデビューを決めたが、これはリンゴ農家のドキュメンタリーである松竹映画の『そよかぜ』の主題歌だった。農本主義的テーマは相変わらず好まれた。横浜=布哇航路を歌う『憧れのハワイ航路』(1948年)は大海陸を統べる日本帝国の海上部分を高らかに讃えた。『イヨマンテの夜』(1950年)はアイヌの祭りを歌っている。
 また、当時まだ子供だった美空ひばりのデビューはこのころだったが、ブギウギを歌ったところ「子供にしてはあまりに色っぽい」ということでレコードが発売できず、波立たないテーマの歌謡曲や童謡歌手として始まったが、その人気はだんだん現れ、ついに『浦塩坊主』(1950年)は大ヒットに至った。渡辺はま子の『桑港のチャイナタウン』(1950年)は桑港(サンフランシスコ)の華僑虐殺事件を題材にしたアジア主義的なものだが、政治的主張というより当時の平均的な庶民の理解を端的に示している。
 先述の通りエネルゲン溢れる青年世代にとって歌は欠くべからざる存在であり、学生が野山を闊歩し焚火を囲むワンダーフォーゲルでは、決まってアコースティック・ギターとともに合唱をした。同様の現象は軍隊でも見られた。1950年結成の「国民歌声運動同盟」はアジア各地の民俗音楽やドナウを始めとする欧州の合唱曲を紹介し、楽曲の選択肢は大いに広がった。
 次に映画を見てみよう。映画業界は戦時中でも奮って作品を世に送り出し、名誉を獲得した。テーマは戦意高揚であったり喜劇であったりしたが、個人の内面や葛藤などを自然主義的に描き出す作品が多かった。1944年の『陸軍』は息子を軍隊に送る母親の苦悩を表現したが、検閲でお蔵入りすることはなかった。戦争が終わるとさらに作品の幅が広がっただけでなく、戦場における兵士のロマン主義リアリズム映画が現れだした。1938年に出版と同時に発禁となった石川達三の『生きてゐる兵隊』が1949年に早くも映画化されたのは、兵士が復員し彼ら自身もまたこのような作品を好んだことと無関係ではない。作家の島尾敏雄*16は、福岡市の映画館で『生きてゐる兵隊』を批判し上映中止を求めた警官に対し、復員兵らしき数人が殴り嬲った光景を目撃している。
 まず、終戦最初の映画は黒澤明の『虎の尾を踏む男達』(1946年)で、戦争末期の物資不足を反映して極限の低予算映画として仕上がっている。翌年には同じく黒澤明が『わが青春に悔いなし』(1947年)を制作、これは戦争に翻弄されるシンガポールの日本人青年を描いたもので、イギリスの弾圧に耐えつつ、解放後には軍への志願か家業の商人になるかを悩んだ末、鍬を取って畑を耕す選択に至る物語だった。また、『羅生門』(1950年)は芸術的評価も高く翌年イタリアのヴェネチア映画祭にて金獅子賞をムッソリーニ統帥より賜った。
 それ以外の者が制作した映画として『破戒』(1948年)、長谷川町子の漫画を基にした『大和さん』(1948年)、『浦塩坊主』(1950年)などがあり、他にも「刑事もの」や「母もの」*17が流行した。
 文学においてはまず戦時中に出版できなかった作品が規制緩和で発表されつつ、それまでの既成作家を批判した若い世代による「新戯作派」が現れた。新戯作派はデカダンス傾向が強いと批判され、事実絶滅しかけていた都市のモダン愛好者に根強く支持されていたが、個々作品を取れば一概な判断もできない。没落する上流階級を描く太宰治の『斜陽』(1947年)は道徳的批判を浴びたが、ドナウにおける全体主義革命の擁護に仮託して日本社会を批判した坂口安吾の『堕落論』は、そのコンテクストをよく理解したエリートに好まれた政治文学だった。文壇の主流派には川端康成菊池寛谷崎潤一郎などが健在であった。
 大衆文学は青年の流行に敏感に反応し、石坂洋次郎の『青い山脈』(1947年)は日本青年運動の火付け役となり、自由(大人に邪魔されないという意味で)や自然、農耕、英雄、肉体、同志愛といった「あるがまま」を肯定するエラン・ヴィタール(生の飛躍)的作品は数々出版された。
 同時に純文学のいわゆる「日本浪漫派」も若い世代に好まれた。欧米に反骨し日本古来の文化を称揚する姿勢は日本主義的右翼と分類されるが、その読者は同時に日本青年運動の一支流をなしていた。確かにエラン・ヴィタール文学とは硬派軟派の違いやドナウ連邦に対する羨望の有無など相違点があったが、農本主義や自然と英雄の称揚など共通点も多い。ただ文学作品としての人気は、1950年ごろを境に次第に戦争文学のアジア主義的風に押されていった。日本浪漫派出身の三島由紀夫は神話を基に『軽王子と衣通姫』(1947年)を発表したが、その後日本主義の称揚から一歩後退りし『仮面の告白』(1950年)*18で文壇の一躍有名人となった。
 いわゆる転向文学は島木健作の死去もあって衰え、ロマン主義リアリズムを汲む戦争文学に吸収された。一大ジャンルとなった戦争文学は復員軍人から青年まで好まれ、研ぎ澄まされた極限感覚と戦友愛、英雄物語、エキゾチズム、農本主義が定番だった。梅崎春生の『桜島』(1947年)、椎名麟三の『馬来の酒宴』(1947年)が有名だが、逆に言えば戦争を題材にすれば何を書いても良いのであり、中村真一郎福永武彦などのフランス文学研究者はマチネ・エポックの実験場としても利用した。
 東條政権の末期に社会がようやく安定しつつ日本青年運動の伸長が明らかとなると、いわゆる「闘争派」が文壇に登場することとなる。
 最後に、批評家小林秀雄は戦勝翌年の1947年に『モオツァルト』を発表した。そのころの座談会でイデオロギーに没頭する同時代人と理性崇拝を批判した発言を残したのだが、これこそ世界が崩れ塗り替わっていくなかで現れた、保守主義者の真に骨のある言動だっただろう。

小林 僕は政治的には無智な一国民として戦争に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。
大戦争が終った時には、必ずかくかくなる古い世界を倒そう、世界をこんな風に建設しようという議論が起る。
必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と堕落とを粛清するのか、それさえなければ、起こらなかったか。
どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。
僕は無智だから闘争なぞしない。利巧な奴はたんと闘争してみるがいいじゃないか。

*1:民間人は不明。また大陸での秘密作戦といった統計が存在しないものは含まれない。

*2:本来は1946年4月だったが、戦時中に東久邇宮稔彦王が任期を1年延長した。

*3:ブロック経済内部の貿易を意味する。

*4:後にファシストはこれについて、東條がシベリアと引き換えに中国を明け渡す売国的秘密協定をソ連と結んだと主張した。

*5:満洲国建国の際に訪欧使節団としてドナウに足を運んだ。

*6:戦時措置として常備兵役は17年ほどまで延長されていた。

*7:大東亜共栄圏内部の貿易を担う各船舶会社出資の営団

*8:ベルリンを首都とする旧ドイツ帝国本土中央部に建てられた政権で、アメリカ大陸にあるドイツ帝国とは別。

*9:品種改良と機械化、灌漑化による食糧生産性向上運動のこと。

*10:ドイツ語のgeburtenstarkは英語でいうbaby boomに相当する。

*11:思想検事の経済版。経済・商取引・労働法分野に特化した検事のこと。司法から統制経済を監視、誘導、取締をする目的があった。

*12:ちなみに特に北方方面の外地への強制移住を「島流し」に対比して「陸(おか)流し」と呼んだ。流刑先が樺太島であってもそう呼んだ。逆に南は馬来半島でも「島流し」である。

*13:そもそも検察や警察は軍人に甘く、陸軍刑事訴訟法においても復員軍人の起訴率は異常に低かった。これは軍部の権力だけでなく、社会全体における軍人への尊敬が背景にあった

*14:理事には軍部の要求でジャーナリストの花田清輝が任命されたが、東方会の機関誌に寄稿するなど右翼に近い人物として知られる。

*15:戦時中の弾圧を嫌って上海に移住したが、その後は本土に一時帰国すれど再定住することはなかった。

*16:島尾敏雄(1917-86)は日本の作家。戦時中に配属された奄美での体験がきっかけで、戦後南洋諸島を巡り地誌を書き表し「ヤポネシア」なる概念を示した。妻の島尾ミホも作家である。

*17:不逞息子・娘を母親が更生する物語。

*18:執筆はそれよりかなり前だと言われる。