石原莞爾

石原莞爾(1889-1949)は日本の軍人、思想家。満州事変の首謀者として知られる。最終階級は大将。
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 1909年陸士卒、1918年陸大卒。その後ドイツへ駐在。このころから強い政治的関心を持ち始め、日蓮主義に傾倒し、満蒙の領有を主張するようになる。
 1928年に関東軍参謀となり、1931年に板垣征四郎とともに満州事変の謀略を起こし、満洲建国へとつなげた。アジア主義の時流に乗って出世し、参謀本部にて勤務する。石原はアジアにおける白人支配の排除を主張し、蒋介石政権への軍事顧問は県の旗振り役となった。ただし、蒋介石は石原について、中国東三省を奪った者として快く思わず、軍事顧問団の団長には多田駿中将(当時)が就任した。
 石原は満洲と中国軍事顧問団をもとに「満洲派」と呼ばれる人脈を作り上げた。この派閥は皇道派のような政治的無謀を働くことはなく、高度国防国家の建設という統制派の要求に応え、アジア解放の美名のもとにアジア各国へその影響力を伸ばしていった。
 しかし、石原自身は日本人が白人になり替わりアジアの搾取者となることに反対し、批判した。こうしたこともあり当時の陸軍次官、のち陸軍大臣東条英機と対立し、人事を握る東条の手で石原は開戦直前に予備役に回ることとなった。
 戦争中、石原は戦後秩序の展望を見据え、「東亜連盟」と呼ばれる汎アジア組織を結成し、大政翼賛会の内部野党だった中野正剛ら右翼と協力して、指導部に対するある種オルタナティブな立場を取った。陸軍大臣の東条はこれに対し憲兵を操って弾圧したが、結局東久邇宮稔彦王首相が仲裁したことにより、石原と中野らは命拾いをすることとなった。
 東亜連盟は外務大臣の重光守に部分的影響を与え、1943年の大東亜会議へとつながった。また、東亜連盟の人脈は、戦後設立する国際組織「大東亜連盟」にて生かされるとともに、冷戦時代における日本国内の全体主義運動とアジアの連帯に大きな影響を与えることとなった。
 戦後も東亜連盟は解散されず存続していたが、農民運動出身の政治家である木村武雄の指導下で、戦後政界の主導権を伺おうと大衆組織へと拡大しつつあった。復員兵だけでなく、戦後直後の経済・社会的不安を背景として失業者や零細農民、学生、任侠、朝鮮人労働者など雑多な人々を吸収し、「道義回復運動(道復)」と称して食糧や物資を隠匿する既得権益層である貴族や高級軍人、政治家、警察などを批判し始めた。戦時中は隣組が機能していたが、戦後一気に兵士が復員すると食糧事情が逼迫化し、隣組など人員統制団体が機能不全に陥り、愚連隊をはじめとする大政翼賛会の管理にない自発的な民衆組織が生まれ始めた。戦後の東亜連盟はこうした統制崩壊の最初期の現象と言える。このころ石原莞爾自身は健康上の理由で第一線を引退し、故郷庄内に農場を設けて同志らと農作業にいそしんでいた。
 1947年に東條内閣が成立すると、もともと石原と対立していた東條は警察、検察、憲兵を指揮下に入れて東亜連盟撲滅に乗り出し、同年7月に東亜連盟は閣議で禁止処分が下された。選挙で東條に反抗的立場を取った中野正剛をはじめとするアジア主義者の議員が次々と逮捕され、弾圧のあまりの苛烈さに反東條派人士は満洲へと逃げていき、東亜連盟も木村武雄ら中央幹部を失い分解していった。満洲では在野のアジア主義者によって道義回復運動が継続された。
 しかし、東亜連盟それ自体が解体されたものの、相変わらず東亜連盟躍進の原因だった失業者や復員軍人などは残っており、彼らは各々で各地にまとまり、連隊の同窓会や公衆衛生改善の社会団体などにカモフラージュしていた。戦後軍の武器が米と交換で闇に流れたため彼らは武装していおり、警察も簡単に手出しできなかった。石原は東亜連盟解散後も庄内に残っていたが、大山倍達ら巨体の武道家を身辺警護に置き、さらに石原を支持する学生や復員軍人が武装して守っており、逮捕を免れることができた。
 石原が病気に伏せている間にも、経済・社会的混乱に伴う自発的民衆運動とその弾圧は頻発し、1948年夏には「国鉄三大ミステリー事件」、横浜事件、冬には農地改革事件などが続いた。政府は「粛組」*1と呼んで弾圧を正当化していた。
 その後、石原は1949年に病死した。石原は日本政治の主導権こそ握ることはできなかったが、アジア主義という数十年にわたる政治的流行を国民全体に養ったとされ、名高い人物である。

*1:組とはサンディカリストのこと。