ハインリッヒ・グライスナー

ハインリッヒ・グライスナー(Heinrich Gleißner、1893-1984)はドナウ連邦のテクノクラート、経済計画局局長。

f:id:kodai795:20190825163041j:plainf:id:kodai795:20190825163053j:plain
左:WW1時代 右:晩年のグライスナー

 リンツ出身。プラハのカール大学で法学を修め、第一次世界大戦では第3皇帝銃兵連隊で従軍した。最終階級は中尉。戦間期オーストリア共和国の経済団体や農業団体などで指導的立場を務め、知識と経験を養った。テクノクラートとして成長したグライスナーは1933年に他の官僚と同様にドナウ社会主義労農党に入党する。
 憲法改正後に新設された大統領府経済計画局の局長に抜擢され、テクノクラートとしてドナウの経済再建を指揮した。この際、消費財生産の抑制と生産財と軍需財の増加を行い、アウタルキー(自給自足)経済化を推し進めた。この方針は経済学者ヴァルガ・イェネーや大統領アレクシス・ローゼッカなどによるものだったが、これによりドナウ連邦の財政は急激に悪化していった。
 1937年にルートヴィッヒ・ドラクスラーがフェデバンク総裁を辞任しヴァルガ・イェネーが引き継ぐと、いよいよドナウ連邦の計画経済は歯止めが利かなくなっていった。後年、グライスナーは当時について「やるべきことをやったまでである」と述べている。文句ひとつ言わない姿はローゼッカの歓心を買ったが、実際には傾きつつあるドナウ経済を補填するのに必死だった。グライスナーは寡黙であり剛胆でもあったが、同時に人使いが荒かった。グライスナーがドナウ経済の運営という至難の業をやり抜けたのは、この荒々しい部下の使い方にあるとも言われている。
 戦争が勃発すると軍需省が設置され、グライスナーは経済計画局長を辞し軍需大臣に移った。積極的に占領領土からの資源収奪を行うことで、戦争中でもドナウ国内の食糧や最低限の消費財は極度に不足しなかった。また、グライスナーはドナウ経済の運営上、ホライ・ルーリンツが推進した戦後の植民地構想に賛成した。また、その指導力を買われローゼッカから直々に兵器開発プロジェクトを任せられることもあった。
 戦後、軍需省は縮小しグライスナーは大臣を辞した。その後グライスナーは様々な公団の相談役やドナウ主導の国際銀行の顧問になりつつも、1950年代後半には政界を引退した。