バタイユ・ド=ドゥーヴル

 「バタイユ・ド=ドゥーヴル」または「仏英航空戦」とはWW2における一連の航空戦である。

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左:爆撃を受けたイギリスのロンドン、右:市街地が焼失したフランスのカーン

背景

 1940年春、対独侵攻作戦「ヴァルミー作戦」によりフランスはドイツ、ベルギー、オランダ、デンマークを屈服させたが、イギリスは宥和外交と中立方針を捨て枢軸国へ宣戦布告した。これにより、ドゴール元帥はイギリス討伐作戦の立案を指示し、この作戦の第一段階としてイギリス軍の航空戦力を殲滅することとなった。これがバタイユ・ド=ドゥーヴルである。
 イギリスは宥和外交と中立方針に従い、対独戦争の可能性も視野に入れていたため1930年代の早くから防空整備に注力していた。綿密なレーダー網が整備され、防空監視所をつなぐ通信網は豊富だった。イギリスは万全の備えをもってフランスと戦うことができた。
 いっぽうフランスも、イギリスほどではないが防空対策を行っていた。1932年のドゴール・クーデター直後から重要産業は北フランスから南フランスへと移設され、パリを中心に伸びる鉄道路線は連絡線路を整備することで輸送インフラの柔軟性を高めた*1。防空レーダー網も整備されたが、イギリスほどレーダーの性能は良くなかった。
 バタイユ・ド=ドゥーヴルの初期においてフランス軍は戦術爆撃機での空襲を余儀なくされたが、戦争後半に戦略爆撃機が充実するようになると、イギリスへの空襲は激しさを増すこととなった。

戦役の経過

 ヴァルミー作戦の開始直後からイギリス軍によるフランス空襲はあったが、数は少なく、軍需工場を標的としたものだった。フランス人民空軍はヴァルミー作戦のために作戦中はイギリス空襲を一切行わなかった。
 1940年7月、ヴァルミー作戦が終了していくらか休暇が過ぎると、ドゴール元帥はサンテグジュペリ航空大将に「爆撃機艦隊」によるイギリス本土爆撃の開始を命令し、バタイユ・ド=ドゥーヴルが始まることとなった。
 1940年8月から9月にかけて双方が軍事施設に対する戦略爆撃機を繰り返した。この作戦をフランス側は「レクレール(L'Eclair)」と呼んだ。サンテグジュペリ航空大将が長期戦になる旨を報告したため、戦力を温存するため爆撃頻度は少なくなり、1941年春の東部戦線勃発とウクライナ軍の支援によりフランス軍による爆撃はいったん小康状態に至った。
 

ベドケール爆撃

 作戦名の由来はドイツの著名な旅行ガイドブックである「ベデカー(Baedeker)」から。人民空軍司令部が爆撃目標の選定にあたりベデカーのガイドブックを使用したためである。
 1942年3月、イギリス空軍の副元帥にアーサー・ハリスが就任し、パリを含む無差別都市爆撃を開始した。これに対する報復作戦がベドケール爆撃である。なお、フランス人民空軍はこの作戦で初めて長距離重爆撃機を導入するとともに、体制の刷新を図ることでより効率的な爆撃を行った。
 当時東部戦線では枢軸軍の攻勢中だったので爆撃規模は限られたが、ベドケール爆撃はフランス人民空軍の爆撃作戦の体制を決定づけることとなった。また、このころフランス製の航空レーダー「モンブラン」が欧州大西洋沿岸に配備された。

カプリコルヌ爆撃とフランティック爆撃

 1942年末、ついに北米大陸アメリカ・サンディカリスト国とイギリスが交戦を開始すると、イギリス軍は軍需物資が不足しがちになりフランス空襲の頻度も低下していった。
 フランス側も1942年末に東部戦線でロシア軍の反撃を許し、戦略爆撃に戦力を回す余裕がなかった。1943年は、仏英間の戦況は比較的平穏だった。
 1944年になると、ドゴールは英本土上陸戦を意識するようになり、前準備としての積極的な爆撃をサンテグジュペリ大将に命じた。こうして発動したのが「カプリコルヌ爆撃」である。この作戦では当初軍需産業拠点を中心に爆撃していたが、3月24日未明のパリ空襲で多大な死傷者が出ると、ドゴールを含むフランス軍民の復讐心に火が付き、それ以降は民間人居住地域へと爆撃対象をずらしていった。
 そのころ、ブリテン島の隣にあるアイルランドでは参戦派と中立派の内戦が勃発し、仏英両軍が出兵していた。サンテグジュペリ大将は二重三重の監視網があるドーバー海峡ではなく、今まで試みられていなかったアイルランドデンマークなどからの爆撃作戦を立て、これを実行した。この作戦を「フランティク爆撃」と呼ぶ。
 一方イギリスも、フランスだけでなくオランダや西部ドイツのルール地域などにも爆撃をし、戦争遂行上必要なフランスの工業力を攻撃した。フランス軍は軍需工場を南フランスやスペインに移転することで対応した。

ジゼル爆撃

 1945年から1946年にかけての対英爆撃は「ジゼル爆撃(Giselle)」といい、ブリテン島内の港湾施設や鉄道施設などを中心に空襲が行われた。
 1946年3月、ついに対英本土上陸戦である「リヨン・ド=メール作戦」がなされ、空襲で疲弊したイギリスはわずか4か月後の1946年7月に本土を放棄してカナダに逃れた。それまでも英空軍はあきらめず、夜間爆撃を中心に空襲を続け、たびたびパリが爆撃された。
 このように、フランス軍に取る英本土攻略の裏に戦略爆撃が大きな意味をなしたのは言うまでもないが、その代償は高くついた。戦争終結までバタイユ・ド=ドゥーヴルにより北フランス、オランダ、ルール地方はただならぬ被害を受け、フランスにおいては約12万人の民間人が死亡した。パリ市は市街の3割が焼失し、最前線の工業都市リールにいたっては6割が焼失した。
 イギリスは大都市を中心に平均5,6割が焼失したことに加え、鉄道網が壊滅的に破壊された。輸送の破壊は食糧難を生み、さらに終戦直後から1947年まで異常気象が続いたこともあり、イギリスでは餓死者まで発生することとなる。イギリス側の民間人の死者数推計はバラツキがあり、30万から50万人であるといわれる。

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バタイユ・ド=ドゥーヴルで活躍した仏人民空軍の爆撃機。左:SNCAC150. 右:SNCASE200. SNCASE200. はヴァルミー作戦後に発見されたドイツ空軍の試作機を基に開発したといわれる。
 

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左:イギリスの戦災孤児 右:パリ空襲後に撮影された児童の死体
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イギリス軍の空襲で壊滅的被害を受けた、西部ドイツのルール地方にあるヴェッセル

*1:これは防空上の理由だけでなく、万一ドイツが先制侵攻してきた場合、国境とパリを失っても抵抗できる態勢を構築するためでもあった。結果的に、これが防空上有利に働くこととなった。