汎ドイツ同盟史

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ローゼッカ大統領とゲーリング総統(1941年) ドナウ党と汎ドイツ同盟の関係は深く、理論的にも相互影響していた。
 
 汎ドイツ同盟とはドイツ帝国、そしてドイツのWW2敗戦後に建てられた臨時政府、ドイツ民族国における政治団体である。汎ゲルマン主義イデオロギーを掲げ、積極的な対外進出政策を訴えつつ、WW1以降は全体主義政党となっていった。

 

前史からWW1まで

 神聖ローマ帝国の崩壊とプロイセン主導によるドイツ統一後、ドイツ国外のドイツ人居住地域を統合しようという汎ゲルマン主義が称揚された。こうした汎ゲルマン主義は知識人やエスタブリッシュメントを中心に支持者を持ち、いくつかの政治団体が生まれては分裂していった。
 汎ドイツ同盟はドイツにおける汎ゲルマン主義団体のなかで最も成功したものであり、長い歴史を持つ。
 1891年にカール・ペーターズの支援でベルリンにおいて汎ドイツ同盟は誕生した*1。初期のころの名誉会員にはペーターズの他にかの元宰相オットー・フォン・ビスマルクがいたように、このころからすでに汎ドイツ同盟は汎ゲルマン主義を介してドイツ帝国の中枢と繋がっていたといえる。このとき掲げていた政策は艦隊建設、少数民族のドイツ化、拡張政策であり、まさにドイツ政府のそれと重なっていた。
 初期の汎ドイツ同盟は財政的理由や内部対立もあってあまり活発ではなかった。しかし、1903年にハインリッヒ・クラースがカリスマをもって台頭し始めると、汎ドイツ同盟は次第にその性質を変化していった。
 クラースはまず皇帝ヴィルヘルム二世やベルンハルト・フォン・ビューロー首相を猛烈に批判し、さらなる強硬な汎ゲルマン主義的政策を断行するよう主張した。この直後、当時の政府の抗議に遭いクラースはやや主張を穏健化させたとはいえ、こうしてクラースは汎ドイツ同盟員の支持を確固たるものとした。1908年にクラースは汎ドイツ同盟の代表に選出された。
 汎ドイツ同盟はメンバーを増やし、各分野に姉妹団体を持った。WW1で急成長する大衆政治団体「ドイツ祖国党」もその一つである。
 汎ドイツ同盟はこのころ、いわゆるフェルキッシュ運動の影響を受け、よりイデオロギーを複雑に、豊かにしていった。いわゆる「ドイツ語が聴こえるところは皆ドイツ」というスローガンで知られるドイツ語による汎ゲルマン主義に加え、人種による汎ゲルマン主義が構築された。汎ゲルマン主義と人種主義の関係は、社会ダーウィニズムと呼ばれる野生動物の闘争と勝利を社会的観念に植える思想が当時伸長していたことと関連がある。
 人種主義の影響を受け、すでにこのころから汎ドイツ同盟内では反ユダヤ主義が大勢となり、しばしばドイツからユダヤ人やスラブ人などの「劣等人種」を追放させることが主張されていた。また、フェルキッシュ運動における国家観の変革、いわゆる国家→国民から国民(Volk)→国家への変化を汎ドイツ同盟は受容し、これに加え人種的に優良かつドイツ的価値観で構成されたVolkによる独裁国家という国家像を創造していった。
 つまり、汎ドイツ同盟による国家像は反議会主義であり反自由主義であり、それらはフェルキッシュ運動における「反英米思想」に繋がっていた。

WW1とルーデンドルフ独裁

 WW1が勃発すると汎ドイツ同盟は戦争協力に従った。当初は国民向けの戦争プロパガンダを行おうとしていたが、ブルジョア反自由主義を主張する汎ドイツ同盟を嫌っていたため、間もなく軍部向けの宣伝活動へ移行していった。
 特に汎ドイツ同盟は軍部のエーリッヒ・ルーデンドルフとのつながりが深く、戦後構想におけるバルト地域(エストニアリヴォニア、クールラント)の併合を提案したとされる。このほかにも、オーストリア革命における中欧への介入と、ハンガリーを属国化し旧オーストリア帝国のドイツ人居住地域を併合するための干渉を行うようロビー活動を行い、一部は実行に移されたが、革命軍の強い抵抗に遭い失敗した。こうしたドイツの干渉を押しのけて誕生したのがドナウ連邦である。
 また、ルーデンドルフ独裁の混乱期においては、頻発するサンディカリストコミュニストによるテロルに反撃するため、同盟員ゲオルク・エッシェリッヒによりルーデンドルフの黙認の下、いわゆる「エッシェリッヒ組織」と呼ばれる民兵が創設された。これはオーストリア内戦における民兵の活躍に影響を受けた組織である。
 ルーデンドルフ失脚の際、エッシェリッヒ組織は解体され汎ドイツ同盟はその影響力を後退せざる得なかった。姉妹団体であるドイツ祖国党出身の首相アルフレート・フォン・ティルピッツ*2は国内融和の観点から汎ドイツ同盟と距離を置いていた。
 こうして、汎ドイツ同盟は戦争終結後のつかの間の安定とともに、イデオロギーを穏健化させるようになった。

ゲーリングの台頭

 クラースは老いや情勢変化などもありかつての勢いを失い、汎ドイツ同盟とドイツ祖国党の拡大と戦争終結により、より広範かつ穏健な人々を新たな同盟員に迎えざる得なかった。その多くは知識人や軍関係者であり、大戦の英雄ゲルマン・フォン・ゲーリングが加入したのもこのころである。また、ルーデンドルフは1923年に失脚すると正式に加入した。
 大戦の英雄であるゲーリングブルジョアにも顔が広く、汎ドイツ同盟の資金調達で活躍した。このころの汎ドイツ同盟は規模を大きくしたとはいえ、知識人向けの理論サークルであることには変わりなかった。また、当時はゲーリングよりもルーデンドルフ一派が権力を持っていた。
 1920年末から21年にかけてはロシアのボリシェヴィキ政府打倒を支援するべく、各地でフライコール(民兵)が設立され汎ドイツ同盟もこれに倣った。エッシェリッヒは軍務に不適格として民兵組織から除外されたことで、エルンスト・レームやグスタフ・フォン・エップ、フランツ・フォン・ザロモン、ゲルハルト・ロスバッハといった後の党幹部が出世を果たす機会が与えられた。
 ゲーリングもこのロシア遠征に参加しているが、そこでドナウ社会主義労農党機関紙『労農兵』の主筆ホライ・ルーリンツと知り合う機会を得た。二人はある程度の政治的一致を見、協力関係を結んだ。これは後のゲーリングとアレクシス・ローゼッカとの関係に繋がっていく。
 ロシア遠征の結果、汎ドイツ同盟は民兵を経由して多数の非知識人同盟員を抱え込むこととなり、同盟の大衆政党化への足場を築いた。戦争終結で彼らが失業者になると、ゲーリングは調達した資金で彼らを養うことで存在感を示した。
 また、このころのイデオロギー的変化としてゲーリングの主導でアフリカ入植に関する理論研究が進んだことである。それまで汎ドイツ同盟はアフリカにはあまり関心を持たず、ポーランドバルト海沿岸への入植に賛成してきたが、WW1の勝利で領土が東に広がると、現実となったこの主張に熱意を燃やす者も少なくなった。一方、父親ハインリッヒがドイツ領南西アフリカの高等弁務官であったゲーリングはアフリカ植民に目をつけ、アフリカ入植による失業者救済を主張するようになった。
 これと同時に、汎ドイツ同盟の理論家アルフレート・ローゼンベルクらはアフリカ入植地にフェルキッシュ運動に基づく理想国家のモデルを造るべきと述べ、受け入れられた。
 ゲーリングは破竹の勢いで支持を伸ばし、1925年には汎ドイツ同盟議長に就任、直後に役職名を議長から「指導者(Fuhrer)」に変更した。

ゲーリングの総督就任

 ゲーリングによる大衆政党化路線で1928年には初の選挙デビューを飾り、汎ドイツ同盟の名を知らしめた。しかし、ルーデンドルフとともに失脚した軍人や政治家が少なからず所属しているこの政党に対しフォン・ティルピッツ首相は危機感を抱き、ゲーリングを東アフリカ総督に指名し本国から引き離す奇策に出た。
 総督就任の辞令を秘書ルドルフ・ヘスにより知ったゲーリングは、少々悩んだ末ににかっと笑い「まあいいじゃないか。ウィントホーク*3産のビールさえあるなら心配いらん」と言って承諾したという。これに周囲は大いに驚いた。
 ゲーリングが東アフリカ総督に就任したことは、結果として汎ドイツ同盟内部のゲーリング派とルーデンドルフ派の分裂をよりはっきりさせた。ゲーリング派の有力幹部の多くは東アフリカにわたり、本国では秘書のルドルフ・ヘスが総統代理となったが、ヘスは有能とは言えなかった。このため、本国におけるルーデンドルフ派の巻き返しを許してしまうこととなった。
 東アフリカでは汎ドイツ同盟の支部が急速に構築され、トーゴカメルーン、北ローデシエン、コンゴ、南西アフリカだけでなくドイツ国外の南アフリカでも類似組織ができた。ゲーリングは現地の産業家らと手を結び、政治的便宜と引き換えにドイツ領北ローデシエンにある「クッパーギューテル」*4の開発会社「北ローデシエン会社」に参加し、銅山から安定した資金を手にした。また、北ローデシエンに関しては、同じく銅山を有するカタンガ地域をドイツ領コンゴから引き離し北ローデシエンに統合することにも成功している。
 このように、ゲーリングはアフリカに左遷されたどころか、むしろ強力なコネクションと資金を手にし、目玉だったフェルキッシュ運動に基づく入植事業に心置きなく取り掛かることができた。
 ゲーリング総督のアフリカ統治について、詳細は専門家に筆を譲りたい。簡単に述べれば、おりしも当時本国では恐慌によりあふれていた失業者を東アフリカに植民させると同時に、彼らをイデオロギー的に教化し汎ドイツ同盟の忠実な支持者としていった。当時ヨーロッパでは全体主義が台頭していったように、資本主義に対する不信感が拡大しWW1時代の清貧で団結した戦時体制へのノスタルジーが広がっていた。ゲーリングの植民事業はまさにこれに応えるものだった。
 東アフリカ植民者の多くは商人ではなく、農民だった。原住民から身を守るために兵士のように武装し、塹壕にとどまるように農地からは離れられない。荒野を開拓する作業は不毛ながらも、都市産業から最も遠い姿であり、忙しい都市生活に嫌気がさした都市労働者出身の開拓者には好評だった。ゲーリングは東アフリカ総督府を通じ彼らを支援し、ときには汎ドイツ同盟の民兵を用いて原住民を鎮圧していった。
 また、ドイツ本国では「サバンナの花嫁」を募集し、集まった職なき若い女性を格安で東アフリカに渡航させ、開拓農民と結婚させた。こうして開拓者は安定を手にした。本国ではいつ職を失うのか、結婚できるのか不安で神経を削られていた開拓者にとって、かつてのWW1の塹壕のような清貧な連帯と、花嫁を迎えて家庭の未来と安定を手にしたことはこのうえない幸福であり、都市生活に対する最も強力なアンチテーゼだったのだ。
 都市vs農村――都市vs塹壕――都市vs開拓というドイツ人の漠然とした観念は汎ドイツ同盟の理論に一致し、実行されたのである。また、同時代に極東で行われていた日本による満蒙開拓との関連性も指摘されている。
 人種主義も東アフリカで実践された。まず、ユダヤ人は開拓農民になれず開拓地の都市部における商人にしかなれなかった。総督府の官吏もユダヤ人の新規雇用を停止した。誰がユダヤ人にあたるかを定めるために「アーリア条項」がドイツの公的機関で初めて適用されたが、ゲーリング自身があまり反ユダヤ主義に熱心でないため厳しいものではなかった*5。しかし、アルフレート・ローゼンベルクといった党内の反ユダヤ主義過激派はこれに満足しなかった。
 キリマンジャロから南東に数百キロ下ったモロゴロ*6ではアフリカ発の優生学研究所が設置された。1931年にドイツ人種学の権威ハンス・ギュンターが招聘され、アフリカの原住民に対する人種学的研究が行われた。この結果に基づき、ゲーリング総督はアスカリ*7から「劣等人種」を排除し、比較的「優良」な原住民を当てた。具体的には多数を占める「バントゥー亜人種」を劣等として差別し、比較的少数派である「ナイロート亜人種」*8と「ハム人種」*9を比較的優勢とし、アスカリや植民地行政に登用した。つまり、原住民を人種で区分する分断政策だった。
 人種的に優良なドイツ人を頂点とし、比較的優良なナイロートとハムが優秀な下僕となり、最後に劣等なバントゥーが奴隷的労働力となる人種に基づく支配の構図が完成した。
 

民族社会主義の形成

 汎ドイツ同盟の民兵組織は大小さまざまだったが、フランツ・フォン・エップが指揮する東アフリカ植民地における開拓農民の民兵「民族突撃隊」が成功すると、本国の汎ドイツ同盟でも民兵組織の統一化が図られた。ルーデンドルフ派のフランツ・フォン・ザロモンは類まれな指導力を発揮し、1932年に本国における民族突撃隊を創設、最高司令官*10に就任した。副官にはザロモンを牽制すべくゲーリングの旧友であるヴァルター・シュテンネスが選ばれた。
 ルーデンドルフの存在は汎ドイツ同盟と軍部の関係を確固たるものにしたが、軍部出身者はローゼンベルクのような理論を疎み、ゲーリングのような大衆政党路線を嫌っていた。一方で、軍部との関係は民族突撃隊を構成する優秀な将校をもたらした。
 1935年、ゲーリングは総督の任期を終え本国に帰還した。
 1929年の世界恐慌のダメージを抑えていたドイツだったが、1930年代初頭になるとこれを抑えきれず次第に失業者が路頭に現れるようになった。ポーランド人労働者はドイツ人より安い賃金で働くためポーランド人労働者に置き換えられると、仕事を失ったドイツ人はフライコールを結成しポーランド人を襲撃するようになった。ポーランド人もまたフライコール*11を結成し報復した。加えて、サンディカリストによるテロも後を絶たず、労働運動に対してはサンディカリストの疑いをかけられリンチが行われた。
 このようにドイツ社会が血生臭くなると、汎ドイツ同盟の民族突撃隊は勢力を拡大しこのような闘争に投入された。民族突撃隊は反サンディカリズムの立場から経営者にスト潰しとして雇われたり、ポーランド人フライコールに対する闘争で名を上げていった。
 さらに、このころ汎ドイツ同盟は従来の人種主義的理論とは別に全体主義理論を構築していった。同盟員だったエルンスト・ユンガーやローゼンベルク、グレゴール・シュトラッサーらはファシズム全体主義的ソレリアニズム、ドナウ社会主義の影響を受け、汎ドイツ同盟のイデオロギーを実際の国家統治に具体的に適応させようと研究を行った。こうして完成した理論は「民族社会主義(Volkssocialismus)」と呼ばれるようになる。
 民族社会主義は他国の主要な全体主義と同様に反資本主義と反議会制――具体的には計画経済と独裁制を挙げているが、特徴的である点は人種主義がふんだんに用いられている点である。
 ギュンター博士の人種分類を基に、ドイツ人は最も優秀な北欧人種の継承者であるとしつつ、歴史は人種間の闘争の歴史だったと結論付けた。民族社会主義革命はドイツ人における人種の革命であり、人種の闘争における障害に対する闘争は不可避であるとした。その障害こそユダヤ人種だった。
 民族社会主義における反ユダヤ主義はその反資本主義と一致している。自由放任な資本主義経済において真っ先に成功したのがユダヤ人であり、ユダヤ人を成功させた資本主義は恐慌と退廃でドイツを堕落させ、人種的優等を怪我したとした。人種の良化=ドイツの良化であり、その逆もまた真であるという。そのため、民族社会主義革命においては速やかにユダヤ資本は停止され、ユダヤ人は国外追放されねばならないと主張している。
 こうした民族社会主義革命を行った後についても、民族社会主義は述べている。民族社会主義に教化された社会は、強力な国家の指導者とともにあって初めて成り立つ。このような社会を民族共同体という。国家指導者は民族共同体を導き、民族共同体はこれに服従する。これを指導者原理という。民族共同体と指導者原理についてはドナウ社会主義の影響が見られている*12
 このような民族社会主義は模範的な全体主義だったが、同時にその過激さもあり1930年代ドイツでは賛否両論だった。もっとも、民族社会主義における指導者は、明らかに皇帝大権に触れたものであり、汎ドイツ同盟に共和主義者が少なくないことも問題視された。
 しかし、時代は変革を求めていた。世界恐慌後、経済と外交においてドイツ政府は無為無策であり、社会変革を求める声が高まった。とりわけ、経済面において時代遅れの金本位制と自由放任主義固執していたように、ドイツ社会が硬直化し若い世代がなおざりにされているという意見は当然として受け入れられた。WW1で活躍した将軍たちは莫大な農場を手に引退生活を楽しむ一方で、WW1で戦った兵士の多くは失業していた。当時の社会改革に対する欲求は、世代間対立を含むものだった。
 1935年にはバイエルンコーブルクで民族社会主義シンパの帝国軍兵士らによる反乱が起きた。ゲーリングら汎ドイツ同盟指導部と彼ら反乱軍は直接の関係を持たなかったが、同盟は捜査を受け、世間から疑惑の目を持たれた。結局、民族突撃隊に内通者がいることが判明し、彼らが逮捕されたことで民族突撃隊総司令官フォン・ザロモンは失脚した。この事件は汎ドイツ同盟の党勢に少なからぬ悪影響を与えた。
 1936年にはフォン・パーペン首相が右翼青年に暗殺され、前年の事件もあり民族社会主義の伸長を世論は恐れ、この年の選挙によりドイツ初の社会民主党政権が設立した。社会民主党のオットー・ヴェルス首相は「反ファシズム委員会」を設立し汎ドイツ同盟を弾圧、民族突撃隊は解散を余儀なくされた。
 しかし社会民主党政権も失策続きで、1938年に政権を手放すとドイツ保守党政権*13に交代した。汎ドイツ同盟は閣外協力と引き換えに反ファシズム委員会を解散させ、民族突撃隊は復活した。
 帝国議会議席を見ると、とりわけ1938年の社会民主党政権崩壊以降汎ドイツ同盟は急成長しているといえる。これは、もともと汎ドイツ同盟と社会民主党政権は都市部の労働者・中産階級に支持層を持つ政党で、お互い票田を奪い合っていたこと、さらに社会民主党政権の失敗で社会民主党票が一気に汎ドイツ同盟流れたことを示している。逆に言えば、1936年の社会民主党政権成立は、右翼テロの恐怖で汎ドイツ同盟の票が社会民主党に移ったといえる。
 議会戦術においては、議席数の少ない*14汎ドイツ同盟は他の保守派政党との協力を模索していた。ティルピッツ政権を支えたが1930年の選挙で大敗、党組織も分裂したドイツ祖国党は汎ドイツ同盟と協力関係を結んだ最初の党である。また、コーポラティズムという理論面においては、社会民主党や産業界に支持された進歩自由党も興味を示し、相互に影響していた。

WW2と分裂

 1940年にフランス人民軍の「ヴァルミー作戦」で西部国境が突破されると、皇帝ヴィルヘルム二世はベルリンを脱出し議会は降伏を受け入れた*15。これに対しノルウェーを経由し国外亡命した皇室や軍の一部、貴族などはこれを不服とし「ドイツ帝国亡命政府」を立ち上げ徹底抗戦を訴えた。
 汎ドイツ同盟のゲーリング総統は敗北を認め、枢軸国の下でドイツを再建するという立場だったが、これに反対した総統代理ルドルフ・ヘスやオットー・シュトラッサーなど一部の同盟員は帝国亡命政府に従い亡命した。彼らは戦後北米で再建されたドイツ帝国において「民族社会主義自由運動」を結成することとなる。
 一方、ドイツに残った勢力はベルリンの「ドイツ臨時政府」に参加した。臨時政府は全体主義を樹立するべくアウグスト・フォン・マッケンゼンを国家主席に擁立し、議会は自主解散し「主席会議」に改組した。ただし、臨時政府は汎ドイツ同盟の独裁でなく、汎ドイツ同盟以外の保守革新を含むあらゆる勢力による「人民戦線」であり、与党も政党連合「ドイツ民族戦線」だった。ドイツ民族戦線内において汎ドイツ同盟は急進派と見なされていた。
 ゲーリングは臨時政府のさらなる全体主義化を要求する一方で、枢軸国であるドナウ連邦への協力に賛成した。WW2において旧ドイツ帝国領土の大部分はフランス、ドナウ、ポーランドの三国に占領されており、占領領土の返還が喫緊の課題だったためである。ゲーリングはフランスとポーランドを対手とせず、民族社会主義に近いドナウ社会主義が支配するドナウ連邦を「戦友」と呼び、戦争協力を通じてフランスやポーランドを含む占領領土の返還を目論んだのである。
 汎ドイツ同盟はドイツ民族戦線内閣への入閣も果たし、非占領地域の産業を軍需化し武器や弾丸をドナウに送っていった。民族突撃隊はドナウの連邦保安省の要請で「ドイツ義勇軍団」を編成し東部戦線に参加した。このように、戦時中におけるドイツ臨時政府の貢献は多大なるものだった。ゲーリングは国民に向け何度も領土奪還を約束し、支持を失うまいとしていた。

ドイツ民族国の建国とノイプロイセン植民

 ドイツ臨時政府の主席で老齢ゆえ事実上の傀儡と化していたアウグスト・フォン・マッケンゼンが亡くなったのは1945年11月だった。しかし、ドイツ臨時政府は汎ドイツ同盟を含む各派の微妙な均衡の上に成り立っており、その後継者をめぐり政治的混沌へと突き進むこととなった。
 ゲーリングは無論自身の国家主席就任を訴え、反ゲーリング派は結集し臨時政府初代総司令官のゲルト・フォン・ルントシュテット国家主席に推薦した。臨時政府内部の議論はまとまらず、ゲーリングを擁する汎ドイツ同盟と民族突撃隊、フォン・ルントシュテットを擁する軍との対立は、ドナウ連邦とフランスコミューン、ドナウ連邦内での連邦保安省と外務省の対立もあり、国家主席はひとまず空席にし、最高会議暫定委員会が政権を代行することとなった。
 1946年夏にWW2は終結し、ドイツ問題がド仏間でも本格的に議論され始めた。フランスはサンディカリストを新生ドイツの与党に加えたかったが、ヴァルミー作戦での蛮行もありドイツにおいてサンディカリズムはあまりにも不人気で、少数派だった。むしろ汎ドイツ同盟の隆盛が示すように、新生ドイツが選ぶであろうイデオロギーは、ドナウ連邦のそれに近かった。
 1948年10月28日ゲーリングの盟友ローゼッカが死去すると、ド仏はイデオロギー対立を強めていった。これは外交にもおよび、ドイツもそれを免れることができなかった。このままドイツを統一させれば親ドナウ国家が誕生すると恐れたフランスは、1949年5月、占領地域に傀儡政府を設立しドイツ臨時政府から分離した。全土を統一する方針だったドナウ外務省と連邦保安省は痛手を負い、テオドール・ハビヒト外務大臣は失脚した。ドイツの領土奪還を掲げたゲーリングの面目は完全につぶれた。
 この事件をきっかけにドナウ連邦はドイツの分裂を認めざる得なくなった。同年10月にはドナウのカール・グルーバー新外務大臣*16ルントシュテットを推薦し、ゲーリングは政治的に敗北した。
 ゲーリングは主席会議に留まったものの、失脚は時間の問題だった。加えて、民族突撃隊と軍の衝突事件が起きたのもそれに拍車をかけた。
 しかしゲーリングはこれで終わらなかった。連邦保安省はゲーリングに東アフリカでの国家建設という助け舟を出した。当時ポーランドが占領していたオーデル=ナイセ以東からドイツ人が続々と追放されており、ドイツ臨時政府は彼ら難民の対処に終われ食糧が不足していた。臨時政府は飢餓を避けるためドナウの連邦保安省と協力し、難民を旧東アフリカ植民地に植民するという巨大事業を開始しつつあった。
 偶然にも旧ドイツ領東アフリカ植民地は戦時中においても汎ドイツ同盟政権により中立が宣言され、戦後ドイツ臨時政府への合流が模索されていた。くわえて、大量のドイツ人植民にあたり実施されていたバントゥー系原住民の絶滅作戦では連邦保安省だけでなく民族突撃隊の義勇兵が活躍していた。ここにゲーリングが参加すれば政治的に復権できる可能性は十分にあった。
 ゲーリングは領土失陥の代わりとしてドイツと旧東アフリカ植民地の合邦と同時に、同地への植民を宣伝した。東アフリカ植民地――後の「ノイプロイセン」への植民について詳細は別の機会に筆を譲るが、結果として大成功した。戦時中から徐々に構築されていた全体主義的な国民の相互組織はまさに民族共同体と呼ぶにふさわしいほど有機的に働き、効率的にドイツ人300万人をノイプロイセンに送り込んだ。また、入植者は原住民の脅威に対応せねばならなかったため、入植者の全員が民族突撃隊と汎ドイツ同盟に参加することとなった。
 このような植民事業はノイプロイセンよりも小規模ながら旧北ローデシエン植民地でも行われた。

汎ドイツ同盟の終焉と汎プロイセン同盟の誕生

 植民事業は成功したが、ゲーリングの政治的復権は失敗した。結局、1949年にルントシュテット国家主席とする「ドイツ民族国」が成立した。その領土はメクレンブルク、ブランデンブルクザクセン、西ポンメルンという非常に限られたものであり、ゲーリングの理想からはかけ離れていた。同年ドイツ民族国におけるゲーリングの私的な諜報機関である「民族突撃隊調査局」が強制解散され、ルントシュテット派により秘密警察「国家保安省」*17が設立されゲーリング派は次々に失脚、逮捕、あるいはノイプロイセンに追放されていった。
 アフリカとドイツを支配するというゲーリングの儚い夢は敗れた。結局、ゲーリングは東アフリカ地域の独立を連邦保安省の支援で達成し、同地を「ノイプロイセン」として建国した。ゲーリングはノイプロイセンの総統となった。ドイツ本土の汎ドイツ同盟は1951年に強制解散し、ノイプロイセンの汎ドイツ同盟は「汎プロイセン同盟」に改名された。
 一から国家を建国したプロイセンにおいて、汎プロイセン同盟は汎ドイツ同盟とは異なり国家機関や法人を監督し、監視する必要はなかった。ノイプロイセンに存在する組織は汎プロイセン同盟、民族突撃隊、軍のみであり、あらゆる組織、あらゆる産業、あらゆる共同体はこれらにより設立されたのだ。
 ゲーリングはこうして新国家を好きなようにゼロから造り、失脚の心配もなくその死まで玉座に居座ることができたのだ。
 さて、そのノイプロイセンがどのような国であったかという詳細については、別の機会で述べることとする。

参考文献

G.L.モッセ『フェルキッシュ革命――ドイツ民族主義から反ユダヤ主義へ』(柏書房, 1998年)
K.ザンダーリング『汎ドイツ運動史』(民明書房、2001年)
ポジョニー B.『戦時における大陸ドイツ』(ハイドゥ書店、1981年)

*1:このころの団体名はAllgemeine Deutsche Verband。1894年にAlldeutscher Verbandに改名された。

*2:ルーデンドルフ失脚から1929年までの首相。

*3:ドイツ領南西アフリカの都市

*4:「銅山地帯」とも訳される。北ローデシエンからカタンガにかけて存在する銅山の集中地域である。

*5:この際のアーリア条項では両親がユダヤ人を自認または本人がユダヤ教徒の者がユダヤ人とされた。

*6:後に地名のアーリア化でヴィルヘルムシュタールに改名。

*7:植民地軍で原住民により構成される兵士。

*8:マサイ族など。

*9:エチオピアのアムハラ人やソマリア人などを指すが、他にもルワンダブルンジにおけるツチ族、海岸部に住むスワヒリ語を話すムスリム系黒人も含まれた。

*10:この際民族突撃隊員はルーデンドルフゲーリングに忠誠を誓った。

*11:この際在独ポーランド人の間で台頭したのが民族急進同盟であり、ファシズム団体だった。

*12:ドナウ社会主義において民族共同体は「人民共同体」と呼ばれた。

*13:首相はカール・ゲルデラー

*14:ドイツ帝国選挙制度は地方の票が都市よりも重くなる不公平なものだった。汎ドイツ同盟は農本主義を掲げつつも都市住民に支えられていた。

*15:汎ドイツ同盟は反対票を投じた。

*16:ドナウ外務省はドイツでの反ユダヤ主義の高まりと反ユダヤ主義暴動、それに伴うドナウへのユダヤ人難民の増加を懸念していた。もしゲーリングが政権を取れば、ドイツの混乱とユダヤ人の絶滅は不可避だった。

*17:Ministerium für Staatssicherheit、通称「ライヒシ」。