フランスコミューンの概要

「フランスコミューン」、通称「フランス」はヨーロッパ大陸に位置する国家である。ここでは、1919年から1946年までのいわゆる戦間期からWW2終戦までの期間を取り扱う。

クーデターを歓迎する労働者。掲げているポーズはドゴールへの忠誠を示す。(1932年)


 フランスコミューンの正式な国号は「Commune Française」である。ここでの「Commune」は「コミューン」という名の政体を示し、「フランス共和国」における「共和国」に当たる。この名が示す通り、フランスは共和国ではなくコミューン制という「労働者と兵士の独裁」国家であり、1919年8月1日にWW1敗戦の混乱のなか革命を経て誕生した。
 フランスコミューンは基本的にフランス共和国本国の領土を引き継いでいる。しかし、アルザス・ロレーヌ地方に面するナント市地域はWW1敗戦の際にドイツへ割譲された。西アフリカと赤道アフリカを中心に保有していた共和国時代の植民地は、アルジェリアチュニジアを除いてすべてドイツに引き渡された。フランスがWW2でドイツを打ち負かし、これら領土を奪還するまで「失地回復」はフランスにとって重要なテーマであり、フランスコミューン政府と国民の間における最低限の合意の一つだった。
 

歴史

 詳しくは「戦間期フランスコミューン政治史(前編)」と「戦間期フランスコミューン政治史(後編)」を参照のこと。
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思想

「国民革命」(1938年)

 フランスコミューンでは共和制時代の伝統から、ドゴール独裁体制においてさえもある程度の政治思想の自由があった。しかし共和制時代の自由が「国民国家と共和制の肯定」という最低限の基準を前提としたものだったように、コミューンにおいても同様の最低限の思想的基準があった。それが「失地回復」、「対独復讐」、「コミューン制の肯定」だった。これらへの忠誠はドゴール体制により一層強化された。
 1920年代におけるコミューン政府の失政はドゴールのクーデターといくつかの新勢力の台頭をもたらした。こうした様々な政治思想はドゴール体制に集結し、「国民革命」と呼ばれるフランス全体主義を形象していった。ここでは国民革命を構成する思想を列挙する。

ソレリアニズム

 ジョルジュ・ソレルはフランスの思想家である。その思想はサンディカリズムを生み、やがて全体主義を生んだ。ソレルの思想を意味する「ソレリアニズム」は時代の要求に従って微妙に変化していった。ソレリアニズムがコミューン政府成立と国民革命という二つの革命に関わっているのは、ソレリアニズムがサンディカリズムから全体主義の行動哲学へと変化していったからに他ならない。
 ソレリアニズムの本幹は力を「フォルス」と「ヴィオランス」に分け、前者は自由と平等を抑圧するもの、後者はフォルスを倒す力であると規定したことである。1919年の赤色革命で打倒された共和制がフォルスであれば、労農はヴィオランスだった。
 こうした哲学は国民革命でも継承された。初期のソレリアニズムから変化した点は、ヴィオランスそのものが目的となり、フォルスに対する闘争が永遠に続くという「永久闘争」、何がフォルスであるかを指定し大衆を闘争へと駆り立て煽動する「前衛党」の存在である。国民革命で発露したソレリアニズムの変化はさらに戦闘性を現し、前衛党が打倒すべき不当な権力であるとした帝国主義――ドイツ帝国に対する激しい憎悪が掻き立てられた。「対独復讐」はソレリアニズムにより強化された。WW2の対独侵攻作戦にて憎悪が爆発し、フランス兵によりドイツ人に対し非戦闘員含め激しい虐殺が展開されたことは言うまでもない。
 なぜソレリアニズムがより戦闘的になったか――この疑問に対しペーター・ドルッカーはこのように答えている。
 WW1における塹壕戦の経験は戦前における「自由・平等・予測可能な合理的未来」という幻想を無慈悲に破壊した。この大事件は「自由・平等・予測可能な合理的未来」の正反対である軍隊組織の魅力を高め、戦争終結後もミリスといった軍隊組織が発達した。この塹壕戦が全体主義を生んだ。国民革命でのソレリアニズムは「全体主義的ソレリアニズム」と言うことができる。「自由・平等」の価値が正反対に暴落し、ヴィオランスとフォルスは入れ替わった。全体主義におけるヴィオランスは「不自由・不平等」を訴え、それはまさに軍隊組織と塹壕戦の論理そのものである。そしてヴィオランスは全体主義以前の「旧世代」のあらゆるイデオロギーに対し終わりなき闘争を行っている、と『英雄人の始まり』で語った。

社会主義

 新社会主義とは1920-30年代に登場した経済理論である。具体的には国家主導の経済運営、計画経済といった経済政策の方式とそれを主導する運動を指している。これと同時に、新社会主義とはレッセフェール(自由放任)な経済政策を取り多くの失業者を出していた「旧」社会主義に対する抗議でもあった。
 新社会主義階級闘争を否定し、国家レベルの協調――コーポラティズム――に置き換えることを主張した。あらゆる経済活動を国家の管理下に置き、テクノクラートによる計画経済を究極の目標とした。新社会主義者は「プラニスト」とも呼ばれ、「建設的革命」というスローガンのもとに結集していた。
 新社会主義運動の興隆は対独復讐とも関係している。具体的な新社会主義政策を始めて実行に移したのはベルギー労働党のアンリ・ド=マンだったが、フランスのスパイという咎で反対派により党を追い出され、フランスへ亡命した。ド=マンは対独抵抗の英雄として迎えられ、新社会主義知名度と評判を向上させた。ド=マンはドゴール体制に参加し、国民革命の一部となっていった。
 ちなみに、1920年代にイタリアファシズムに影響されたグループも新社会主義者を名乗っており、のちに国民革命に合流した。

マルクス主義

 フランスのマルクス主義受容はかなり遅れ、しかもゆっくりとしたものだった。戦間期の時点でフランスがマルクス主義をよく理解していたとはいいがたく、冷戦期のアルチュセールの登場を待たねばならない。コミューン国家成立から国民革命までマルクス主義が与えた影響は、理論面よりもむしろ実践面にあった。
 マルクス主義の実践を伝えたのは、ロシア内戦からフランスへ逃れた赤軍と革命家たちであった。彼らはロシア内戦の死闘を通じ前線の堅い平等と兄弟愛で結ばれ、フランスに逃れた後もミリスとフランス共産党(PCF)に残り内戦時代の秩序と伝統を維持していた。亡命ロシア人らはフランス人と接触し、似たような前線経験を持つことから共感し、社会主義革命の体験や革命中に行われた諸政策をフランス人に伝えていった。具体的には集団農業や産業国有化などで、特に国有化においては新社会主義と通ずるところがあった。
 フランスの亡命ロシア人らは国民革命に参加し、ドゴール体制の中核をなしていった。

社会カトリシズム

 19世紀は近代化の時代だったが、近代化の陰で社会問題が噴出した。カトリックは常に保守派に立っていたことから、近代化に乗り遅れ様々な形で苦しむ人々の側に立ち、近代化の弊害を非難し続けた。特に児童労働や過重労働といった労働問題は関心が高く、1891年の『社会回勅』(レルム・ノヴァルム)が教皇レオ13世により発表された。このようにして、カトリックの社会思想は「社会カトリシズム」として認知された。
 社会カトリシズムが取った反動性は、近代化に取り残された農民の怒りを背景に反乱を起こしたWW1前の労働総同盟(CGT)と似たところがあるだろう。
 フランス世論を歴史的に支配してきた右翼と左翼のうち、左翼の社会政策は新社会主義を、右翼の社会政策は社会カトリシズムを掲げていた。プロセスは異なるものの、両者とも具体的政策は一致しており、国民革命で合流することとなった。

政治

「人民戦線とは闘争なり」(1935年)

 もともとフランスには多種多様な政治勢力があり、コミューン体制でもドゴール体制でもどれか一つの党または勢力が独裁的権力を握ることができなかった。
 コミューン体制では共和政時代の政党がほとんど残された。しかし、選挙権を勤労者に限定したため左翼政党と中道政党が当初政権を独占していた。これに対し、伝統的にカトリックが強い南フランスは不満を貯め、1920年代の叙任権闘争によるバチカンとの対立をきっかけに、1925年に「国民カトリック同盟」が誕生し、約200万人が参加してパリに対する拒否感を伝えた。この過程で共和政時代の右派政党は国民カトリック同盟に人気を取られ消滅した。こうした「もう一つのフランス」によるカトリック運動は、クロワ・ド=フーやドゴールなどに引き継がれた。
 中央議会である労働総取引所には社会党フランス共産党、急進党、民主同盟などが参加した。労働総同盟、労働統一総同盟といった労組連合は、国政ではなく地方のコミューンに参加し中央政党と区分けを行った。ドゴール登場まで地方のコミューンはフランス史上稀に見る高度な自治を有していたので、労組連合は重要な役割を担った。労働総同盟は社会党と、労働統一総同盟はフランス共産党と同盟していたため、この二党は国政でも強い影響力を持った。
 労働総取引所と地方コミューンが左派に独占された一方、コミューン国家の政治はもう一つの舞台を有していた。それは街頭であり、街頭における政党がミリスだった。
 ミリスとは「民兵」を意味し、WW1敗戦の混乱で活躍した非正規部隊を指している。戦争終結で動員は解除され兵士は帰宅していったが、度重なる不況と政治的混乱で軍統制の外にある民兵が多数あった。コミューン国家においてミリスは共和政時代の労働総同盟が担ったような、反議会主義的な一揆を企て、アルザス・ロレーヌでは対独テロ活動を、国内では政治家の暗殺を繰り返した。ミリスの数は数え切れないほど多く、掲げる政治的スタンスの違いを理由にミリス同士の抗争もよくあった。また、社会的観点からするとミリスは自力救済的な社会保障の共同体だった。
 労働総取引所から締め出された右派においてミリスが特に発達した。1920年には退役軍人による「コミューン同盟」、1924年には「愛国青年」が誕生した。先述の国民カトリック同盟は反議会制という点では「武器なきミリス」と言えるだろう。1920年代の右派ミリスは離散集合を繰り返していた。これに終止符を打ち右派ミリスを統一したのがフランソワ・ド=ラロックの「火の十字団(クロワ・ドフー)」である。火の十字団は退役軍人団体という性質上ドゴールとの距離が近く、1932年のクーデターでは共同歩調をとった。この功でド=ラロックはドゴール体制の仲間入りを果たした。
 左派においてもミリスは存在した。ロシアから亡命した「赤系ロシア人」らはロシア内戦時代の民兵組織をそのままフランスでも再構築した。ロシア内戦で活躍したハンガリー人のフランソワ・ミュニクが立ち上げた「フランス赤軍」は有名である。ロシア系のミリスはドゴール・クーデターに協力し、階級を維持したままフランス民兵団やフランス人民軍などに吸収されていった。同じく赤系ロシア人のネストル・マフノによる「黒色アナキスト連合(RAN)」を無視することはできない。ロシアからのアナキストによるミリスは、フランスのそれよりもはるかに規律があり暴力的だったが、ドゴール体制では赤軍ほど取り込まれることはなかった。ある種の「鉄砲玉」として内戦中のアメリカに送り込まれ、RAN幹部はCSA側に立って戦った。

人民戦線

 ドゴールはクーデター後に自らを支える独裁政党の構築を、ジョルジュ・エティエンヌ=ボネに頼み試みたが失敗した。そこで独裁政党ではなく政党連合へと切り替え、1935年の憲法復帰までに各政党の改革派を説得し「人民戦線」が誕生した。憲法復帰以降のドゴール体制では人民戦線が閣僚メンバーを独占し、人民戦線への参加はドゴールに対する忠誠を測る機会だった。
 人民戦線の綱領はガストン・ベルジェリが執筆し「勤労、家族、祖国」という有名なスローガンを初めて公式に採用した。また、人民戦線はしばしば日本の大政翼賛会と比較される。

政党一覧

社会党(SFIO;第二インターナショナルフランス支部
 WW1前のフランス社会主義を支えた左派政党。WW1では反戦派のジャン・ジョレス暗殺を経て「ユニオン・サクレ」に参加し戦争を支持した。WW1敗戦で反共和国に寝返り、サンディカリストとともにコミューン国家を建設した。
 コミューン体制では世論の全体主義化の波に乗り切れず、ドゴールの7月20日革命では守勢に立たざる得なかった。何人かの反対者を出しつつも、1935年にドゴールを支持する政党連合である「人民戦線」に参加する。ドゴール体制では何人かの首相を輩出した。

 主要な政治家:レオン・ブルム(公安委員長)、マルクス・ドルモア(内務人民委員)、ジャン=バティスト・ルバ(労働人民委員)、ロジェー・サラングロ(内務人民委員)、ポール・フォーレ公安委員長)、エミール・ベルリア、アルベール・バドゥース(法務人民委員)、モーリス・ルヴァラン(国民経済評議員)、バルテルミー・モンタニョン(公安委員長、軍需人民委員、国民経済評議員)、シャルル・スピーナス(国民経済人民委員、国民経済評議員、財務人民委員)、ポール・リーヴ()、ギー・モレ(駐キエフ大使、戦後の外務人民委員、パリインター議長)、フェリックス・グーアン(国民経済評議員)、アンジェロ・タスカ(情報人民委員部新聞局長)、ピエール・ラヴァル(1920年離党、公安委員長)、アンブロワーズ・クロワザ(フランス民兵将官、社会人民委員)、ジュール=ヴァンサン・オリオール(財務人民委員)、アドリアン・ティグジエ(パリインター中央委員、駐独大使)、ジュル・サルヴァドール・モック(内務人民委員、公共事業人民委員)。

フランス共産党(PCF)
 WW1におけるSFIO内部の反戦派や革命派、ロシアから亡命したボリシェヴィキの系譜を引き継いでいる。また、パリインターを事実上主催している。党内はあまり統率がとれておらず、サンディカリストアナキスト、ロシア由来のコミュニストなど様々であった。そのうちの一派である「新社会主義者」はいち早く古典経済学の脱却を主張し、ドゴールに取り入れられた。ドゴールのクーデター後は新社会主義者が主導権を握ったが、ロシア革命由来の「革命の輸出」という目標を保持し、ドゴールもそれを妨げずパリインターを通じてアメリカやスペインなどに赤い革命思想を送り込んでいった。

 主要な政治家:マルセル・カシャン(パリインターPCF代表)、シモン・サビアニ()、モーリス・トレーズ(パリインター中央委員、駐CSA大使、WW2後にはパリインター議長)、アメデー・デュノワ(フランス民兵将官)、シャルル・ラパポール(駐CSA大使、文化団体指導者?)、ジョルジュ・レヴィ(家族保健人民委員)、ダニエル・ルノール()、ジャン=マリー・クラマミュ()、ルネ・リコ()、アンリ・グルドー(逓信人民委員)、ジャック・ドリオ(公安委員長、国民経済評議員)、アンリ・バルベ()、ヴィクトル・バルテレミ()、ジャン・フォンタノワ(国民経済評議員、ドリオと対立し失脚する)、ポール・マリョン(情報人民委員、国民経済評議員)、エドゥアール・ベルト(哲学者。全体主義後のソレリアニズム研究の第一人者)、ジャン・ラビン(ラビノヴィチ・ヨーゼフ;ハンガリーから亡命したコミュニスト)、フランソワ・ミュニク(ムニッヒ・フェレンツ;ハンガリーから亡命したコミュニスト。フランスのミリスを整理、統率した)、ミハイル・ブジョル(ルーマニアコミュニスト、駐ブカレスト大使)、アレクサンドル・ニコラウ(ルーマニアコミュニスト、国家保安委員会将校)、イオン・ディク=ディセスク(ルーマニア人の人民軍将官)、ジャック・デュクロ(情報人民委員)、ピエール・ヴィヨン(建築家)、マルセル・カプロン()、シュルピク・デューズ()、フェルナン・ドスプレ(CSAで活躍したアナキスト)、ギュスターヴ・ゲーノー(デュクロの補佐官)

・急進党(PR)
 もとはジョルジュ・クレマンソーが建てた政党で、南部の有産農民を支持層に抱える。政教分離を徹底している点では同じ南部を拠点とするカトリックとは異なる。SFIO、PCFとともに数多くの閣僚を送り込んだ。

 主要な政治家:アリスティド・ブリアン(公安委員長)、ガストン・ベルジェリ(法務人民委員、国民経済評議員、人民戦線綱領を執筆)、ジョルジュ・エティエンヌ=ボネ(外務人民委員、賠償問題全権特使)、ブルトラン・ド=ジュヴネル(国民経済評議員、経済学者)、エドゥアール・ダラディエ(PR党首、国防人民委員)、フェルナン・ド=ブリノー()

・民主同盟(AD、ARDとも)
 レイモン・ポアンカレが立ち上げた自由主義的な右派政党。右派の過激主義には反対しており、「第三の道」を自称しているが「日和見的」とも言われている。1932年のクーデターの際は党員の多くがドゴール側に就いた。

 主要な政治家:レイモン・ポアンカレ公安委員長)、アルベール・ルブラン(解放地域人民委員)、ピエール=エティエンヌ・フランダン(商工人民委員)、ポール・レノー()

・国家人民党(RNP)
 マルセル・デアが主宰する新社会主義者政党の一つである。ドゴール・クーデターにはいち早く参加した。党メンバーは元SFIOか元PCFが多い。

 主要な政治家:マルセル・デア(国民経済評議員、労働人民委員)、ミシェル・ブリユ(党副代表)、ジョルジュ・アルベルティーニ(機関紙『社会主義青年』編集長)、リュドヴィク・ゾレッティ(国民教育人民委員、フランス高等教員同盟指導者)

・フランス国社会党(PSdF)
 SFIOから新社会主義者が離脱して結成した政党。ドゴール・クーデターをいち早く支持した。

 主要な政治家:ポール・ラマディエ(財務人民委員)、アドリアン・マルケ(内務人民委員)、ルイ・ヴァロン(情報人民委員、財務人民委員、国民経済人民委員)、ガブリエル・ラファイエ(労働人民委員、国民経済評議員)、オーギュスタン・ポール=ボンクール(公安委員長、外務人民委員)、ジャン・メドサン()

・共和サンディカリスト党(PRS)
 元王党派のジョルジュ・ヴァロワが結成したファシスト政党。ドゴール体制に参加した。

 主要な政治家:ジョルジュ・ヴァロワ(公安委員長)、ユベール・ラガルデル(労働人民委員)、ジャック・アリテュイユ()、

・民主コミュニストサークル(CCD)
 ドゴール独裁に反対するマルクス主義者のスヴァーリンが組織した政党で、もちろん人民戦線に加盟していない。スヴァーリンら主要な党員は国外追放され、アメリカ内戦で活躍した。

ボリス・スヴァーリン(元PCF党員のトロツキスト。国外追放された後にアメリカ内戦で活躍する)、クリスチアン・ラコフスキー(ブルガリア人。ドゴール個人崇拝に反対し国外追放された)、レイモン・クノー(作家)、ジョルジュ・バタイユ(哲学者)、ルシアン・ローラン(作家。アメリカ内戦に参加し『マルクス主義と民主主義』を著す)、ピエール・カーン(哲学者)、アルフル・ロスマル(国外追放されアメリカ内戦で活躍)、

・労農党(PSOP)
 元SFIO党員のマルソー・ピヴェールがドゴール独裁に反対し結成した政党。規模は小さかったがピヴェールの影響力の大きさから逮捕はされず、ピヴェールは非人民戦線議員として労働総取引所の席を保持し続けた。しかし、PSOPの若い党員らは弾圧され国外追放されたり、ピヴェールに失望して転向、出国したりした。

 主要な政治家:マルソー・ピヴェール(ドゴール独裁に反対し労農党を設立、非人民戦線で下院に当選)、ダニエル・ゲラン(国外追放されドゴール死後に帰国し同性愛運動を率いる)、ルネ・ルフューヴル(ルクセンブルク主義者)、リュチアン・シャプラン(転向し労働人民委員部幹部)。

・黒色アナキスト連合(RAN)
 ロシア内戦でアナキストの反乱を率いたネストル・マフノがフランスに亡命し結成した政党。クーデターに対するマフノはどっちつかずの反応を見せたが、何人かの幹部をアメリカに送り込みアメリカ内戦に介入することで、ドゴール政権に関与し続けた。

 主要な政治家:ネストル・マフノ(フランス民兵将官)、シモン・カレン(アメリカ内戦で活躍した)、マリア・ニキフォロワ(アメリカ内戦でのアナキスト指揮官)、フセヴォロド・エイヘンバウム(歴史家)。

・労働総同盟(CGT)
 かつてCGTは純正なソレリアニズムを代表し、農民一揆を率いて体制反抗を繰り返していたが、コミューンが成立すると一気に穏健化していった。CGTはSFIOと協定を結び、地方コミューンにおいてはCGTが、国政においてはSFIOが政治を行うよう区分けしている。CGT内部には新社会主義的な経済運営を唱える者が少なくなく、ドゴール体制では難なく順応した。

 主要な政治家:ジョルジュ・デュムラン()、ローラン・スィリ(ガリ青年団指導者)、ベノワ・フラション(国民経済評議員)、マルセル・ジトン(国家保安委員会将官)、ジュル・トゥーラド(パリインター中央委員)、リュドヴィク・マルシェ()、レオン・ジュオー(CGT代表)、ルイ・ニエル()、ヴィクトル・サルジェ(ドゴールに反対したアナキストアメリカ内戦で活躍)、ルネ・ベラン(労働人民委員)、ベノワ・ブルチュー(著名なアナルコサンディカリスト)、マルセル・ビドゥガライ(フランス国鉄総裁)、マリュー・ミシェル()、ジョルジュ・イヴトー()、ロベール・ルゾン(反植民地主義者)、ルイ・ルコア(スペイン内戦とアメリカ内戦で活躍した著名なアナキスト。1964年にノーベル平和賞を受賞)。

・労働統一総同盟(CGTU)
 CGTUは1931年にCGTから分離したPCF系の労組連合である。CGTと同様にドゴール体制に順応した。

 主要な政治家:ガストン・モンムショー(CGTU書記長、国民経済評議員)、モーリス・ジョワイユ(フランス民兵団将校、フランスリバタリアニズムの父)、アンドレ・パルサル(情報人民委員部宣伝局長)、オーギュスト・ルクール(国民経済評議会鉱業・鉄鋼業軍団長)、ジャン・ジェローム(労働人民委員部幹部)。

アクシオンフランセーズ(AF)
 シャルル・モーラスらが1905年に設立した同名の新聞に由来する右翼団体。共和国とコミューンに対し真っ向から批判しており、クロワ・ド=フーと並ぶ王党派勢力だった。民兵組織に「カムロ・デュ・ロア」がある。

 主要な政治家:シャルル・モーラス(AF初期の指導者、ドゴール体制の政策思想に関わる)、ジョセフ・ダルナン(フランス民兵将官、内務人民委員部幹部、国家保安委員会委員長)

・クロワ・ド=フー
 1927年に設立した右派の退役軍人団体。「香水王」フランソワ・コティの資金援助とフランソワ・ド=ラロックのカリスマによりアクシオン・フランセーズと並び立つほどの巨大組織となった。ドゴール体制にはAF同様数多くが参加した。

 主要な政治家:フランソワ・ド=ラロック(クロワ・ド=フー指導者、情報人民委員部幹部、フランス民兵団幹部)クロード・ジャンテ(情報人民委員部外国報道局長)

フランスアナキスト連合(UAF)
 主要な政治家:セバスティアンフォーレ(コミューンの初代元首)

・国民カトリック連合(FNC)
 コミューン政府とバチカンとの関係が悪化した1927年に発足したカトリック大衆団体。一時期200万人が参加したが、それは一時的な流行によるものだった。

 主要な政治家:ノエル・ド=カステルノー(FNC代表)、ピエール=エティエンヌ・タタンジエール(パリ市長)、グザヴィエ・ヴァラ()、フィリップ・アンリオ()、アントワーヌ・レジエ(フランス作家同盟)、ダニエル・ベルギー(司祭)、

・その他無所属
モーリス・クラヴァル(国民教育人民委員)、ピエール・ガラ(元帥官房)、ジャン・エロール=パキ(フランスラジオ放送の名物アナウンサー、情報人民委員部放送局長)、ジャン=ルイ・ティグジエ=ヴィナンクール(情報人民委員部第一書記)、ポール・レノー(公安委員長、外務人民委員)、アンドレ・マルロー(冒険家、文化人民委員)、アンドレ・ル=トロクール()、ジャン=ルイ・バルトゥー(外務人民委員)

国家システム

コミューン体制

 コミューン体制においては、共和制における議会の役割を労働者の相互協力機関であった「労働取引所」が代わり担った。市町村、県レベルの行政機関は「コミューン」と改名され、市町村議会、県議会は各レベルの労働取引所に移行した。国政においては「労働総取引所」が立法府となった。
 国家元首は労働総取引所議長で、労働総取引所から行政府たる公安委員会が選出される。公安委員長は行政府の長である。フランスコミューンは革命で誕生した国家だが、立法府を重視している点では第三共和政と類似している。公安委員会はその勇ましい名前から権限が弱く、しばしば公安委員会のメンバー(閣僚)は交代した。このため、コミューンの政治は大変不安定なものだった。

革命防衛委員会

 1932年7月20日のクーデターでシャルル・ドゴールを委員長とする「革命防衛委員会」が成立し、コミューン体制の全権を事実上掌握した。革命防衛委員会に何ら法的正当性はなかったのにも関わらず、セバスティアンフォーレ労働総取引所議長がクーデターを黙認したことは、コミューン体制がいかに限界だったかを示す事例である。
 クーデターに反対する閣僚はストライキを開始し、革命防衛委員会は人民委員部(省)次官を臨時全権大使に任命し国政の停滞を防いだ。
 革命防衛委員会は計画経済を構築すべく「緊急経済措置委員会」を結成し、国民経済評議会の権限を強化し失業対策を行った。

ドゴール体制

 クーデターから三年後の1935年7月20日に「憲法復帰」が行われ、革命防衛委員会は解散した。これにあたりドゴールと何人かの政党政治家の主導で政党連合「人民戦線」が設立し、ドゴールは憲法復帰後の体制構築を確固たるものとした。
 憲法復帰にあたり国民投票憲法が改正され、国家元首は労働総取引所議長から「コミューン元帥」に移行した。ドゴールが就任したコミューン元帥は公安委員長の任命権、労働総取引所の解散権、緊急時の非常大権を握っていたという点では、コミューン体制と明らかに異なっている。
 このようにしてドゴールは体制の安定を確保し、「国民革命」に専念することとなった。

外交

 「対独復讐」を合言葉に反ドイツ的な外交姿勢が貫かれた。ただし1920年代初期の混乱した時期には、1923年にドイツ帝国首相となったティルピッツの協調外交の下、仏独の経済協力がなされた。仏独経済協力においては賠償金減額を条件としてドイツからの機械製品輸入が割り当てられた。これに加えてフラン価値安定のためにマルクの衛星通貨化が検討されたが、これは英米の介入でなされなかった。この事例が示すように、フランスとはドイツと英米が対立する最前線であったといえる。
 1925年から1932年にわたり外務人民委員を務めたアリスティド・ブリアンは仏独協調に専念しつつ、フランスのドイツ依存を脱却すべく英米との関係を保つという絶妙な外交をやりのけ、クーデター直前に病死した。
 クーデターが起こると、革命防衛委員会はクーデターに否定的反応をしたエドゥアール・エリオ外務人民委員を差し置きピエール・ラヴァルが「臨時外務全権大使」に任命され本格的な反独外交が始まった。1934年に同職に任命されたルイ・バルトゥーは精力的にユーゴスラビアポーランド、ドナウを巡り、相互援助条約を締結して対独包囲外交を指揮した。しかし同年、バルトゥーはユーゴスラビアのアレクサンダル1世とともに暗殺された。犯人はその場で射殺されたため真相は不明だが、フランス世論はドイツの差し金であると憤慨し一層対独復讐の雰囲気が引き締まった。
 1935年の憲法復帰を経て外務人民委員が何度か後退していったが、特筆すべきは1937年から1940年まで外務人民委員に就いたピエール・ラヴァルである。ラヴァルは狂信的なドゴール信者で、ドゴールの言わんとすることを一歩先に二倍徹底的に行うと言われていた。ラヴァルは対独復讐の完遂を外交面から支援し、ついに1937年には「反帝協定」が仏・ドナウ・日本などの間で結ばれた、明言こそ避けつつも、反帝協定とは明らかにドイツを念頭に置いたものだった。
 こうして、フランスは二度目の世界大戦へと突き進むことになる。
 また、戦間期のフランス外交において特筆に値するのは「宥和外交」である。
 英米はドイツの急拡大を抑える観点からフランス寄りの立場に立っていた。再軍備後のフランス海軍再建に関し、イギリスは1935年、「ストレーザ戦線」に参加しフランスの軍拡を牽制したが、同年には「英仏海軍協定」を締結しフランス海軍の水上戦力をイギリス海軍の35%までとするという異例の軍備承認を行った。もちろんこれに対しドイツは猛反発したが、背景には世界恐慌直後におけるイギリスからドイツへの正貨流出が背景にあるとされる。
 このように、英米はフランスをドイツに対する要塞として歓迎していたが、ドゴール体制の過激化やアメリカ内戦の勃発などを経て状況は変化していった。英米は次第にフランスをはじめとする全体主義政権による自由、平等、平和に対する否定を重く見るようになった。特にアメリカ内戦におけるサンディカリストの蜂起は、同じく名目上サンディカリストの国家であるフランスに厳しい目が向けられた。ドゴールとしてはサンディカリスト勢力には全面的な賛成をしかねていたが、「革命輸出」という概念が役立つと考え弾圧せずに温存していたのである。事実、フランスはアメリカ内戦において兵器テストや産業スパイなどの点で大いに暗躍していた。
 1937年に英国首相となったチェンバレンはフランスによる世界大戦の回避に重点を置き、宥和外交をより徹底した。宥和外交の典型例が1938年のパリ会談である。スイス西部ロマンディにおけるフランス系住民の反乱をきっかけにドゴールがスイス侵攻を示唆すると、チェンバレンは戦争を回避すべくいち早く会談を提案した。結局会談の結果ロマンディの分離が決定され、フランスの拡大と引き換えに戦争の危機を回避するという構図が完成した。当然こうした宥和外交には批判も多く、1940年にフランスがドイツへ宣戦布告しヴァルミー作戦を成功させると、チェンバレンに代わって首相となった強硬派のウィンストン・チャーチルは容赦なく対仏宣戦布告を行った。こうして、フランス外交は「予定された破滅」を迎えたのである。
 

プロパガンダ

 1932年のクーデター直後に公安委員会のもとに情報人民委員部が設立され、本格的なプロパガンダが開始した。とはいえ、ドゴール以前の混沌としたフランス政局を見るに、政党やミリスが煽動的なプロパガンダを使うことはむしろ日常的なものだった。
 クーデターは武力で行われたものであるから、ドゴールは世論の支持を失いカウンタークーデターで打倒されることを恐れ、プロパガンダで民衆の支持を確保することに苦心した。情報人民委員部は映画、書籍、ラジオ、新聞など近代メディアを駆使し、ドゴールによる「国民革命」と国是である対独復讐を煽り立て、ガリアより続く明晰なるフランスとその英雄、とりわけ兵士を称揚した。
 映画においてはWW1における対独スパイを扱ったレオン・ポワリエ監督の『Sœurs d'armes』(1937年)、ドゴールとルイ14世を重ね合わせたエイゼンステイン監督の『太陽王』(1944年)、またドゴール体制以前ではあるが1928年に制作されたエイゼンステイン監督の『Verdun, visions d'histoire』は、ドゴール時代の全体主義芸術の先駆であると評価されている。
 特にドゴール体制初期のプロパガンダイデオロギー色が強く、国民革命の内容を民衆に伝えることに努力している。カトリシズム、農本主義、強いフランス――これらは現状に対する明確なNonであり、「古き良き時代」への回顧であるとともにより良き未来への飛躍を暗示していた。プロパガンダ塹壕戦の経験でフランス人は生まれ変わったということをはっきり伝え、こうした精神面での革命を社会に反映することが国民革命であり、国民革命の最終段階は対独復讐の達成であると果敢に宣言した。大衆は工夫の凝らしたプロパガンダに熱狂し、ドゴールに批判的な人々もドゴールを支持するようになっていった。
 こうして、プロパガンダはフランス人民を体制へと組み込むことを可能にした。クーデター以前の無秩序な様子はすっかり変化し、規律ある隊列と労働が広まった。国外追放されたポール・ニーザンはこうした光景を「民衆のアトム化」と呼んだ。
 しかし、プロパガンダは民衆の感情を増幅させたが、それを完全にコントロールできなかった。しばしば膨れ上がったドイツに対するショーヴィニズムは爆発した。有名な例は1938年末に起きた反独暴動「11月10日事件」である。ドイツ領エルザス・ロートリンゲンアルザス・ロレーヌ)におけるフランス系住民に対する冤罪事件をきっかけにフランス国内の対独世論が暴発、パリではドイツ大使館が襲撃された。軍拡経済下の消費財減少による民衆の不満が背景にあるとされ、警察の制止を振り切りドイツ大使館は民衆に包囲された。暴動参加者側には統合ミリス「フランス民兵団」の者も含まれており、人民軍が出動する騒ぎとなった。
 WW2の対独侵攻作戦「ヴァルミー作戦」ではフランス兵と補助兵(フランス民兵団)によるドイツ民間人に対する虐待が問題となった。至る所で虐殺、略奪、強姦が発生し、戦後も続くドイツによる対仏抵抗のきっかけとなった。とりわけ有名な例はヴァルミー作戦中の1940年に起きた「ニーンブルク事件」である。ハンブルクの近くにあるニーンブルク村では避難民が集まっていたが、対仏ゲリラ蜂起とドイツ軍反抗上陸の情報を耳にしていた人民軍部隊がニーンブルク村の避難民約3000人を虐殺した。避難民のほとんどは無実であった。
 このように、繰り返されるプロパガンダはフランス人民の精神までを蝕み、世論の暴走を招いていたといえる。

情報人民委員部と内部組織

 情報人民委員部はメディア検閲とプロパガンダを担当している比較的重要な人民委員部である。この悪名高いプロパガンダ組織は、右派による「農本主義芸術」への回帰という要求にもかかわらず、都会的なモダニズムの排斥は徹底しなかった。むしろモダニズム芸術家を取り込みつつ、芸術にイデオロギーを加えた「フランス・アヴァンギャルド」を完成させた。フランス・アヴァンギャルド自体はクーデター以前から存在したが、群雄割拠する各政党に所在したアヴァンギャルド芸術の指揮権が、ドゴールという神格化された独裁者を含む国家へ移行したという点では特筆に値する。
 情報人民委員部はラジオや映画などといった新興メディアを重視し、簡単に手間なくプロパガンダを発信することに腐心した。国民経済評議会により安価な大衆向けラジオ受信機が生産され、映画館のない地方部には情報人民委員部の「宣伝隊」が巡回し移動映画館を設けた。

人民委員官房;
第一書記官房;宣伝局、放送局、軍事局、映画局、音楽局、対外局、演劇局
第二書記官房;外国報道局、財務局、人事局、報道局

文化人民委員部の下部組織

 プロパガンダ機関には情報人民委員部のほかに文化人民委員部がある。文化人民委員部は情報人民委員部よりも非政治的な分野を取り扱い、芸術家を統率する下部団体をそろえていた。1930年代後半になるとプロパガンダだけでなく大衆の不満をそらすための娯楽が重視され、同時に文化人民委員部の地位も上昇した。

・フランス作家同盟
・フランス音楽家同盟
・フランス演劇家同盟
・フランス画家同盟
・フランス彫刻家同盟

主な機関紙

・『フランス青年』(人民戦線)
反独プロパガンダ一色の宣伝誌。編集長はモーリス=イヴァン・シカール。

・『ユマニテ』(フランス共産党

・『アクシオン・フランセーズ』(アクシオン・フランセーズ)

安政

 ドゴール体制において国家の治安を支配していたのは、人民軍、フランス民兵団(Milice Française)、国家保安委員会(Comité pour la Sécurité de l'État; CSÉ)、内務人民委員部である。これらはすべて人民軍に支配されており、組織同士での争いはあまり目立たなかった。
 フランス民兵団は群雄割拠状態にあった各ミリスを統合した組織であるが、民兵団の運営はドゴールのクーデターに協力したクロワ・ドフーやアクシオン・フランセーズ、ロシア帰りのコミュニストによるフランス赤軍、人民軍からの出向者などが中心となっている。フランス民兵団は失業者を吸収し無償奉仕を行ったり、再軍備前は人民軍の補助戦力として活用された。経済が回復し再軍備が開始されると、団員は工場や軍などに吸収され重要性が低下しつつあったが、WW2が始まると人民軍の予備戦力として復活した。民需工場の労働者による「工場大隊」や退役軍人による「防衛大隊」などが人民軍後方の兵站や治安維持などを担ったが、軍紀は決して良好ではなく、ヴァルミー作戦ではしばしば民間人への乱暴が起きた。
 国家保安委員会はドゴール体制における秘密警察兼軍事諜報機関で、内務人民委員部の政治警察と軍の「参謀第二局」と呼ばれる諜報部隊を統合して誕生した。こうした背景から国家保安委員会は「第二局」と呼ばれていた。委員会は密告を奨励し、政治警察、国境警察、防諜、産業スパイを担当した。同時期のドナウやウクライナなどと比べれば、国家保安委員会による弾圧は穏当なものである。ドゴールそのものへの批判を除けば、政策に対する批判はオブラートなものであれば特定の出版物でも認められていた。特定の出版物とは、パリの官僚や知識人などのみで出回る「制限出版物」を指す。このように、ドゴール体制は他の全体主義政権と比べて自由があったが、政治弾圧があったことも事実である。
 人民戦線に参加しなかったマルソー・ピヴェールやボリス・スヴァーリンなどのグループに対しては、重要な幹部に対してしばしば恐喝し、殺しはせずとも最終的に国外追放といった措置を下した。ただし、比較的重要ではないメンバーに対しては転向を促し、無名の反人民戦線グループ構成員は実際にドゴール体制に寝返っていった。
 内務人民委員部は政治警察部門が国家保安委員会に移管されたが、クーデター直後にそれまで地域コミューンの管轄下にあった地方警察を内務人民委員部の指揮系統下に置く命令が発令され、警察は中央集権化された。ドゴール体制での内務人民委員部の警察部門は刑事犯罪を扱っていたが、国家保安委員会や人民軍などとの間で人材交換が盛んに行われた。

軍事

 フランスはWW1で敗戦しルクセンブルク平和条約(フランス語ではリュクサンブール平和条約)で厳しい賠償金と軍備制限を課された。徴兵制廃止、兵員制限(陸軍は10万人)、航空戦力、潜水艦、航空母艦、戦車の保有禁止といった条項はフランス軍を縮小させた一方、失職した軍人や将校、将官らはミリスを結成していった。軍はミリスを容認し、対外的には無関係を装いつつも支援した。
 軍はコミューン制において「人民軍」と名を変えた。
 人民軍は限られた戦力を補うため、あの手この手を使った。兵器開発はスイスやスペイン、ドナウ連邦など第三国に合弁会社を設立したり、ドナウ連邦軍と協力しドナウ領内に秘密裏に研究施設を建設したりした。ドナウ連邦軍とは1918年のオーストリア革命で軍事顧問団を送って以来の仲である。敗戦前には世界有数の航空戦力を持っていたフランスは、条約で航空戦力保有が禁止されるとスイスに民間航空会社を設立しWW1時代のパイロットや技術者などの温存を図った。これを指揮した一人であるサンテグジュペリ再軍備宣言後に空軍元帥に任命された。
 

再軍備

 1935年にドゴール体制下のフランスはルクセンブルク条約の完全破棄を一歩的に宣言し、再軍備を開始した。人民空軍が正式に発足し、参謀本部としての「人民軍最高会議」が設立されドゴールが議長に就任した。また、徴兵制が復活し失業者が軍に吸収された。
 再軍備宣言後は装甲戦力と航空戦力、再軍備前から続けられていた海軍再建に注力した。しかし、海軍再建は特に負担となり鋳造用のレアアースが海軍に配分されたため陸軍は鋳造式の戦車を製造できず、陸海軍の対立が発生したといった事態もあった。WW2の前哨戦といわれたアメリカ内戦とスペイン内戦にはそれぞれCSAと共和派に支援を送り、特にスペイン内戦では「義勇軍」を投入し兵器テストを行った。

WW2

 1938年のパリ会談でスイス西部が割譲されると、人民軍は機甲部隊による進駐作戦を実行し、のちの電撃戦の予行演習を行った。このときの経験をもとに1940年4月の対独侵攻作戦である「ヴァルミー作戦」を実行、機甲部隊による電撃戦が成功しドイツ軍部隊の包囲殲滅に成功した。
 その後フランス人民軍はデンマークノルウェー、モロッコ、ロシア、そしてイギリス本土へ転戦し、WW2を勝ち抜くことになる。

経済

初の大衆車「ジュヴァキャトル」。

 ドゴール体制までコミューンの経済は極めて自由主義的だった。労働者が直接経営するものもあれば労組や経営者が経営する企業もあり、多種多様な生産形態が許されていた。しかし、これらは世界恐慌とドゴール独裁により力を失い、国民経済評議会主導の部分計画経済が主導権を握った。
 WW1敗戦によるルクセンブルク条約で多額の賠償金を課されたフランスコミューンは、1920年代前半に破滅的なインフレに襲われた。コミューン政府による通貨デノミと、1923年以降ドイツのティルピッツ政権が行った協調外交の一環としての独仏経済協力、アメリカからの投資によりフランス経済は一時回復したが、依然として天文学的な数値の賠償金が足かせとなっていた。英米はフランスがドイツ経済圏へ完全に取り込まれることを恐れ、資金拠出や賠償金減額を試み、一部は実現した。
 1929年に世界恐慌が起きると好景気を支えていた構図が破綻し、再びフランスはハイパーインフレに突入した。これによりただでさえ少ないフランスの金・外貨貯蓄は半減し、財政危機にも見舞われた。当時の失業者は公式には約100万人とされているが、実際には本土だけでピーク時には約300万人いたとされる。これは労働者の4割以上が失業していたことを意味していた。
 コミューン政府の経済政策はかたくなに「なすがままにせよ」な古典経済学に依拠していた。政府の対策は増税、支出削減といったデフレ政策に固執し、民衆は反発した。このとき登場したのがドゴールであり、1932年クーデターで発足した革命防衛委員会主導の経済政策は、結果的にフランスを経済破綻から救い出すこととなった。
 ドゴール体制はその反動的イデオロギーながら「新社会主義者」と呼ばれる政治家、官僚を左派から登用し、国民経済評議会を用いた計画経済を推進した。こうして、1934年には「五ヵ年計画」が正式にスタートした。計画経済では「オートルート」に代表される大規模公共投資が有名だが、再軍備宣言と軍拡による失業者の吸収や、CGT、CGTUを総動員した草の根啓蒙運動による努力も無視してはならない。
 啓蒙運動では、地域の労働取引所主体の職業教育、夜間教育、簿記教育が行われ、特に簿記の普及は計画経済実行の上での助けとなった。「失業撲滅」を合言葉に上から下まで民衆を総動員したことは、ドゴール体制における全体主義国家構築の第一歩となったといえる。この時期に国民経済評議会で経済政策を指揮した人々は数多いが、特に貢献したものをあげるとすれば経済学者のベルトラン・ド=ジュヴネル、政治家であればアンリ・ド=マン、マルセル・デア、ポール・ボードウィン、ピエール・マンデス=フランス、財界からはピエール・プショーであろう。
 フランス銀行が国有化されたのはこの時期である。フランス銀行は通貨を乱造し経済の底上げを図ったが、これによるハイパーインフレを防ぐために消費財の配給化が始まった。この結果、店頭で使用できず余った紙幣に関しては貯蓄が奨励され、銀行口座に預けられた紙幣は国民経済評議会命令で強制的に資本投下に使われた。一見して上手く機能しているように見えるこのシステムだが、実際には経済破綻と外貨減少というリスクを抱えた自転車操業だった。
 この傾向はより悪化したのが、ひとまず不景気を脱した1936-37年頃である。計画経済とともに開始された軍拡は軍需産業への投資を拡大させたが、これは同時に外貨獲得のための輸出品の減少を意味していた。金と外貨貯蓄は世界恐慌のころから回復しておらず、相変わらずフランス経済は自転車操業状態だった。1935年の憲法復帰で「革命防衛委員会委員長」から「コミューン元帥」になったドゴールは、経済路線の変更を訴えたポール・レノー公安委員長を罷免し、王党派のジョルジュ・ヴァロワを任命、さらなる軍拡路線を続けた。当時世界経済はブロック化しており、仮に軍拡を止め輸出を拡大しても利益になるとは見込めなかったことから、ドゴールの判断にも一理あったといえる。
 1938年にはさらなる軍拡に加え、農業集団化に伴う余剰労働者増加と工業拡大により、生産に必要な希少資源の不足が鮮明化していた。フランス銀行による紙幣乱発が限界を迎え、人民軍が経営するペーパーカンパニーの発行する手形や財務人民委員部による租税証券に移行しつつあった。事実上無価値になったフランを貯めこんだ工場や生産委員会(企業)に対し国民経済評議会が強制的に手形と交換させて資金移動させる事例もこのころ目立つようになった。
 また、ドゴール政権の好戦的な性格による国際世論の目もフランス経済に悪影響を及ぼした。具体的には貿易に応じる国家の減少と、不公正な貿易レート横行である。後者においては、フランスがスイスやスペイン、ポルトガルなどとのバーター貿易で押し付けた場合や、逆にブラジルがフランスにバーター貿易で市場価格の三倍の値段でコーヒー豆を押し付けた例もある。1939年には一時コミューン政府がフラン支払い困難状態に陥ったこともあった。
 追い込まれたフランスは暴力に解決策を求めた。先述のバーター貿易然り、フランス政府は軍拡中の巨大な武力を背景に周辺国から資金をゆすり取ったりしただけでなく、アメリカ内戦ではサンディカリスト国(CSA)支配下の地域から軍需企業の機密や設備などを盗み出したりとあらゆる手段を用いた。スペイン内戦ではスペイン中央銀行の金準備をめぐりドイツ軍特殊部隊とフランス人民軍義勇兵が激しく戦った。こうした行為の究極な形がスイス分割だろう。
 1938年、スイス西部のフランス人地域では反独運動が激化し、スイスは内乱状態に陥った。ドゴールが軍事介入を示唆すると、戦争回避のため仏独英伊による会談がパリで行われた(パリ会談)。この結果スイス西部の分離が決定し、スイス東部フォアアールベルク地方へのドナウ軍進駐と、西武へのフランス人民軍の進駐を経てスイスは分割された。このときフランス人民軍はスイス西部にある銀行から外貨を回収しフランス経済の延命を図った。しかし、これは焼け石に水だった。その翌年フランス人民軍はスイス東部にも進行し、スイスの金・外貨貯蓄を完全に接収せざる得なかった。
 フランス国内の反独世論の暴走も止まらず、1939年にヴォイヴォディナをめぐりイタリア、ユーゴスラビアとドナウ連邦の間で戦争がはじまると、「これに乗ずるべし」との世論が高まっていたことを秘密警察の国家保安委員会はドゴールに報告している。かくして1940年4月、「アルザス・ロレーヌか戦争か」の有名な言葉を添えた最後通牒とともに対独侵攻作戦、そして第二次世界大戦は始まった。
 このようなフランスの自転車操業経済は、同時期のドナウ連邦でも見られていたものだった。そもそもフランスの経済イデオローグであるド=ジュヴネルはチェコ系フランス人であり、ドナウ連邦でも名の知れた存在であることも忘れてはならない。バーター貿易に関しては、一足先に開始したドナウ連邦での成功に影響を受けてフランスでも取り入れられたものである。フランスとドナウを比較すると、フランスのほうがもともと農業国であったこともあり、工業化と軍拡のスピードが速く、ドナウよりも先に外貨危機を招いたことがわかる。ドナウ連邦がユーゴスラビアと開戦したきっかけは、外貨回収ではなく国内の反ユーゴスラビア世論の暴走が大きいことも抑えなければならない。というのも、ドナウ連邦はもともと中南欧諸国に対して有利なバーター貿易関係を構築していたからである。
 農業部門に関しては、フランスのほうが一歩上だった。もともと農業生産性が高いこともさることながら、国民経済評議会の主導で戦車生産ノウハウ蓄積のためにトラクターが生産されたこと、「ガリ青年団」を農場での無償労働に使役させたことなどが原因に挙げられる。そもそもドナウ連邦はWW1でハンガリーの農業部門が破壊されたまま完全復活しておらず、加えて人口爆発で慢性的な食糧不足に陥っていたことも大きな原因である。

自動車

 フランスはかつて自動車先進国だったが、WW1の敗戦ですっかり落ちぶれてしまった。ドゴール体制では国民経済評議会により中小メーカーが統合され、自動車メーカーはルノープジョーシトロエン、パナール、オチキスに限定され、「生産委員会方式」により国民経済評議会が提示した開発命令に対し各メーカーが案を示し、最優秀とされたものを全メーカーで生産する方式がとられた。生産委員会に依らず独自開発・生産は可能だったが、割り当て資源は制限され、生産委員会によるプロジェクトに優先的に配分された。生産委員会方式はどの第二次産業でも行われたが、基本的には国策産業、軍需産業で行われたため自動車産業は生産委員会の統制が最も強かった。
 1936年のパリオリンピックに合わせて発売されたルノー設計の「ジュヴァキャトル」は初の大衆車だった。例のごとくジュヴァキャトル購入のための貯蓄キャンペーンが展開されたが、実際にフランスの一般大衆が新車を受け取ったのはWW2後になってからである。

農業

 大革命前は教会の下で共同工作が行われていたが、大革命による教会の没落はモザイク状の細かな農地と小作人の誕生という結果をもたらした。フランス農業は良質な土壌にもかかわらず、本来の生産能力を発揮していない、としばしば指摘されてきた。
 WW1末期にパリが陥落し海外からフランス本土への食糧供給が途絶えると、フランスは飢餓に陥った。このときのトラウマから、ドゴール体制では農業生産量の拡大政策が一貫して取られた。反動的な右派、とりわけ農本主義者たちを政権に抱えながら、政府は機械化集団農業を推し進め収穫量を拡大した。しかし、これは大量の農民を離農させたことを意味した。
 情報人民委員部は農本主義に基づき、プロパガンダでは上半身裸で鍬を持つ筋肉質で土汚れた農夫を強調し「フランス人よ、土地へ帰れ!」と煽ったが、これはまったく現実とは正反対の虚構であったことがわかる。むしろ離農した農民たちに対し、国民経済評議会と労働取引所は別の農場やアルジェリアなどへの斡旋をせず、工場や軍などへの就職を進めた。また、もともと国家権力の影響が薄い農村世界に住んでいたフランス農民にとって、ドゴール体制の強権は目障りだった。
 余談であるが、ドゴール体制での農本主義プロパガンダは同じフランス語圏のケベック州にも影響を与えた。ケベックではフランス人農民がイギリス人ブルジョワに酷使されていたが、ドゴール体制は彼らの独立運動に火をつけ、WW2末期のイギリス本土陥落においては形式的な独立を獲得した。とはいえ、ケベックがフランスと同盟することはなかった。新大陸における北アメリカにおけるサンディカリズムは自由と平等を高らかに主張していた点でフランスと異なっており、またケベックはCSAの混沌を見てサンディカリズムを嫌悪するようになった。かくして、形式上サンディカリズム国家であるフランスコミューンに対するイメージは良いものではなかった。

宗教

 ドゴール・クーデター以降は明らかなカトリックへの接近が見られた。バチカン市国大使館の開設やカトリシズム政治家の登用、人口政策に基づく中絶の禁止をはじめ、「土地に帰れ!」を合言葉とする農本主義への接近に至るまで、カトリックが影響していた。これはフランス国内が抱える反動勢力としてのカトリックという問題、そしてドゴール自身が熱心なクリスチアンであるという点が背景にあった。この点は同じくカトリックに接近したドナウ連邦にも共通している。
 バチカンは列強諸国で起きていた「神なき時代」特有の社会問題、道徳退廃を憂慮し、プロテスタンティズムに基づき対立するドイツと対比させ、フランスやドナウ、ポーランドなどを優遇した。しかし、次第にカトリック全体主義の相性が悪いことにバチカンは気づき始めた。全体主義が持つ戦争を求める好戦的性格と国家指導者を第一に仰ぐ偶像崇拝は明らかにカトリックに反していたのである。それにもかかわらず、バチカン全体主義と手を切ることはなかった。WW2にて中立宣言したバチカン全体主義陣営に協力的な態度を隠そうとしなかったのである。

文化

マルセル・カルネ監督の『天井桟敷の人々』(1945年)。

 1920年代は「フランス・アヴァンギャルド」が開花した。この運動は主にロシアから亡命した赤系ロシア人の手でなされた。セルゲイ・エイゼンステインは1930年代でも活躍した映画監督として名高く、1925年の『戦艦ジャン・バール』と1944年の『太陽王』は国外でも有名である。1943年のロベール・ブレッソン監督による『罪の天使』はカトリックを顕揚する典型的なプロパガンダ映画だった。娯楽映画に関してはマルセル・カルネの『天井桟敷の人々』(1945年)がフランス映画史上最もぜいたくな制作予算とともに知られている。
 ドゴール時代の映画に関しては、ときどき国民革命に基づくプロパガンダ映画が作られたが、数的に見れば国民を生活苦から目をそらすための娯楽映画が多い。映画検閲に関して、情報人民委員部による検閲は緩かったが、カトリック団体による道徳に関するクレームが事実上の検閲の役割を果たしていた。例えば、ジャック・ド=バロンチェリ監督の『ランジェ侯爵夫人』(1942年)制作においてはカトリック団体側が、姦通をテーマにしていることに関し「保守的な家庭像に反している」と注文を付けた。
 文学において、1920年代はシュルレアリスムをはじめとする実験文学が有名だが、次第にWW1の爪痕が反映されるようになった。後の空軍元帥であるサン=テクジュペリの『星の王子さま』はかわいらしい登場人物と語りかけに反し、漠然とした不安定な時代のなかで必死に生きようとする当時のヨーロッパが反映され、フランス国内外で人気を博した。
 共和社会党員でありWW1で塹壕戦を経験したジャン・ジオノは前線兵士を扱う英雄文学『丘』を書き「フランスのエルンスト・ユンガー」と呼ばれた。マルク・オジエはスペイン内戦とWW2に従軍し同様の作品を残しており、こういった不条理な前線を肯定しつつも、戦友との団結と「生の飛躍」を強調する文学は「塹壕文学」と呼ばれた。ドゴール体制においてはこの塹壕文学がとりわけ称賛された。また、ジオノやオジエなどは『木を植えた男』をはじめとする農本主義文学として名高い作品を残した。1940年代になるとハイデガーの影響を受けたジャン=ポール・サルトルアルベール・カミュなどによる「実存主義文学」が登場し、塹壕に打ちひしがれた人間の、個々人に関するより深い考察がなされた。実存主義はやがてドゴール死後のドゴールやマルクス主義などに対する反動として成長することになるが、ここでは省略する。

組織一覧

コミューン元帥の直接的統制下にある組織

元帥官房
ガリ青年団
フランス民兵
軍人同盟
国民経済評議会

公安委

公安委員長官房
国民経済人民委員官房(人民委員部にあたる機関は国民経済評議会であり、評議会議長が人民委員を務めることが慣例である)
内務人民委員部
外務人民委員部
国防人民委員部
財務人民委員部
労働人民委員部
法務人民委員部
国防人民委員部
海軍人民委員部(1935年に国防人民委員部に統一)
航空人民委員部(1932~35、1935年に国防人民委員部に統一)
国民教育人民委員部
農業人民委員部
配給人民委員部(1940~)
植民地人民委員部
家族保健人民委員部
社会人民委員部
情報人民委員部(1933~)
公共事業人民委員部(1932~)
運輸人民委員部
文化人民委員部
逓信人民委員部
軍需人民委員部(1940~)

安全保障関係

人民軍最高会議
フランス人民陸軍
フランス人民海軍
フランス人民空軍
国家保安委員会