冷戦時代の国家一覧(更新中)

旧世界

 WW2の結果、仏ド日枢軸はユーラシア大陸といったいわゆる旧世界を、ドイツ帝国大英帝国南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸などの新世界を支配するようになった。
 

ヨーロッパ

 ヨーロッパの地理観念もWW2で大きく変わった。フランスの覇権は「西ヨーロッパ」、ドナウの覇権は「中央ヨーロッパ」、ウクライナ、後のソ連の覇権は「東ヨーロッパ」と呼ばれるようになった。

西ヨーロッパ

フランス・コミューン

ブリテン・コミューン

アイリーン・コミューン

オランダ・コミューン

スペイン共和国

「3H国」:ヘッセン・オルテ、ハンブルク・オルテ、ハーノヴァー・オルテ
 →ドイツ人民共和国(~)

ポルトガル
 「エスタド・ノヴォ」と呼ばれるファシズム体制にあったポルトガルはフランスではなくドナウと友好関係を結んでいた。

東ヨーロッパ

ウクライナ・ラーダ社会主義共和国
ベラルーシ・サヴィエト社会主義共和国
ロシア・ソヴィエト社会主義共和国
モルドヴィア・ソヴィエト社会主義共和国
チュバシ・ソヴィエト社会主義共和国
タタールスタン・ソヴィエト社会主義共和国
コミ・ソヴィエト社会主義共和国
マリ・エル・ソヴィエト社会主義共和国
ウドムルト・ソヴィエト社会主義共和国
バシコルトスタン・ソヴィエト社会主義共和国
グルジア・ソヴィエト社会主義共和国
アゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国
アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国
ソヴィエト社会主義共和国連邦(1947年~)に全て統合。
 首都はキエフ。1950年代からは最大の支援国であったフランスと対立し、1953年にはサンディカリスト国家ではなく共産主義国家を宣言し(仏ソ対立)独自の覇権を形成していく。国内ではウクライナとロシアの対立が激しい。
 

アフリカ

北部アフリカ

アルジェリア(フランス・コミューン)
 フランス本土と対立し、またアルジェリア内部でもアラブ人と移民が対立している。

チュニジア(フランス・コミューン)
 イタリア人入植者が多く、イタリア人の亡命先として有名。

モロッコ王国
 フランスの覇権にある。

スペイン領モロッコ

スペイン領リオ・デ・オロ

ドナウ連邦リビア共和国
 ドナウ連邦の入植地で、イタリア、ドイツ、ドナウから合計100万人ほどが入植した。原住民の多くは隔離されたか強制移住された。

エジプト王国(1946)
→エジプト共和国(1946~)
 ドナウ寄りだった将校が国王を追い出し成立。

西部アフリカ

西アフリカ・コミューン(1957~)
 WW2により旧仏領植民地と旧独領植民地の多くはフランスが領有することとなったが、アフリカ人独立運動家はサンディカリストとしてパリに集まり始めた。ドゴールは独立反対派だったが、ドゴール暗殺直後の1957年に「西アフリカ・コミューン」として独立した。西アフリカの広大な地域を支配していたが、サンディカリズム式統治の失敗や独立以前からの経済悪化により空中分解していった。
 →トーゴ・コミューン(1959~)
 旧独領トーゴラントはギニア湾岸植民地の中で最も近代化が進み、独立運動も活発だった。ダカールを首都として成立した西アフリカ・コミューンにトーゴは無理矢理組み込まれたが、文化も言語も経済地域も異なるためトーゴでは西アフリカ・コミューンからの独立運動が発生、1959年、紛争の末に独立を達成した。

ポルトガル領ギニア

リベリア共和国
 アフリカの数少ない独立国。WW2では親独姿勢を取ったが、WW2終結後も特に咎められなかった。アメリカから入植した解放奴隷と原住民が対立しており、前者の支配する政権は親ド姿勢を当初取っていた。しかし1971年以降はソ連に接近している。

ドナウ領ニゲリア(1946~1956)
→ニゲリア国(1956~)
 黄金海岸同様ドナウ主導で近代化政策が取られた。しかし急速な近代化に反発が起き、さらに国内の三大民族であるハウサ=フラニ、ヨルバ、イボ人のあいだでドイツから輸入した人種主義に影響され民族主義が芽生え、1967年のビアフラ戦争で爆発した。特にハウサ=フラニ人は国外にも同胞が多く、周辺諸国にゲリラを輸出し問題化した。ビアフラ戦争以前はドナウ連邦をモデルとした多民族自治制度が取られたが、ビアフラ戦争による破綻はドナウに衝撃を与えた。戦争の結果ニゲリアは分裂した。
 →ビアフラ共和国(1967~)
  ビアフラ戦争の結果ニゲリア南東部にて成立したイボ人国家。イボ・ナショナリズムを採用し少数民族を弾圧している。また油田が豊富に存在する。
 →オヨ共和国(1970~)
  ビアフラ戦争の結果なん西部に住むヨルバ人により成立した国家。イボ人やハウサ=フラニ人同様少数民族を弾圧している。油田がある。
 →フラニ国(1970~)
  ビアフラ戦争の結果北部のハウサ=フラニ人により成立した。ハウサ=フラニ人を構成するフラニ人は美徳を尊び、歴史上大きな役割を果たしてきたことからハウサ=フラニ人のナショナリズムは旧ニゲリアで最も濃かった。ドイツ由来の人種主義を受容し、ハウサ=フラニ人は中東からの末裔であるという伝承から人種的優位を謳い、国外ハウサ=フラニ人が住む西アフリカ・コミューンに侵攻したり、ビアフラやオヨとの国境紛争を行った。特にノイプロイセンがフラニ国を支援した。
 →ベニン共和国(1967~)
  ヨルバ人とイボ人に挟まれたエド人の国家で、ビアフラの傀儡国家。

ドナウ保護領シエラレオネ

北東部アフリカ(アフリカの角

エチオピア帝国
 エチオピアはWW2前にイタリアによる侵攻で滅亡し、皇帝ハイレ・セラシエはドイツに亡命した。しかしWW2開戦後ドイツ本土が陥落すると、ハイレ・セラシエエチオピア解放を条件にドナウ連邦側に寝返り、戦争末期にはエチオピア解放を果たした。しかしWW2後のエチオピアでは、旧来の親日的な貴族層と新参者のドナウ留学組、そしていずれにも与しない対伊レジスタンス出身者による対立が起こっていた。エチオピアはイタリアの植民地だったエリトリアソマリア、独領・英領ソマリアを併合したが、各地で反エチオピア運動が勃発し、本国では人口増加による社会不安が慢性的に続いていた。1960年に親ドナウ派がクーデターを起こし、ハイレ・セラシエは退位、親ドナウ政権が設立し国内の駐留日本軍は撤退を余儀なくされた。

東アフリカ社会連邦(1946~)
 WW2の結果英領スーダン、英領ウガンダ北部などで結成されたアフリカ人傀儡政権。しかし史上初のブラック・アフリカ人近代国家であり、アフリカ独立運動に与えた影響は計り知れなった。その一方、青・白ナイル川に挟まれた肥沃なゲジラ地域にはドイツ人入植地域「ニールスマルク」が、旧ポートスーダンにはドナウ海軍艦隊の拠点「ドナウスポルト」が、南スーダンの油田には点々とドナウ人入植基地が設置され、これらは半独立状態だった。また連邦南部では白人国家ノイプロイセン向けの出稼ぎ労働者を提供しており、事実上のドナウの経済植民地だったといえる。北部では「ハウサ=フラニ民族主義」と同様に、人種主義の影響でアラブ人民族主義が興り、しばしばナイロート人が住む南スーダンを弾圧した。最南部ではナイロート人の民族主義が興り、北部に抵抗した。東アフリカ社会連邦は現地自治を重んじたあまり、西アフリカ・コミューンのような空中分解をしかけていた。

東部アフリカ

ノイプロイセン(~)
 WW2で発生したドイツ人難民を収容するため建設された植民地。建国にあたりドナウの連邦保安省主導で「絶滅作戦」と名付けられた現地人に対する民族浄化があり、ノイプロイセンの歴史に汚点を残した。指導者はヘルマン・フォン・ゲーリング総統。全体主義、ドイツ農本主義の完成版ともいうべき、民兵秩序と農村を合体した農業国家で、多くの地域では軍隊的自己完結性の下、自給自足生活が行われている。また「絶滅作戦」で得た原住民捕虜を強制収容所で奴隷労働に従事させている。

 マサイラント社会共和国(~)
  ノイプロイセン保護国。ナイロート人であるマサイ人は人種的に「比較的優秀」とされ、旧独領東アフリカ時代から登用されていた。

 ルワンダ王国(14世紀?~)
  ノイプロイセン保護国でノイプロイセン最西部の肥沃な高原に位置する。人種的に「比較的優秀」とされるツチ族が土地を支配し、大多数のフツ人は人種的に「比較的劣等」としてルワンダ王国にもノイプロイセン政府にも弾圧されていた。1962年にルワンダ王国とブルンジ王国で土地不足に苦しむフツ人が蜂起、これに対し王国警察とノイプロイセン国防軍が侵攻し、建国時の「絶滅作戦」さながらの民族浄化を行った。この後余った土地にドイツ人が入植した。

 ブルンジ王国(16世紀?~)
  ノイプロイセン保護国ルワンダ王国の南隣にある。ルワンダ王国と同様の運命をたどった。

アザニア社会共和国(~)
 ノイプロイセンとともに独立した黒人国家。旧独領東アフリカの南東部を領有し、ここには白人は入植しなかった。形式上ドナウ社会主義に類似するファシズムによる支配を憲法に明記している。しかし実際にはドナウ連邦とノイプロイセンの経済圏にあり、首都ダルエスサラームではドナウ連邦やノイプロイセンでは取引できないアヘンといった禁制品が生産・輸出されている。また政府は腐敗している。

ザンジバル王国(1856~)
 ノイプロイセン沖にある国家。長らくイギリスの保護領だったが、WW2終結に乗じて1946年に再独立した。ノイプロイセンで得た捕虜をアラブ諸国へ輸出する「奴隷産業」に関わっているとされる。

ソマリ社会共和国(~)
 旧英領ケニア北東部にはソマリ人が住んでおり、ノイプロイセン建国の際に入植に向かなかった地域の一つであったことからソマリ人国家として独立した。ジュバ川以西の限られた地域を支配しほかのソマリ人居住地域はエチオピア領にあるため、ソマリ社会共和国では大ソマリ主義が甚だしい。イタリアのエチオピア侵攻でソマリ人のアスカリ兵が大活躍したように、ソマリ人は反エチオピア的でイタリアに協力的だった。WW2敗戦でソマリア各地から追われたイタリア人入植者はソマリ社会共和国に逃げ込み、同国の近代化を助けている。

熱帯アフリカ

赤道アフリカ・コミューン(1958~)
 西アフリカ・コミューンにやや遅れつつ独立。ドイツ領時代大して開発されなかったため近代化は遅れており、また赤道アフリカ・コミューンに加入予定だったカメルーンとザイールが独自に独立したり加入拒否したりし、独立当初から不協和音が鳴っていた。1960年に南部がコンゴとして分離独立した。結果的に残った国土が小さかったためか、西アフリカ・コミューンのようなカオスには陥らなかった。しかしイスラム教とキリスト教の対立という不安要因を抱えている。
 →コンゴ・コミューン(1960~)
  ブラザシュタットを首都とする。国土は熱帯雨林に覆われ独立後には地下資源が発見された。

ザイール・コミューン(1960~)
 独領時代のザイールは南北に分割され、北部ではベルギー統治時代と同様過酷な疎外がなされていたが、世界最大の銅山がある南部では教育や福祉が発達した。WW2後フランスは南北を再び合体させ、1960年に独立させた。しかし独立準備が不十分であったこと、ザイール各地にいる官吏や商人たるドイツ人について何ら処置を行わなかったことにより、ザイールは独立直後から混乱した。各地でドイツ人に対する虐殺が発生したため、周辺の南アフリカやノイプロイセンが介入、内戦と化した。同年には南部がカタンガ国、南カサイ国として分離独立。
 →カタンガ国(1960~)
  南アフリカとノイプロイセンの支援で独立。反共国家
 →南カサイ国(1960~)
  南アフリカとノイプロイセンの支援で独立。反共国家。

カメルーン・コミューン(1958~)
 もとは独領カメルーン。赤道アフリカ・コミューンへの参加を拒否した。領土はWW1で確定した「大カメルーン」を引き継いでいるが、そのため赤道アフリカ・コミューンとコンゴ・コミューンとは領土問題を抱えている。

ポルトガル領サントメ島・プリンシペ島

スペイン領赤道アフリカ

南部アフリカ

ポルトガル領西アフリカ
 通称アンゴラ。わずかながらアフリカーナー移民がいる。

ポルトガル領東アフリカ
 通称モザンビーク。しばしば北ローデシア南アフリカ、ノイプロイセンからアフリカ人難民が押し寄せる。

南アフリカ共和国(~)
 WW2終結に乗じて独立。南アフリカでは白人と黒人だけでなく、白人内部においてアフリカーナー(オランダ系)とイギリス系の対立があった。独立後はアフリカーナー政権が主導権を握り、ドナウ連邦やノイプロイセンをモデルとした白人優位政策(アパルトヘイト)が行われている。旧英領南ローデシア、ベチュアナランドや旧独領南西アフリカを併合している。

北ローデシア(~)
 旧独領北ローデシア植民地を引き継ぐ形で成立。ノイプロイセン同様入植政策が取られ、アフリカ人原住民の保護区と白人の入植地に分離されている。白人は主に南東部の穀倉地帯とリヴィングストン、ルサカ、カッパーベルトを繋ぐ鉄道沿いに住んでいる。ノイプロイセンとは異なり、病的な全体主義政権は誕生しなかった。

ドナウ領マダガスカル

アジア

中東
南アジア
東アジア
東南アジア

新世界