ドナウ連邦軍の戦車(更新中)

(戦車イラストは後から付けます……)
 ドナウ連邦軍は世界でも有数の独自規格の戦車を生産する国だった。戦間期では大国のドイツ帝国が戦車の軍事的役割を軽視ししていたこととは対照的に、ドナウ連邦、フランスコミューン、ロシア共和国では戦車開発への支出が優先され、またその運用も革新的なものだった。ここではドナウ連邦軍が開発または運用した戦車を紹介する。

第一次世界大戦1920年

Burstyn-Motorgeschütz

 1911年に開発された戦車のような物で、開発者はギュンター・アドルフ・ブルスティンという二重帝国軍の士官。戦争省はこの戦車の有用性を認めず、実戦投入はなかった。しかしブルスティンは戦間期にドナウ連邦軍による戦車開発に一部関わることとなった。

ルノー

T-19 (Renault FT)

 WW1中にフランスが開発した名作戦車。フランス降伏後この戦車はフランス各地に取り残され、ドイツ軍に接収されたほかはイギリス、イタリア、ドナウの手にも渡っていた。ドナウ連邦には当時革命戦争中のオーストリア臨時政府軍(Folkswehr)に対して秘密裏に送られたフランス軍の軍事顧問とともに約10台が渡ったようである。これらは実践に投入され、革命戦争後も稼働可能だった1台が連邦軍により研究された。

T-25

 Renault FT戦車のコピー版。1925年に制式化し、数十台生産された。

1930年代~第二次世界大戦

ヴァーレチェニク系

T-34

 1930年に陸軍に機甲科が誕生した。これを主導したのは連邦軍の砲兵大将ルートヴィヒ・アイマンスベルガーで、1933年に『戦闘車両間の戦争』を出版し、騎兵を「時代遅れ」と断じ戦車主体の戦争を唱えた軍部の機甲閥筆頭だった。アイマンスベルガーはドナウの重工業企業であるシュコダダイムラーなどとの協力し、トラクターをもとにプロトタイプを設計した。ドナウ初の国産戦車であるT-34はこのプロトタイプに由来する。
 T-34は1934年から1936年までに各企業に戦車生産ノウハウを学ばせる目的から、シュコダダイムラー、ČKD、ヴァイス・マンフレード、マグヤル、ガンツ、マーヴァグといった重工業各社で生産され、その多くが訓練部隊に配備された。

T-38A

 T-35の生産中止を受けて1938年に開発・制式化された。基本的な様式はT-34と変わらないが、性能の信頼性を上げた他はじめてキューポラを上部ハッチ式に変更した。
 エンジンはプラハ社製のS直列6気筒液冷ガソリンエンジン(出力125hp)、武装シュコダ社製の48.7口径3.7cm38年式戦車砲、スブロヨフカ・ブリュノ社製の7.92mm37年式機関銃である。搭乗員はT-35の2人から3人(車長、操縦手、無線手)で、車長と操縦手は砲塔に座っている。このためか車内はやや狭く感じられる。
 T-38戦車はドナウ連邦の傑作戦車として大量生産され、WW2初期の戦線を支えた他、あまたの派生形が開発された。1941年のロシア戦線でロシア軍のT-34に歯が立たないことが判明すると、T-38は第一線から退かれ、支援任務やパルチザン狩りなどに回された。A型の生産期間は1938年12月ごろから1940年5月まで。一部はWW2において成立した傀儡国家クロアチアイタリア社会共和国などに輸出された。T-38シリーズは「ヴァーレチェニク(戦士)」と呼ばれ、後に軍兵器局は戦車に公式の愛称を与えることとした。

T-38B

 1940年5月から12月までに生産されたモデル。イタリア戦線の教訓から装甲が25mmから40mmに強化された他、砲塔可動部に防弾リングが追加された。

T-38C

 1940年11月から1941年10月まで生産されたモデル。装甲がさらに強化され、構造を単純化し生産性が向上した。

T-38D

 1941年10月から1942年6月まで生産されたモデル。さらに簡略化されボルトの数が減少した。このころすでに戦線での運用には耐えられず、ほとんどが後方で運用されていた。T-38戦車の主力用最終モデルとなった。

T-42

 ヴァーレチェニク系をもとに開発された偵察戦車。

フサール系

T-35A

 T-34ダイムラーの設計案が元になっているが、こちらはシュコダが設計した。T-35の設計に当たりシュコダダイムラーの試作品を検査したところ、シュコダ案は劣っていたのにもかかわらず、ドナウ社会主義労農党政権がシュコダと癒着していることもありシュコダ案が採用された。1936年から生産・配備されたが早速動作不良が判明し、軍の強い要望で配備の中止とさらなる戦車の設計をすることとなった。あまったT-35はポーランドやフランス、ブルガリアなどに輸出された他、自走砲や砲弾運搬車両に改造されてWW2に投入された。

T-35B

 ドナウ連邦軍は軽戦車だけでは火力不足であると見込み、アイマンスベルガー砲兵大将の主導で中戦車の開発も計画された。シュコダが計画していたT-35Bは同じくシュコダ製のT-35Aを一回り大きくした中戦車で、47mm戦車砲を搭載する予定だった。しかしT-35Aの生産計画が失敗したこともあり、1937年頃に10台の試作車を生産したのみに終わった。

T-35C

 T-35BをもとにシュコダがČKDと共同開発していたもの。1938年に1台の試作車を生産した。

T-35D

 T-35Cの改良版。アメリカ内戦やスペイン内戦での経験をもとに、装甲と火力が強化されつつ1938年末にようやく制式化された。T-35Dの開発に当たってはシュコダ、ČKDだけでなくハンガリーのヴァイス・マンフレード社のコルブリ・ヤーノシュ技師のチームも参加した。T-35Dはドナウの中戦車における最初の完成形で、デザインこそヴァーレチェニクと変わらないが、全体的なサイズと重量は18.2tとやや増加した。
 1939年のユーゴスラビア侵攻、イタリア侵攻には間に合わず、初陣は1940年春のドイツ侵攻である。翌年のロシア戦線では既に時代遅れの感が否めなかったが、イタリア戦線と北アフリカ戦線、1944年のオスマン侵攻においては相変わらず運用され続けた。1940年末に「フサール(有翼騎兵)」という愛称が命名

T-35E

 T-35Cの装甲強化版。ただしエンジンは変わらなかったため、速度はやや落ちた。1941年から生産された。武装は25口径75mm戦車砲

T-35F

 T-35Eの火力強化版。武装が43口径75mm戦車砲に強化された。1942年より生産。

ヴォルフ・ラデツキー系

T-40A

 ドナウ連邦軍は軽戦車と中戦車(実際に中戦車と呼ぶには小さかったが)開発で実績を積んでいったが、各国の戦車開発競争はより大型へ、大火力へと向かいつつあった。1930年代後半の開戦直前のころにはすでに、既存のドナウ軍の戦車がやがて時代遅れとなるだろうという懸念から、より大型で大火力のヴォルフ戦車の開発が始まった。
 ヴォルフ戦車はこれまでのヴァーレチェニク戦車などの反省を踏まている。例えば搭乗員は3人から4人に増やしており、さらにリベット・溶接ではなくより強度の高い鋳造方式に改めた。またヴォルフ戦車は当時画期的だった傾斜装甲を採用した。同時期にロシアのT34戦車も傾斜装甲を採用したが、当時はロシアの戦車開発の様子はドナウにあまり伝わっておらず、どうやら偶然の一致だったようである。
 T-40A戦車はシュコダやČKDなどのボヘミアの企業が中心に開発し、1940年末には正式採用された。翌年ロシア戦線にて初投入され、ロシアのT34と交戦したが結果は芳しくなく、連邦軍はT-40Aのさらなる改良と突撃砲の開発を急ぐことを余儀なくされた。1940年に「ヴォルフ(狼)」と命名

ラデツキー

 ヴォルフ戦車の重型。