戦間期バルト公国史

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バルト公国国旗

 バルト公国はWW1の結果として誕生した国家であり、事実上ドイツ帝国を構成する一領邦である。いわゆるエストニアリヴォニア、クールラント、西ラトガリアを支配していた。一方東ラトガリアはロシアに残った。国民の多数は原住民のエストニア人(ウゴル・フィン系言語を話す)とラトビア人(バルト系言語を話す)であるのにもかかわらず、その統治はバルト・ドイツ人貴族とロシアからの亡命貴族が独占していた。バルト公国の元首はもちろんドイツ人のアドルフ・フリードリヒ公だった。バルト公国はドイツにおける対露戦略・北欧戦略の拠点であり、ドイツ人が大挙して入植していった。それに対し原住民の不満はたまっていく一方だった。
 バルト公国は北に行くほど識字率が高く、義務教育でドイツ語を学ぶためドイツ本国にとってはよき移民労働者の供給源だった。そのためエストニア人、ラトビア人はドイツ本国に留学したり出稼ぎに行ったりして技能を得、バルト公国の発展に生かすために帰国したり、そのまま帰ってこなくなったりした。そもそもバルト公国とドイツ本国の物価は異なるのにも関わらず同一通貨を採用していたことは、バルト公国の出稼ぎ熱に拍車をかけた。
 不平等な土地制度や民族主義的理由などから時々反乱がおき、こうした背景からバルト公国はドイツ人からなる「バルト陸軍(Baltische Landeswehr)」を組織し、掃討にあたらせていた。バルト公国の独自戦力はこのバルト陸軍のみであるが、ドイツ海軍の内洋艦隊がバルト公国のリガ港に停泊していた。

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バルト公国の地図(Kaiserreich典拠)。東ラトガリアが領土に含まれないのはブレストリトフスク条約締結時のロシア帝国における古びた地方行政区分をもとにしているため。

 バルト公国内の最も成功した反体制運動としてコーポラティズム運動があった。農村や工場などを組合化するこの運動は、コンスタンツィン・パッツやカールリス・ウルマニスなどの民族独立運動と合流した。ところでバルト公国はロシア革命における共産主義を拒否したが、このコーポラティズム運動に近いイデオロギーであるサンディカリズムは当局の弾圧対象であったため、彼らが堂々とサンディカリズムを名乗ることも、フランスコミューンが指導するパリ・インターナショナルに接触することもなかった。このバルト独自の運動を自称し発展していった組合運動は、その形式や手段などを見るならばフルシチョフが唱えた共産主義に実はよく似ていた。とはいえ、彼らはウクライナ共産主義者との接触も拒否した。
 結局バルト公国のコーポラティズム運動が自力で祖国を解放することはなかった。1939年にWW2が勃発し、1940年にドイツ本国がフランス軍とドナウ軍により陥落すると、数百万人のドイツ人難民がバルト公国に押し寄せた(東方ドイツ軍)。翌1941年にドナウ、フランス、ポーランドなどの枢軸国軍が東部戦線を開くと同年中にバルト公国は占領され、枢軸国軍占領下に設置されたバルト人民自治政府を経て、1942年末にエストニア共和国ラトビア共和国が独立した。かくしてエストニア人とラトビア人は「解放」され、独立を勝ち取った。
 東部戦線において当初エストニア地域を蜂起したロシア赤軍がそのほかをフランス軍が占領していたが、フランスやドナウなどの合同司令部である東部最高司令部の努力により旧バルト公国がイデオロギーにより分割される事態は防がれた。これは枢軸国がひとまずの勝利のために、最高司令部にて妥協を図っていたからであった。新生エストニアラトビアはこれで完全な独立を達成できたと信じていたが、実際には枢軸国軍の恩情で与えられた独立であり、WW2終結後はフランスとドナウの提携関係も破綻し、旧バルトを舞台にどちらの陣営に引き込むかの宣伝合戦が行われることとなった。

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独立を祝うエストニア人(1942年)。新エストニアを率いたのは保守系独立運動家のコンスタンツィン・パッツだった。

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通りで歓迎を受ける独立間もない新ラトビア指導者カールリス・ウルマニス(1943年)。

 バルト公国の経済は、ドイツ帝国の一部でありながら隣国ロシアの首都ペトログラードの市場に依存していた。特にエストニアには食品加工と貝油産業が発達し、貝油はドイツ海軍に独占的に納入されていた。経営者や金融などの経済の指導はドイツ人かユダヤ人が担っており、遅れて識字化し大学を出たエストニア人、ラトビア人は競合相手であるドイツ人とユダヤ人を憎み、民族主義による経済の「民族化」に傾倒するようになった。この主張は農村に土着する組合運動と合流し、バルト公国当局による弾圧にもかかわらずしつこく生き残り続けた。何より世界恐慌やドイツ本国の金本位制固執などはバルト公国経済に悪影響を与え、ドイツ本国と同様に非合法の民兵組織や過激な政治運動などを促していった。この鬱憤はWW2と同時に弾け、フランス軍がバルトを「解放」すると、エストニア人とラトビア人はドイツ人とユダヤ人に対して攻撃を加え、数千人の血が流れた。特にドイツ人に関しては、ドイツ本国の陥落で万単位のドイツ人難民が押し寄せ食糧が不足していたこともあり、とりわけ攻撃対象になった。またバルト北部に進駐した赤軍エストニア人もドイツ人も等しく襲った。
 このように、大国に挟まれた緩衝地帯であるバルト公国の運命は悲哀に満ちていたのだ。