協和党第1期党中央・内閣名簿
1960年春の宮城進軍事件で窮した岸内閣が退陣し、政権は明け渡された。しかし、この時点では政権を担うべき政党が存在せず、岸信介は政治空白による混乱と政権奪還を目論見て退陣したのだった。
これに対し、倒閣を煽動した永仁親王、重臣近衛文麿は急遽新内閣と新政党の設立へ向け工作を開始、ちょうど昭南で実力を積み総理大臣の座を狙っていた池田勇人と派閥「宏池会」を抱き込み、永仁親王のブレーン組織「新日本研究会」、近衛文麿人脈による在野政治家や大日本政治会の非主流派を集結させ、1960年6月に新党「協和党」が誕生した。それにともない、池田勇人による池田内閣が成立する。全体主義的な党国体制成立を日本でも急ぎ、協和党には指導的立場と内閣との共同歩調を与えたほか、満洲国協和会をモデルとした指導組織とブレーン組織が設置された。
池田内閣は国政の収拾を急ぎ、民主的な選挙の実施を約束した。第1期の党中央は永仁や近衛、池田などの幹部の談合で決められているが、本来は予備選挙と本選挙を経ることと党規約に規定されている。池田は約束を守り、1961年6月に党員党友による予備選挙を実施、10月に本選挙と党大会を経て第2期へと改選した。
ここでは、1960年6月から1961年10月までの協和党第1期における党中央人事と内閣人事について述べる。
- 党中央
- 中央指導委員会
- 党中央機関
- 党中央付属委員会
- 内閣