ダグラス・マッカーサー
ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur、1880‐1941)はアメリカの軍人、陸軍元帥、独裁者。アメリカ内戦においてガーナー大統領に対しクーデターを起こし、内戦の直接的原因をつくった。航空機事故で悲劇的に死亡した。
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- フーヴァー政権下にて
- クーデター決行、内戦へ
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- テーラン・ヴァイス作戦
- デンヴァーの勝利、突然の死
- その後
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『ドナウ連邦建国史』執筆日記 第3回
アメリカ内戦記事の執筆が終わり(マッカーサーやロングなど人物伝が書き終わっていないが)、建国史は戦間期〜WW2の設定を一通り終えて冷戦編に突入しつつある。冷戦編執筆に当たり、国家を超えた巨視的な視点から戦後世界を眺め、冷戦がどのように進展し、そして冷戦が終わる日が来るのかどうかについて考察したい。
全体主義はいつ終わるのか
まず、全体主義について簡単にまとめる。全体主義とは、総力戦体制に起因する、自由や平和、民主主義に対する反動と否定である。
そもそも、ドナウ連邦やフランスで全体主義政権が誕生したのは、WW1で総力戦を経験した世代が台頭し、あらゆるレベルで総力戦の論理――上官への服従や英雄主義など――を導入しようとしたからである。総力戦を体験したのは国民全体であったから、全体主義の台頭とともに政治は議会の密室から、国民全体へと還元されると同時に、巨大な党組織の設立と彼らの参加と階級上昇が見られた。
簡単に例えると、議員にも資本家にもなれないただの一般人が、戦争を経験し、全体主義政党を支持することで党や準軍事組織の指導的地位に就くことができた。こうした動きは「全体主義革命」と作中で呼ばれた。全体主義革命が進行すると、全体主義政党が政権を掌握し、社会全体を全体主義へと改造していくようになった。
しかし、こうした全体主義の夢は永遠でなかった。全体主義が総力戦体制の経験に由来する以上、戦争がなければ全体主義の記憶は時間とともに薄れていく。全体主義国家が全体主義者を再生産することもありえるが、平時の総力戦体制とは、戦時に比べて強烈さが足りない。
全体主義はいつ終わるのか、それはWW2から2、30年後である。
そして、第一の問題はここにある。つまり、全体主義が忘れ去られたあとのイデオロギーは何か、ということである。
自由と民主主義が人間の本能であれば、全体主義の夢の後にはそれがやってくると考えるのが当然である。しかし、これに付け加えるとすれば、全体主義体制が革命で構築されたのに対し、自由と民主主義は革命に依らず緩やかに湧き出てくるのであれば、全体主義体制のシステムを破壊するほどの力は持たないのではないのだろうか。
つまり、全体主義が終わっても、全体主義時代の面影はやや残るということである。例えば、史実日本における年金制度は総力戦体制の産物だが、福祉国家を支える装置でもあることからも生き残っている。全体主義の終焉が、ナチスドイツの敗戦のように暴力的革命的なものでない限り、そのまま流れるに任せて全体主義時代のシステムは残っていくのだろうと思う。
全体主義革命が産んだシステムは福祉国家と関係するものが多いことも、その考えを支えている*1。そもそも福祉国家とは、識字率の増加に伴う医療の進歩で乳児死亡率が下がり、人間の命がより重くなったことを裏付けるシステムである。人の命が重くなれば、総力戦はより困難になる。
建国史のWW2は核兵器を使用しなかった(開発が間に合わなかった)ので、総力戦をあともう一度ほどやる機会があるかもしれないが、識字率増加に伴う技術進歩が止まらない以上、核兵器の採用は避けられないだろう。
この冷戦は誰が勝つのか
勢力圏と識字率
冷戦というと、ベルリンの壁やソ連崩壊が連想されるが、『ドナウ連邦建国史』において同様の展開を期待するのはやめたほうがいい。あのような自体は極端な例である。
建国史における冷戦とは、ブロック経済と言いかえることもできる。世界はフランス、ドナウ、日本、新大陸*2分割され、勢力圏の盟主が安全保障だけでなく、金融や貿易などを統制する。人の移動も勢力圏を超えるものは稀になる。勢力圏によって兵力や資源などの差はあるが、最も注目すべきは識字率である。
識字率は教育レベルや技術、そして経済と一説に関わっていることを論じた一人はフランスの人口学者エマニュエル・トッドであるが、建国史における長期的な経済観の多くは国民経済学的なトッドの研究に寄っている。
大雑把にトッドの研究を引用すると、識字率を高める力は伝統家族の文化的形態に由来し、例えばドイツ人やロシア人、日本人、中国人、朝鮮人などが特に識字率が高く、伸びが急激だという。逆に低くて緩やかなのは、フランスやアングロサクソンなどである。
識字率の高い民族は技術の向上と製造業を中心とする経済の拡大をもたらす。19世紀のアメリカは、ドイツ人を移民に受け入れることで一時的に急激な識字率の上昇を経験し、保護貿易で時刻産業を保護することで、イギリスを超える経済大国へと変化した。
これら識字率についての理論を建国史の冷戦に適用すると、まず、各勢力圏は識字率によってグループ分けできるがわかる。
・冷戦開始時の識字率の高低は以下の通り(盟主の同盟国や傀儡などを含む)
ソ連、ドナウ、フランス>アメリカ>オーストララシア>日本
・冷戦時代における識字率上昇の急緩(カッコ内は識字率が急増する具体的地域)
日本(東南アジア、中国)>ソ連(カフカス、中央アジア)>アメリカ(ラテンアメリカ)>ドナウ、フランス、オーストララシア
ただし、アフリカを含めるならばドナウとフランス勢力圏の識字率も急激に上昇する場合がある。ただ、ブラックアフリカが対等な人間として取り込まれるのは難しく、また識字率がヨーロッパ並に上がる時期は遠い未来だろう。もちろん、識字率増加は必ずしもいいことばかりではなく、とりわけその伸びが急な場合、著しい世代間対立と不安定な政治を生みかねない。史実の東南アジアは激動の冷戦時代を歩んだ。
冷戦とは勢力圏間における人的移動の制限であるので、技術は各勢力圏で独立して発展することとなる。国際緊張が続き軍産複合体が巨大であれば、軍事機密もあり新技術はなかなか表に出てこないだろう。史実のインターネットがいい例である。
こうなると、識字率が低く、また増加しない勢力圏では技術レベルが停滞する。オーストララシアがまさにそれである。北米諸国もWW2のドイツ系難民のため特に北米ドイツは大きな技術躍進を経験するが、それ以外はあまり芳しくない。ラテンアメリカいおける識字率向上のスピードはとても緩やかであるからだ。フランスも比較的不利だが、勢力圏内のノルウェー、西部ドイツ、アイルランド、スコットランドの識字率は高い。
比較的有利なのはドナウ、ソ連、日本である。ただし、ドナウ勢力圏内にあるアラブ連邦は、もともと識字率が低く、その上昇もラテンアメリカ以上に遅く、ドナウの足を引っ張るだろう。ソ連はカフカスや中央アジアなどの同じくイスラム圏の一部が同様である。日本はモンゴルやインドなどを除けば全体的に有望である。しかし、日本は東南アジアと中国の急激な識字率向上による混乱に耐えねばならず、欧米の援助がないなか自力で技術開発をせねばならない。識字率が高くても、欧米に比べて遅れて近代化を果たしたギャップは無視できない。
このように、識字率という視点から見ると、どの勢力も一長一短はある。もちろん、識字率がすべてを決めるわけではなく、識字率増加に伴う政治的混乱も考慮せねばならない。
官僚制度
全体主義とは高度な連帯であり、福祉である。これを支えるのは党であれ国であれ、官僚的な形へと至る。実際、史実でも冷戦時代は文書国家の最盛期だった。巨大な官僚制を維持するには大量の文書が不可欠である。そして、官僚制は非効率であることも認めなければならない。史実のソ連崩壊において語られた「お役所的非効率」はこれに由来している。
全体主義革命は、産業化と中産階級勃興の過渡期というタイミングにしても、そしてその目的にしても巨大な官僚制を産むことは不可避である。
トッドの研究を再び引用すると、官僚制を含む上下関係を持つあらゆる組織もまた、伝統的な家族の形に由来して効率性が変化するという。結論のみ述べると、ドイツ、ロシア、日本、中国、朝鮮は縦型の組織に優れている。逆にそれ以外の民族は、東南アジアといった識字率が急増する民族でも優れていない。必ずしも識字率が高い=縦型の組織に優れているわけではない、ということである。
とはいえ、以上の縦型の組織に優れた民族による官僚制は、比較的効率的というだけであり全能ではない。
また、国家があらゆるものを官僚制を持って処理するということは、失敗の責任を国家が追うということを意味する。失政は政治の本質であり、それが重なれば官僚制は批難され、解体される。
民営化は官僚制に対する一つの解答だが、これは単に責任を曖昧にしているだけに過ぎず、全体主義革命以前に戻ることを意味している。民営化とレッセフェールが単なる寡占だけでなく、技術と社会の停滞をもたらすことは、もはや肯定せざるを得ない。
建国史の世界が官僚制を素直に民営化するか、それとも民営化で痛い目を見てこれを止揚するか、民営化を経ずに使用するかは議論の余地がある。
筆者たる私は、知識人の筆がもたらす可能性を楽観的に信じているので、三番目の未来、すなわちある哲学者や理論家が事前に民営化以外の解決策を示し、これを実行するとしてストーリーを書いていきたい。そのときこそ、全体主義がただの反動から一つの完成された世界観へと飛翔するときであろう。そもそも、全体主義革命を理論的に支えた資本主義や自由主義などに欠陥があることは、史実の歴史が証明している。これを血をもって倒した複数の勢力圏すべてが、革命の成果をリセットして革命前に戻るということは現実的ではない。フランス革命が産んだ国民国家も、ロシア革命が産んだ年金制度も現に、革命が終わったあとも残っているのである。
以上の予想を総合すると、冷戦自体は終焉せず、勢力圏ごとに発展の差はあれ、史実のソ連崩壊のような結果には至らない、ということになる。これはあくまでも一つの予想であるので絶対ではないが、ありえる歴史の一つであろう。
アメリカ・サンディカリスト国
アメリカ・サンディカリスト国(CSA)とは1937年1月の武装蜂起でイリノイ州、インディアナ州、オハイオ州、ミシガン州の一部で成立したサンディカリスト政権である。アメリカ内戦勃発の引き金となり、一時はアメリカ北部のほとんどを支配しつつ、1946年に滅亡した。CSA滅亡と同時に内戦は終結した。
歴史
アメリカ内戦勃発時にCSAが成立したこれら地域は工業が盛んで、内戦以前からサンディカリズムの拠点でもあり「レッド・ベルト」と呼ばれていた。
CSAは人種・民族を問わぬあらゆる労働者と農民から構成されており、これら雑多な勢力は内戦直前の1936年にパリ・インターの指示で「アメリカ人民戦線(PF)」にまとめられた。「サンディカリズム」と一言に括られている様々な主義主張を持つPFをまとめる立場にあった、PF指導者ジャック・リードは、ロシア革命のルポルタージュ『世界を揺るがした10日間』で知られる。また、リードはCSA成立時の臨時国家指導者たる革命軍事委員会委員長も引き受けた。
CSAの内政は二つの時期に分けることができる。1937年から1940年にかけてのジャック・リード議長の時代、そして1941年から崩壊までの独裁者アール・ブラウダーの時代である。
リードの時代(1937-1940)
都市における生産手段の奪取
折からの世界恐慌による荒廃、そして1937年1月の大統領選挙に伴いダグラス・マッカーサーが非常事態委員会委員長に任命されたことにより、アメリカの治安は急速に悪化していた。これがとりわけひどかったのが、サンディカリストによる武装蜂起が起きた北部のレッド・ベルトである。治安の悪化は労働組合、すなわちサンディカの武装を促し、同様に武装していた警察やマフィアなどの重要性を高めた。また、一般市民も民生用の武器で武装化していった。自己の生存は銃弾によってしか守られないからである。
1937年1月の新年スト、大統領直後の建国蜂起にて起きたことは、軍と連邦政府のあらゆる権力が完全に失われたことを曝け出し、サンディカや警察、マフィアなどがこれを継承したことを示した。そして、この三者は闘争し、サンディカが勝利したのである。
勝利したサンディカは警察とマフィアに対し停戦協定を結び、CSA体制に取り込んだ。警察もマフィアも地元に深く根付いており、現地のサンディカと協力することはそれほど困難ではなかった。実際に、CSA軍と赤衛隊には地元警察出身者も少なかった。マフィアは労働者を脅かす存在であるスト破りを、経営者との契約に基づいて供給していたが、同時に貧民への炊き出しも行っていた。地元住民の支持が薄くなかったからこそ、マフィアもまたCSAにて温存され、その体制の一部となった。アル・カポネのシカゴマフィアを継承したフランク・ニッティは、のちに労働総取引所議員に当選した。
こうして足場を固めたサンディカが行ったことは、あらゆる生産手段の没収だった。
各地の地元サンディカと武装労働者は、与党人民戦線(PF)や革命軍事委員会の支持を待たず、自発的に生産手段を奪取した。例えば、首都シカゴでは大企業の工場だけでなく中小の町工場や個人商店などまでも没収された。抵抗すれば射殺された。ピッツバーグでも規模にかかわらず全ての工場がPF傘下の産業別労働会議(CIO)やアメリカ労働総同盟(AFL)などの管理に下った。工場または企業所を奪われた経営者は、公衆の面前に引き出されて暴行されたのち、頭をもたげて道路掃除を強制された。労働者らは経営者の哀れな姿を罵倒し、唾を吐いて嗤った。その後「通行料」と称して全財産を没収されCSAの支配地域外に追放されたか、悪名が高い経営者の場合は即決裁判を経て銃殺された。
かねてから労働者に同情的だったり団体交渉に容認的だったりして労働者に人気があった経営者は、自身の従業員に守られてこうした洗礼を免れることができた。こうした経営者は、新たに労働者として「生まれ変わり」、同一賃金で他の労働者と同様に働くこととなった。運が良ければCSA政府に登用される例もあった。
このように生産手段を奪取したサンディカは、PFの支援も借りつつ現地のサンディカ主導で経済構造再編に着手し始めた。
サンディカが経営するようになった各工場は地元の郡コミューンの統制下に入った。郡コミューンは地元のサンディカ参加者から構成された。生産は郡コミューンを経由した資源の直送に依存し、この過程で中間業者は締め出された。これより、郡コミューンを介した工場と原材料生産工場の交渉によって価格が容易に決定できるようになった。
次に、サンディカは中小工場の再編を行った。中小規模の工場や商店などを一つの巨大な施設に移転し、生産性を改善させた。こうして、CSAにおいて中小規模の工場または商店は姿を消すこととなった。この措置に元中小企業経営者は衝撃を受けた。彼らが革命に臨んだのは大企業との不当な競争の廃止であり、生産手段と財産の完全な没収ではなかったからである。彼らは一般の労働者と同様に働くことを望まず、せめて事務職といった同じ中産階級の職へのの再就職を要求した。革命で没落した中産階級は、サンディカ主導の経済システムに対する反対者となった。
農村における革命
農村においても同様に暴力の嵐が起き、地主や商店主などはその資産を失った。とりわけ憎まれたのが地元銀行であり、大恐慌による抵当流れで多くの農地を農民から奪っていたため、銀行家のほとんどは私刑をもって殺害された。
かつて銀行や商店などであった建物は、作物貯蔵所やカフェ、食堂、兵舎など公共施設に改装された。農作物の生産を含む村の経営は地元住民による村コミューンによってなされた。村内の経済行為に関して貨幣は廃止された。
村コミューンを支配する郡コミューンとそれを支えるサンディカは、村コミューンに対し農業の集団化と余剰作物の拠出を要求した。村コミューンによる農作物の隠匿は、もっぱら郡コミューンとの関係に左右された。
革命による農村の自治徹底は、農民の生活水準を向上させ、農民に支持された。ここでは、イリノイ州ジャスパー郡ウィローヒル村に対する取材を引用する*1。
ウィローヒルでは既に貨幣が廃止され、必要なものを必要なだけ入手できるようになっていた。村コミューンの委員会によって村の中心にある配給所から手に入るという。支払いはクーポン券でなされる。このクーポン券は世帯単位で村コミューンから配給され、日々の食糧はもちろん、床屋での散髪もクーポン券がなければ購入できない。
クーポン券それ自体は郡コミューン経営の印刷工場にて生産され、村コミューンは印刷工の給料を本物のドルで支払っている。ただし、このドルでできたクーポン券はドルと交換できない。クーポン券は消費財としか交換できないし、例えば余ったジャガイモ用クーポン券を貯めて、自転車を購入することは許可されていないのだ。
村コミューンの委員会は強力な権限を持ち、クーポン券の原資となっているドル札を自由に処分できる。配給で入手できない物品は委員会を通してドルで買うほかない。いわば、委員会は家長なのである。
(中略)
私はこうしたシステムに当初懐疑的であらざるを得なかったが、実際に村を訪問して農民が案外生き生きしている点に驚いた。農民との会話で感じ取ったのは、委員会による村の経営が生活の隅々まで行き届いているということだった。
「例えば、村から外出する際はどうしますか」
「簡単だべ。委員会でクーポン券をドルに換えるんよ」
「いくらでも換えられるのですか」
「そりゃ駄目に決まっとる。必要な分まで交換するべ」
「例えば――ある若者の彼女が別の村にいるとして、会いに行く場合は委員会は許可しますか」
「ダメなわけねえ。毎晩でも委員会は交換するべ」
「例えば街で映画を見ることもですか」
「できる――ああ、でも売春用はダメだ」
リードによる総選挙と死去
革命軍事委員会委員長であるジャック・リードは創設されたばかりのCSA軍を通じ、アナキズム的だった社会を統制しようと画策した。革命と内戦の混乱でサンディカは武装し、このうち警察権力を認められた武装労働者は赤衛隊と呼ばれたが、彼らの乱暴狼藉が目立った。参謀総長のスメドレー・バトラー元帥は赤衛隊員を軍の統率に引き入れ、前線に投入した。こうして赤衛隊の人員を削りつつ、1938年末には全赤衛隊を革命軍事委員会の指揮下に入れることに成功した。
次にリードは現地サンディカの権力を縮小することを試みた。リードはサンディカの権利擁護と戦争のための中央統制という相反する二つの路線に挟まれていたが、強力なマッカーサー軍を打破するためには多少の中央集権化も必要である、と考えていた。
まず、ハロルド・ウェアによる中央統制的な農業集団化と食糧配給システム構築を達成し、次に軍需増産のための工業生産の中央管理を要求したが、現地サンディカの反対で失敗した。リードも現地サンディカを敵に回して政権が瓦解することを恐れ、これ以上要求しなかった。現地サンディカの指導者と中央の関係が生産や志願兵などの増加に影響していたように、現地サンディカは郡市村コミューンの実質的な支配者として強大な影響力を保持していたのである。
リードはこの対立を平和裏に解決するため、合法的権力の確立、すなわち労働総取引所選挙を1940年春に開催した。同様の選挙は各郡市村でも行われ、さらに選出された郡市村コミューン執行委員の一部を上級コミューン執行委員に選出することで、中央から地方に対するネットワークが完成した。これにより、アナキズム的秩序はある程度回復し、地方行政はサンディカでなく現地のコミューン執行委員会が行うようになった。
このように内戦直後の混乱を収拾するという業績を残したリードだったが、1940年夏に病死してしまった。また、バトラー元帥も同時期に病死し、中央権力に空白が生まれた。この空白を利用し最高指導者を継承したのがアメリカ共産党出身のアール・ブラウダーだった。
ブラウダーの時代(1941-1946)
生産の中央集権化
リードに次ぐ革命軍事委員会委員長に就任したブラウダーに関して、粛清抜きに語ることはできない。というのもブラウダーによる中央集権化改革と粛清は表裏一体の関係だったためである。
当時の現状として、リードの尽力で社会は安定化したものの、戦火は激化、空襲は増加、戦線は拡大しCSAはより体制を戦時向けのものに変える必要があった。具体的には労働総取引所執行委員会で指摘されていたように、現地サンディカやコミューンなどによる生産活動は余暇が多く、消費財を無駄にし生産性も低く、民間による物資輸送においては物資の横領が絶えず、当時の志願制度は工場単位でなされ、兵士の志願と引き換えに無能な現地有力者が指揮官となる例が横行していた。
ブラウダーはアメリカ連合国(AUS)、アメリカ太平洋州国(PSA)だけでなく将来カナダとの戦争が不可避であると認識しており、CSAの軍事力を底上げし、ドゴールのいう「ハリネズミ国家」に改造する必要がある、と論じた。
1940年10月1日、ブラウダーは革命軍事委員会命令を通じ生産担当執行委員部に各産業の統制員会を設置し、経営を含む生産に関するあらゆる分野へに介入することを認めた。この生産行為に対する介入は、現地サンディカから反発を呼んだ。
ブラウダーとその路線を支持するコミュニストはサンディカ経営方式を批判して反論した。ジョン・ルイス生産担当執行委員はこのように述べた――「我々は無計画にブルジョワから経営権を奪うことだけで満足してしまったが、それが根本的な誤りだった。(中略)高利益をもたらすという理由だけで不要な奢侈財を生産したり、然るべき生産管理が行われず売り上げをそのまま労働者の間で分配したりし、経営危機に陥って助けを求めてきた工場を、我々はいくつも見てきた」
ブラウダーはラジオ番組でこう述べた「サンディカ管理の社会主義はアナキストの社会主義である」。すなわち、現状の問題の犯人をアナキストとしたのである。
反ブラウダー派の先頭に立ったウィリアム・フォスターは、これに対する現地サンディカの反発を背負ってブラウダーを批判した。かつてフランスにてコミュニストとの政争に敗れアメリカに亡命した過去を持つスヴァーリニストらは、ブラウダーの路線をドゴールの猿真似と指摘し、フランス同様の「堕落した労働者国家」に繋がるであろうと批判した。
逆に、こうしたブラウダーの改革を支持したのは軍だった。バトラー死後CSA軍はスペイン内戦帰りの有能な将軍らが支配するようになったが、彼らはさらなる高度な戦争遂行のために、より強力な軍需生産と管理を要求した。さらに、内戦勃発時に職場を追われ、軍に吸収された元中産階級、すなわち生産をより効率化する職業である会計士や生産技術者などは、工場生産における彼らの復権と軍隊式の高度な構造の生産の復活を要求したのである。
ブラウダーはこうした声に応え、フランスやドナウなどで既に行われていた生産の中央管理と統一的な会計基準の導入などを断行した。抵抗すればCSA軍部隊を派遣し武力でしたがわせた。ブラウダーはこのように実行力に富んだ指導者だったが、リードのような仲裁者的一面に欠けていた。当然としてフォスターら反ブラウダー派の怒りは収まらず、これに対するブラウダーによる粛清に繋がるのだった。
粛清
詳細は「アメリカ内戦」を参照。
donau.hatenablog.com
こうしたブラウダーとフォスターの対立は頂点に達し、結果としてフォスターは軍に誘拐されたのち拷問を受け自殺した。これを皮切りにフォスター派の中央政治家、次にアナキストやスヴァーリニストも失脚し、粛清された。
労働者は突然の中央政界の一変に困惑し恐怖したが、生産の中央集権化に対する反応は案外悪くなかった。もちろん、現地サンディカの指導部が反対したことは事実だったが、彼らの支配を受けていた労働者にとって、中央集権化にともなう生産体制の一新は、新たな出世チャンスを意味していたからである。肉体労働を余儀なくされていた元中産階級も、巨大な中央集権的生産システムを支えるホワイトカラーに転職した。
また、中央政界の粛清と同時に行われたのは、中央統制に不服な赤衛隊の一掃だった。リード時代になされた赤衛隊の中央支配をさらに強化し、徴兵システムにおける腐敗を排除する役割があった。この改革も同様にうまくいったのは、赤衛隊が軍需物資に依存していたことだけでなく、軍民が赤衛隊にうんざりしていたことも原因にあった。
スペイン帰りのハンス・エムリー将軍はラジオ番組でこのように述べた。「正規軍指揮官が匪賊討伐作戦を命じ、赤衛隊がそれを討議するために会合を持つ。討議のために5時間、6時間、7時間費やされる。そしてやっと作戦が開始されるや、匪賊はすでに略奪した後だった。これは笑い話であるが、恥じるべき話でもある」
革命軍事委員会に服するはずの赤衛隊がこのような状態にあったのは、赤衛隊の活動範囲が地元に限られ、赤衛隊員が地元出身者で占められたため現地サンディカの強い影響下にあったためであった。現地赤衛隊に影響力を持つ現地サンディカの人間は、当然として彼らが前線に動員されると指揮官として同行することを要求した。前述のように、こうした素人指揮官は戦闘の足手まといであり、軍は不満を持っていたのである。
内戦当初は軍の人手不足もありこうした事態も容認されざる得なかったが、ブラウダーが革命軍事委員会に就任した1940年時点では指揮官養成が進んでおり、軍に人材の余裕ができていた。こうした背景を持って、赤衛隊に対する改革もまた行われたのである。
敗戦
しかし、ブラウダーの改革は急すぎた。このことは1942年末に反ブラウダー派の反乱が勃発していることからも一目瞭然である。
とはいえ、もしブラウダーが政権を握らねば実際より早く敗戦したと考えるのも自然である。ブラウダー政権の敗戦は戦争による破壊と戦線の要求に対する生産が不足していたことが第一の理由であったからである。
前述のように、ブラウダー政権は赤衛隊と現地サンディカの権力を潰し、生産を効率化させ余剰人員をCSA軍に供給していた。しかし、粛清と同時期にイギリスが参戦し新たな戦線が開いたため根こそぎ動員をせざる得なくなった。根こそぎ動員では軍による十分な訓練を経ずに兵員が投入されるようになり、貴重なマンパワーが枯渇していったのである。
政治
労働総取引所執行委員会
労働総取引所執行委員会とは、CSA建国時に設置され1940年に選挙で改選されたCSA市民の代表機関である労働総取引から選ばれた、立法並びに行政機関である。
主要な常任委員
ノーマン・トーマス(1884-1946)
中立派。執行委員長。ジャック・リードと同様に元アメリカ社会党員で、世界恐慌を機にパリ・インターに接近し過激派へと転向した。ジャック・リードの最も忠実な部下の一人とされていたが、ブラウダーによる粛清に対し公然と反対せず、日和見的態度を取った。1946年に自殺。
アール・ブラウダー(1891-1946)
コミュニスト。軍民調整担当執行委員、革命軍事委員会委員長。1929年よりアメリカ共産党の指導者に就任し、世界恐慌以降の社会主義運動を推進した。優れた演説家、著述家でも知られており、ラジオ演説をしばしば多用した。CSAにおける中央集権化論を主宰し、ブラウダー派としてトーマスやフォスターなどと対決、軍とテクノクラートを味方につけ政敵を粛正した。内戦末期でも狂信的に勝利を確信し、最期は地下壕で自殺したとされる。
ガス・ホール(1910‐2000)
コミュニスト。情報担当執行委員、革命軍事委員会委員(1943-)。フーヴァー政権下での弾圧を耐え、官憲との武闘を指揮したアメリカ共産党員。ブラウダー派の主要人物であり、情報機関をつかさどった。内戦後しばらく行方が不明となったが、1950年にフランスに帰国し、その後ソ連(ウクライナ)に亡命して同国に影響を与えたといわれる。
ユージン・デニス(1905‐1946)
コミュニスト。執行副委員長。ブラウダー派の一員としてカリフォルニアで活動していたが、「カリフォルニア州犯罪的サンディカリズム法」により起訴されフランスへ亡命する。1935年にアメリカに帰国したが息子は人質に残された。事務処理に優れブラウダーを支えた。
ジョン・ルイス(1880-1949)
コミュニスト。生産担当執行委員。労働組合の一つである産業組織委員会(CIO)の創設者・指導者だった。CSAの戦時経済運営を指導し、ブラウダーに大きな影響を与えた。また、1937年の新年ストにおいてGMの私兵と武闘を起こし、勝利した(オーヴァーパスの戦い)。シカゴ裁判を経て1949年に処刑。
アンナ・ストロング(1885‐1970)
コミュニスト。郵政担当執行委員。女性ジャーナリストとしてフランス赤色革命とロシア革命を目撃し、熱心なコミュニズムの支持者となった。また、1920年代後半に中国旅行し宋慶齢(孫文の妻)や周恩来などと交流したことがある。1930年に渡仏し、ロシア系ユダヤ人の小官吏Joel Shubinと結婚、1936年にアメリカに帰国した。内戦後は中国に亡命し、毛沢東にかくまわれた。
ハリー・ブリッジス(1901‐1948)
コミュニスト。フォスター粛清後の外務担当執行委員。1934年の西海岸ストライキを指導して頭角を現した、ブラウダー派若手幹部の一人。戦後シカゴ裁判で処刑。
エマニュエル・ハルデマン=ジュリアス(1889‐1948)
コミュニスト。宣伝担当執行委員、人民戦線宣伝部長。フォスター派のビッテルマンが失脚した後、ブラウダーへの忠誠心が評価されてこれを継いだ。ユダヤ系の出版者出身で、貧困層向けの安価で小型のパンフレット「リトルブルーブック」で知られる。戦後、シカゴ裁判を経て処刑。
ヘニング・ブローメン(1910‐1946)
デ=レオニスト。経済担当執行委員。デ・レオン主義と呼ばれるサンディカリズムの古い分派政党である、アメリカ社会主義労働党(SLP)の指導者だった。資本主義を廃止し、社会主義産業組合主義による国家建設を主張しており、ブラウダーの中央集権化路線に近い立場だった。内戦末期に戦死。
ウィリアム・フォスター(1881-1943)
サンディカリスト。外務担当執行委員、リード死後の人民戦線指導者。WW1前から労働運動を率いた古参であり、リード時代のナンバー2政治家だった。リード死去後は労働組合の自主性と権利を擁護し、ブラウダーと鋭く対立した。そのためブラウダーによる粛清では第一の標的とされ、1942年に秘密警察に拉致され、翌1943年には「イギリスのスパイ」として裁判で自白し、処刑された。
サミュエル・ダーシー(1905-2005)
サンディカリスト。労働担当執行委員。1934年の西海岸ストライキにおいて指導的役割を果たし、頭角を現した。熱心なフォスター派であり、サンディカの自主性と権利を擁護していたが、このため中央政府の権力を強化しようとしたブラウダーと対立した。秘密警察の追及から逃れ、ネストル・マフノ率いる反乱軍にフォスター派を代表して参加したが、ほかの主要フォスター派幹部が死亡していたこともあり、影響力は大きくはなかった。戦後フランスに亡命。
ウィンダム・モーティマー(1884-1944)
サンディカリスト。司法担当執行委員。フォスター派の一人で、サンディカ国家理論のイデオローグだった。1943年に失脚し病死。
アレクサンダー・ビッテルマン(1890‐1946)
サンディカリスト。宣伝担当執行委員、人民戦線宣伝部長。フォスターの補佐官だったため失脚。
ウィリアム・ダン(1887-1943)
サンディカリスト。経済担当執行委員。ブラウダーによる粛清で処刑。
ジェームス・キャノン(1890‐1943)
スヴァーリニスト。経済担当執行委員。元共産党員だが、独立してスヴァーリニスト政党アメリカ労働党(AWP)を創設し、党首となった。1936年にジャック・リードの呼びかけに応じアメリカ社会党(SPA)へ大同し、CSA建国に参加。1943年に公開裁判で処刑。
シドニー・フック(1902-1989)
スヴァーリニスト。無任所執行委員、社会主義教育研究所長官。実用主義的社民主義哲学者であり、ブラウダーに抵抗し、内戦を生き残ってドイツ領アメリカで暮らした。人道主義と学問の自由を擁護した。
マックス・イーストマン(1883‐1969)
スヴァーリニスト。財務担当執行委員。共産党員としてパリ・インターの手引きでフランスに滞在していたが、ドゴールクーデターと粛清を目撃し、幻滅する。赤系ロシア人の妻エレナ・クリレンコ(ボリシェヴィキ政治家ニコライ・クリレンコの妹)とともにアメリカへ亡命した。そこでスヴァーリニストとなったが、やがてマルクスさえも批判し、1942年にカナダへ亡命した。内戦後シカゴ裁判に出廷しCSA側に不利な証言を残した。以降、反組反共活動家として知られる。
マックス・シェフトマン(1904‐1950)
スヴァーリニスト。内務担当執行委員*2。AWP党首としてブラウダーやフォスターらCSA主流派を「官僚的集団主義」と呼び、1943年にキャノンが処刑されると武装蜂起をした。敗残兵として彷徨い1950年に死亡。
カルロ・トレスカ(1879‐1944)
アナキスト。マフィア問題担当執行委員、反マフィア行動委員会委員長。イタリア系移民であり、IWWメンバーだった。マフノの反乱に便乗して反乱を企てたとして逮捕、処刑。
ジム・フォード(1893-1947)
黒人。人種問題担当執行委員。NNC(全国黒人会議)メンバーであり、パリ・インター大会に出席したことがある。ブラウダーによる粛清は免れたが、戦後白人に私刑を受け死亡した。
ハーバート・ハイトケ(1892‐1974)
中立派。軍事担当執行委員。CSA軍にいち早く参加した元米陸軍将官だが、事務処理能力に優れたため後方の軍政を専ら行った。
ハロルド・ウェア(1898‐1948)
中立派。農業担当執行委員。アメリカ共産党員で、フランスのパリ・インター付属大学に留学して集団農業を学んだ。この経験をもとに、CSAでも集団農場を導入した。シカゴ裁判中に病死。
ジョン・アプト(1904‐1948)
中立派。司法担当執行委員。内戦前は産業組織会議(CIO)の顧問弁護士で、CSAでは抜本的な司法改革を行った。シカゴ裁判で処刑。
アルジャーソン・リー(1873‐1946)
中立派。教育担当執行委員。戦争末期に空襲で死亡。
マックス・ベダハト(1883-1948)
中立派。無任所執行委員、ニューヨーク・コミューン執行委員会委員長。
エリザベス・ノード(1902‐1986)
中立派。無任所執行委員、ボストン・コミューン執行委員会委員長。女性組合活動家であり、1934年には女性が多い繊維労働者によるストライキを指導した。
エリザベス・フリン(1890‐1964)
中立派。女性問題担当執行委員。1934年の西海岸部ストライキに参加し、内戦直前の1936年には共産党に入党。戦後はフランス亡命した。
リー・プレスマン(1906‐1946)
中立派。経済担当執行委員。連邦政府の官僚を一時務めていたが、1935年に辞し産業組織会議(CIO)法務顧問になり、団体交渉を行った。1945年に「フランスのスパイ」として逮捕、処刑。後年フランス外務人民委員部で開示された情報によると、実際にフランスのスパイとして雇われていた。
ジョン・デューイ(1859‐1952)
中立派。経済担当執行委員。著名なプラグマティズム哲学者である。
ワルター・ルーサー(1907‐1970)
中立派。自動車産業担当執行委員。全米自動車労組(UAW)の活動で、共産党とは距離をとっていたが、内戦直前の労働争議で活躍した。
ジョン・バラム(1882‐1954)
中立派。繊維産業担当執行委員。
その他著名な労働総取引所議員
アサ・ランドルフ(1889‐1979)
黒人。黒人公民権運動家、労働組合活動家。内戦で辛くも脱出し、ジャマイカに移住した。
ジェイ・フォックス(1870-1946)
アメリカ労働運動の古参、『アジテーター』編集長。
ダニエル・ホーン(1881‐1946)
ミルウォーキー市執行委員長。内戦直前にいち早く武装しマッカーサー討伐軍を撃退した。
サミュエル・ハンマースマーク(1872-1943)
フォスターの補佐官。粛清で処刑。
ベシー・アブラモヴィッチ=ヒルマン(1899‐1944)
ニューヨーク・コミューン執行委員。女性組合活動家だったが、空襲で死亡。
エアン・スワベック(1890‐1986)
アメリカ共産党初期メンバーだが、スヴァーリニストとなりAWPに参加。
革命軍事委員会
1937年のCSA建国の際、総選挙までの臨時政府として設立されたのが革命軍事委員会である。内戦が進むにつれて委員会はいわば大本営的な色彩を強め、メンバーの半分は軍人を迎えるようになった。
革命軍事委員会委員長は事実上の国家元首とみなされた。1940年の総選挙と労働総取引所執行委員会設立後は、法的には同委員会委員長を国家元首としたが、内戦という状況において革命軍事委員会は膨大な権限を保持していたため、革命軍事委員会委員長は引き続き事実上の最高指導者として君臨することとなった。
メンバー
ジャック・リード(1887-1940)
革命軍事委員会委員長(1937-1940)、CSA初代元首。アメリカ社会党出身のジャーナリスト。諸派閥の仲裁者として立ち回り、サンディカリストによるCSA建国を導いた。1940年病死。
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アール・ブラウダー(1891-1946)
ノーマン・トーマス(1884-1946)
ウィリアム・フォスター(1881-1943)
ハーバート・ハイトケ(1892‐1974)
労働総取引所執行委員(軍事担当)。
スメドレー・バトラー(1881-1940)
初代CSA陸軍参謀総長。
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ロバート・メリマン(1908-1946)
カリフォルニア大学バークレー校学生だったが、ドゴール・クーデターに魅了され1933年に渡仏し学んだ経験がある。1936年に勃発したスペイン内戦では、パリ・インターの国際旅団に参謀として参加。その経験をもとにアメリカ内戦では参謀畑をスピード出世し、バトラー死後の陸軍参謀総長に就任した。
ジョセフ・カラン(1906‐1981)
元船員労組活動家、CIO副代表でもある。内戦ではCSA海軍の創設にかかわり、海軍軍令部長に就く。そこで護送船団や潜水艦を駆使した海上封鎖突破作戦を指揮した。
バート・アコスタ(1895‐1954)
スペイン内戦に従軍したパイロット。1938年に空軍が創設されると空軍参謀総長に就任した。通称「バッドボーイ」、派手な曲芸飛行を好んだ。
エヴァンス・カールソン(1896‐1947)
「バナナ戦争」では海兵隊指揮官としてニカラグアにて警察行動を行った。革命軍事委員会では赤衛隊総監に就任した。
外交
CSAの与党である人民戦線(PF)への大同がパリ・インターの指導でなされたように、CSA建国以前はフランスの影響を強く受けていたが、建国後はヨーロッパの全体主義諸国への反発とモンロー主義から徐々にフランスの影響から離れていった。WW2が勃発し大西洋の米仏連絡が途切れると、この傾向は決定的なものとなった。
フランス人民軍とパリ・インターは内戦勃発当初CSAに軍事支援を行っていたが、その規模はフランスの隣国である内戦中のスペインに対するものに比べれば小規模だった。また、新兵器のテストも多くはスペインで行われた。
CSAを国家承認したのはフランス、メキシコ、スペインと他WW2で成立したフランスの衛星国のみであり、同じ枢軸国のドナウ連邦や日本などは承認しなかった。
貿易において、CSA政府はフランスに対して民生技術や石油などと引き換えに最新兵器を輸入していたように、国際金融から排除されたため貿易はもっぱらバーター取引に終始した。枢軸国以外との貿易は、マッカーサーやAUS支配地域を経由したり、海上封鎖を突破して第三国に輸出した。内戦勃発当初はどの陣営も経済統制が甘く、敵である陣営でも賄賂を渡せば輸出品を通す例が珍しくなかった。
軍事
旧アメリカ軍の指揮官の多くはマッカーサーかAUSに流れたため、常に指揮官が不足していた。これを賄うため、州兵と地元警察を改組した赤衛隊の素人指揮官を登用せざる得なかったが、作戦経験を積んだ有能な指揮官がスペインから帰国すると、彼らは若くして瞬く間に出世し、軍の中枢を占めるようになった。
著名な将軍
陸軍
スメドレー・バトラー(1881-1940)
ハーバート・ハイトケ(1892‐1974)
ロバート・メリマン(1908-1946)
エヴァンス・カールソン(1896‐1947)
モーリス・ローズ(1899‐1946)
ユダヤ系の職業軍人。内戦勃発直後の1937年にアメリカ陸軍指揮幕僚大学卒業して少佐に昇進したが、マッカーサーに従わずCSA軍に志願した。連隊長、旅団長、師団長を歴任し、装甲師団を含む戦闘団を指揮するようになる。軍司令官として電撃戦を指揮した。イデオロギーからは距離を置いていたこともあり、その名は国内外に轟き、敵のAUS軍においても敬意を示す人は多かった。内戦末期、敵への投降を拒否し戦死。
ウィリアム・アルトー(1915-1946)
フィンランド系アメリカ人でスペイン内戦では国際旅団に従軍。アメリカではゲリラ作戦や敵地における住民扇動などを得意とし、内戦初期の快進撃を支えた。反ブラウダー派の反乱軍に就いて活躍したが、内戦末期に前線で戦死した。
ジョージ・キャノン(1915‐1946)
海兵隊出身で末期戦に置いて活躍した将軍の一人。東海岸からの撤退戦を指揮し、シカゴ守備隊最後の司令官となった。戦死。
海軍
ジョセフ・カラン(1906‐1981)
ハイマン・リッコヴァー(1898‐1986)
旧アメリカ海軍からCSA海軍に移った数少ない人物。潜水艦による通商破壊ドクトリンを編み出し、少ない兵力で懸命に戦った。戦後シカゴ裁判で起訴されたが、無罪となった。