バイチ=ジリンスキ・エンドレ

バイチ=ジリンスキ・エンドレ(Bajcsy-Zsilinszky Endre、1886-1934)はドナウ連邦の政治家。

 18世紀にさかのぼるルター派スロバキア人名家の生まれである。青年時代は協調性があり学業優秀でハンガリー、ドイツ、ラテン、ギリシャ語を操った。1904年にクルジュナポカのフランツ・ヨーゼフ大学法学部に入学し、その後はライプツィヒハイデルベルク大学に留学した。1908年12月に法学博士となる。
 翌1909年秋に軽騎兵として兵役に入り、1910年9月に予備将校となった。このころ、兄弟のガーボルがハンガリー農民党創設者アーヒム(Áchim L. András)を射殺する事件があったが、エンドレのキャリアに悪影響はなかった。*1
 第一次世界大戦ではセルビア戦線、イタリア戦線、東部戦線に軽騎兵として参加した。1916年9月に負傷し後送され、17年初頭に前線に復帰した。1918年のオーストリア革命では、王党派のフライコールであるハンガリー全国防衛連盟(MOVE)の創設に参加し、革命軍と戦った。
 ハンガリー王国が滅亡しドナウ連邦が建国されると、右翼としてゲンベシュ・ジュラとともにドナウ社会主義労農党ヒトラー派に入党した。その後バイチ=ジリンスキは様々な政治雑誌を組織した。1926年には『マジャール人』、1928年『前衛』の編集長となっている。
 しかし、ゲンベシュとは不和になり、1930年にはドナウ社会主義労農党を脱党して独立、国家急進党を創設し『反ファシズム自由新報』の編集長となった。
 ローゼッカによるドナウ党政権獲得後は出版が統制され、バイチ=ジリンスキは地下活動に追いやられた。そのころ、バイチ=ジリンスキはドナウ党への反発から徐々に自由主義へと転向し始めた。地下雑誌『自由世界』編集長を務めて政権を批判していたが、1934年6月30日に、ついに連邦保安省に検挙された。アジトに突入する保安員に対し、バイチ=ジリンスキは拳銃を乱射し抵抗するも、間もなく拘束、即銃殺された。
 バイチ=ジリンスキーは全体主義革命に抵抗した貴族保守層を代表する存在として知られており、1962年のウィーンの春以後、再び注目されるようになりつつある。

*1:アーヒムを代表する二重帝国時代におけるハンガリーの農民運動は、土地を独占する貴族に対する反抗でもあった。貴族の多くはアーヒム射殺を歓迎しており、貴族出身が多い軍部も特に批難しなかったことがこのエピソードに表れている。