Historia Donaufederaiha

民族、言語、国境。

サーラシ・フェレンツ

サーラシ・フェレンツ(Szálasi Ferenc、1897-1974)はドナウ連邦の政治家、ドナウ党官房長、セルビア初代総督。
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党活動家時代

 ハンガリー北部のカッサ出身。父はドイツ系で、母はアルメニア系だった。WW1の1915年に士官学校を卒業する。中尉として出征しイタリア戦線に送られた。1918年のオーストリア革命により本国ハンガリーに帰還し、ドイツの支援で成立したいわゆる「ハンガリー偽王国」軍に参加する。
 オーストリア革命末期におけるハンガリー偽王国の成立とその崩壊の時期は、各地で左右両派のフライコールが立ち上がり社会は政治的に活発だった。しかし、サーラシはどのグループに所属するか決めかねて、結局参加しなかった。このため、ドナウ連邦軍建軍の際に退役させられた。
 退役したサーラシはブダペスト王立大学に入学、そして卒業し運送会社の事務に就職した。
 このころ何度かドナウ社会主義労農党による演説会に足を運び、アレクシス・ローゼッカがブダペストで演説をした1927年に入党した。入党理由について晩年に「議会政治への失望」であったと答えている。
 初期の党幹部ルカーチ・ジェルジの秘書として一時期従事した後、1928年に党組織指導者に抜擢された。当時ドナウ党はオーストリア革命で生まれた数々のフライコールや政治団体などの連合であり、属地的な縁故主義に基づき離合集散を繰り返していた。ローゼッカはサーラシに党組織改革の全権を委任し、これを命じたのだ。このローゼッカのみに責任を負う方式は、のちのドナウ党政権においても踏襲されることとなる。
 1928年にドナウ党は「左派連立政権」の一員として与党に参加し、党幹部ゲオルク・リートミュラーを首相(閣僚委員会委員長)に据えることで影響力を得ようとした。しかし、実際には与党連合内部の対立を調停するだけの少数グループに過ぎず、オーストリア社会民主党チェコスロバキア国民社会党などが常に政権の主導権を握っていた。ローゼッカはこの状況を打開するために、まずは党組織を強固にせねばならない、と考えたのである。
 サーラシの手により、ドナウ党は中央集権化しローゼッカを指導者として崇拝することで、求心力を高めた。地元の利益しか考えない属地的な党幹部は次々にパージされ、若くてやる気ある、そしてローゼッカを崇拝してやまない優秀な幹部が据えられていった。この党改革の成功で、サーラシはローゼッカの信頼を得ることに成功した。
 サーラシが党改革を成し遂げたのは、サーラシ自身が優秀だったからではない。実際には、サーラシが優秀な部下を党組織指導部の実務に選び、またローゼッカの権威をうまく利用したからである。とはいえ全くの無能ではなく、サーラシには人を惹きつける不思議な神秘性があった。サーラシの部下はサーラシを好み、崇拝していた。こうしたサーラシに対する崇拝は、ローゼッカのそれとはまた違ったものだったという。

ドナウ党官房長

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サーラシ(右)とグロス(左)。後ろの制服は国民衛兵隊員。

 1933年にドナウ党独裁政権が誕生すると、党と国家の「二重権力」を解消すべくローゼッカにより党組織の多くはそのまま政府機関として改組された。これに伴い党組織指導部は解散した。
 これに伴い、サーラシは新設されたポストである「ドナウ党官房長」に就任した。党組織の多くが国家に移ったという点で言えば、このポストの権限は限られたものだった。しかし、実際にはドナウ連邦における各職業身分団体と党従属組織*1を形式的な党の管理下に留め置くことに成功し、一定の影響力を保った。
 つまり、経済または政治的理由でこれら団体が政府機関の命令に従うことはあっても、これら団体の予算・人事の最終承認は党官房が握っている、ということである。これはサーラシにとって大きな強みであった。
 こうしてサーラシはいわば政権の黒幕的存在の一人になったが、事務的な意味での黒幕はもう一人いた。大統領府官房長のグロス・エンドレである。グロスは最も忠実なローゼッカの部下の一人で、ローゼッカ大統領肝いりの政策を進める大統領府を指導していた。党のイデオローグであるホライ・ルーリンツの理論を実現する政策を実行しているのはグロスであり、ローゼッカ不在時の承認サインを書くのもグロスだった。サーラシとグロス、この二人のハンガリー人はライバル関係にあった。
 サーラシがドナウ連邦における政策路線に大きくかかわったことはあまりない。もっぱら政策理論は大統領府や連邦保安省、外務省、国民衛兵隊などが独占した。党官房が独占したのはあらゆる実務だった。
 1933年のドナウ党政権誕生後、従来の分権的な地方自治制度は破棄され、ローゼッカ大統領に直接任命され、ローゼッカにのみ責任を負う州指導者による支配に移行した。州未満の郡市町村は温存されたが、郡市町村においては過渡的措置として党の郡市町村支部が指導することとなった。ドナウ党に反対する属地勢力、すなわち貴族や地主が影響力を保持することを恐れたためである。
 党の郡市町村支部は党組織であるため、この人事権は党官房が握っていた。サーラシは郡市町村支部の人事において州指導者と交渉することで、地方行政における薄く広い権力を得ることに成功したのだ。
 さらに、党官房は政権獲得以前から集めていた献金・寄付金を管理していた。ドナウ党政権時代にしばしば国民的隣人愛に基づく寄付キャンペーンが行われたが、この寄付金をサーラシは自由に処分できた。すなわち、大量の寄付金をどの組織、どの政府機関に配分するか交渉できたのである。そもそも、ドナウにおけるこれら寄付キャンペーンは、すでに限界を超えて支出した政府予算を回収し、インフレを防ぐためであった。政府機関にとって、寄付金を回収しなければ来年度の予算は存在しないも同然だったのである。
 こうして構築されたサーラシの巨大な影響力に対し、ホライ・ルーリンツは「革命を乗っ取った党マフィア」であると側近に語った。国民も寄付金の行方が不明瞭であることは気づいていて、党・政府公用車の「シュタイアー 220」が通ると「善隣援助カー*2」などと影口を叩いていた。
 いっぽう、ローゼッカ自身はその最期までサーラシを信頼していた。ローゼッカもまたサーラシの崇拝者だったのである。
 こうした信頼を糧に、ドナウがユーゴスラヴィアに侵攻しWW2が勃発した1939年には、同地に設立された「セルビア総督府」の総督に任命された。サーラシはセルビアを安価な奴隷的労働力の供給基地にしたい経済計画局、セルビアにおける事業で一儲けしたい国民衛兵隊を引き入れ、統治を行った。セルビア人の資産は没収され、着の身着のまま強制収容所や炭鉱などでセルビア人は働かされた。これらセルビアにおける大型公団はほとんどサーラシ一派や国民衛兵隊員などの所有であり、利益を得た。食糧はドナウ本国のために挑発され、慢性的な飢餓が起きた。
 セルビア人らが山間部でゲリラを結成して抵抗運動を激化させると、銃後の治安維持を担う連邦保安省に付け入るスキが生まれてしまった。連邦保安省はセルビアにおける警察・治安部隊指揮権の一切を掌握しており、こればかりはサーラシも手を出せなかった。1945年に「バルカンにおける連邦保安・警察高級指導者(GPK Balkan)」のフランツ・クッチェラがセルビア人ゲリラに暗殺されると、連邦保安省は不穏分子粛清という口実を得てセルビア統治に介入するようになった。
 連邦保安省は「パシャ作戦」で経済被害を顧みない過酷な報復を行い、ローゼッカの支持を得てセルビア総督府幹部に保安員を据えたり、連邦保安省内部に新たなポストを新設したりしてサーラシの支配を切り崩していった。クッチェラの後を継いでバルカンGPKに就任したヴィルヘルム・ハルシュターは、かつてサーラシが行ったのと同様に、部下や協力者などに利権を与えて権力を固めた。
 1946年に戦争が終わり新秩序構想を具体化しなければならなくなったころには、セルビア総督というサーラシの肩書はほとんど意味がなさなくなっていった。サーラシの敗北だった。

ポスト・ローゼッカの権力闘争と失脚

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サーラシの肖像画

 もともとストレスで健康を害していたアレクシス・ローゼッカ大統領は、1948年10月に死去した。これにてサーラシは最大かつ唯一のパトロンを失ってしまった。
 そもそも、ローゼッカの死去以前から「ポスト・ローゼッカ」をめぐる権力闘争は始まっていた。1946年の戦勝パレードにて、久々に姿を見せたローゼッカの姿はひどくしなびていた。頬はこけ、白髪を隠せず、そしてあの力強い演説もなかった。閣僚も国民もそれに気づいたのである。
 連邦軍も連邦保安省もローゼッカの後任をうかがったが、ローゼッカはこれら武力組織の危険性を見抜き、文官であり党古参でもある、大統領府官房長グロス・エンドレを後継者に指名する旨の遺言を遺した。グロス派はゲッベルスらの協力を得つつこの遺言を公開し、大統領に就任した。
 サーラシは自身が大統領に就任しようと積極的に画策したわけではなかったが、グロスは折からの対立もあり、連邦議会でサーラシ批判の演説を行い、失脚させた。グロスはカオスに肥大した党・政府・軍を再びまとめ上げ、政府と連邦議会による支配を取り戻すことを計画した。このことからすれば、党官房長サーラシの失脚は当然だった。しかし、その一方で戦争により連邦軍、連邦保安省、国民衛兵隊といった武力組織が伸長していることを鑑みれば、文官サーラシの失脚させたのは明らかに誤りだった。事実、その数年後に連邦保安省出身の政治家、「保安閥」の攻勢によりグロスは失脚するのである。
 後年グロス派がパージされた際、ウクライナも顔負けの凄惨な拷問・銃殺が行われたが、グロスはそこまで残酷ではなかった。1950年に駐スウェーデン大使に任命され、その後駐アルゼンチン、駐パラグアイ、駐チリ大使などを歴任した。1960年に帰国命令に伴い帰国した際、本国の政治的不穏を察して公職を引退、クレタ島にある別荘に移住して余生を過ごした。
 1974年に死去。死後20年の1994年に遺族の手で回顧録が出版された。

家族

 妻にサーラシ・フェレンツネーがいる。フェレンツネーは結婚から数年たった後、すなわち1930年代に改名した名前である。旧姓・旧名はルッツ・ギゼッラ・フランチシュカ。もともとはピアノ教師だった。子供はいなかった。

役職・階級・栄典

・ドナウ社会主義労農党組織指導者(1928-1933)
・ドナウ社会主義労農党官房長(1933-1949)
セルビア総督(1939-1949)
・連邦寄付金指導者(1933-1949)
・国民衛兵隊名誉大将
・他各国大使

*1:例:ドナウ公務員同盟、ドナウ医師同盟、ドナウ農民同盟、ローゼッカ青年団など。こうしたものは大規模なものだけでも当時20個以上あった。

*2:当時の寄付キャンペーン名の一つから。