セルヒー・シェーメト

セルヒー・ムィハイロウィチ・シェーメト(Сергій Миха́йлович Ше́мет;1875-1957)はウクライナの政治家、ウクライナ民主農民党の指導者の一人。ヘチマンを陰で操る黒幕と見なされていた。
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 貴族出身。サンクトペテルブルク実業技術学校を卒業し、ウクライナ人の青年政治団体に参加する。1917年の二月革命後、ウクライナ民主農民党を創設した。

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ウクライナ民主農民党の主要メンバー。上段右から2番目がシェーメト。

 ヘチマン政権成立直後は、議会開設を訴える民主派議員に名を連ねウクライナ国民同盟に参加したが、ヘチマンが1918年11月に議会開設を決定するとヘチマンの忠実な政治家となり、重用された。このためウクライナ民主農民党はヘチマン政権を支える第一与党となり、有利な選挙区割りをもって農村部から安定した票を獲得していた。1922年に御用政党連合「全ウクライナ国家同盟」が発足し、ウクライナ民主農民党はこの中核となった。シェーメトは弟のウォロディムィル・シェーメトを同盟の指導者に据え、傀儡化した。
 セルヒー・シェーメトはウクライナ国家元首たるヘチマンの筆頭秘書であり、ヘチマンのイデオローグと見なされた。ヘチマンが内閣を指名する際、必ずシェーメトが助言をしたという。一方でマスコミ露出を避け、決して表に出ないことから「灰色の枢機卿*1と呼ばれた。ただし、シェーメトの保守的な農本主義思想は自身だけのものでなく、ヴャチェスラウ・ルィプィーンシキー(1882-1931)に影響を受けたものであるといわれる。
 1937年のヘチマン退任直前、ヘチマンの怒りを買い失脚した。人民戦線政権成立とともにベルリン行きの特別列車でヘチマンとともに亡命する。
 WW2ではドイツからイギリスを経由して南アフリカに亡命した。そこで孤独な余生を過ごし亡くなったという。南アフリカ時代のことはあまり明らかになっていない。
 

*1:ロシア語において「灰色の枢機卿」は黒幕を意味する。のちのソ連ではパウロ・ポポウとムィハイロ・スースロウも同様に呼ばれた。