パウロ・スコロパードシクィー

パウロ・スコロパードシクィー(スコロパーヅィクィーとも、Павло Петрович Скоропадський;1873‐1945)はウクライナの政治家、軍人。
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 ドイツ帝国出身のウクライナ人貴族。ロシア帝国で育ちペテルブルク皇帝小姓学習院を卒業、当時の慣習に倣い卒業と同時に少尉になった。日露戦争に志願して活躍、1905年には皇帝ニコライ二世の副官となった。
 その後も順調に出世し、1912年に親衛騎兵連隊の司令官に就任し、少将へ昇進。WW1では師団長となり、二月革命直前には第34軍団の司令官となった。二月革命勃発後は指揮下の部隊をウクライナ化し、第1ウクライナ軍団と命名した。さらに十月革命で勃発したロシア内戦では、ウクライナに鎮座しボリシェヴィキの侵入を防いだ。これによりウクライナにおけるスコロパードシクィーの名声は高まった。
 ウクライナ人民共和国では旧ロシア帝国軍をもとにウクライナ軍へと再編するよう進言、基礎から軍を作り直そうとした社会主義者と対立した。このこともあり、1918年4月のドイツ軍による人民共和国崩壊後には、スコロパードシクィーが傀儡政権「ウクライナ国」の首班となり、「全ウクライナのヘチマン」という称号を与えられた。
 ヘチマン政権当初はボリシェヴィキやペトリューラ軍、ネストル・マフノのアナキスト軍などの圧迫もあり政情不安定で、ヘチマンの私兵とも言われた国家警備隊は毎日夥しい数の死傷者を出した。結局、ドイツ軍の支援と1918年11月における民主派との妥協により何とか持ちこたえ、1920年におけるボリシェヴィキ・ロシアの崩壊もありウクライナ国は滅亡の危機から救われた。

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 1937年の人民戦線政権成立時には、ヘチマンは政治意欲を失い自ら退任し、鉄道でドイツへ亡命した。ドイツでは同じくウクライナから逃れた保守派や貴族などと親交を保っていた。
 WW2におけるフランス軍の侵攻(ヴァルミー作戦)ではドイツ政府要人や皇帝ヴィルヘルム二世などとともにノルウェー、さらにイギリスに逃れた。ドイツ軍に所属していた長男ペトロはこのころフランドルで戦死している。1944年、アメリカにおけるウクライナ人共同体による「ウクライナ亡命政府」の元首に推薦され、出発の身支度を済ませたが、1945年4月にフランス軍による空襲に巻き込まれて死亡した。
 これを受け、一足早くアメリカに渡航した次男ダヌィーロ・スコロパードシクィーがウクライナ亡命政府の元首に就任した。