クルト・シュシュニク

クルト・シュシュニク(Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg、1897-1977年)はドナウ連邦の政治家、保安指導者。

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1936年ごろのシュシュニク。貴族出身のためかファッションに気を使い、この党員服も独自設計だった。胸に汎用しているのはドナウ党十字章。
 
 1897年当時オーストリア帝国領だったチロル出身。スロベニア系貴族の家系であり、ドナウ党政権下で貴族称号「von」が廃止される前は「クルト・フォン・シュシュニク」と名乗っていた。
 インスブルック大学で法学を修め、弁護士事務所を開設。また、1919年よりキリスト教社会党党員であり、1927年にはドナウ連邦オーストリア共和国議会議員に当選している。
 離合集散と内部闘争を繰り返す、キリスト教社会党のフライコール「郷土防衛隊」に対し訝しみ、1930年に自ら精鋭を集めてフライコール「突騎団(Donau Sturmscharen)」を結成した。この突騎団はドルフスといったキリスト教社会党非主流派のドナウ党シンパによる権力掌握に用いられた。
 1931年の7月14日事件で突騎団はドナウ党の国民衛兵隊とともに暴徒鎮圧に活躍し、シュシュニクは一躍名を挙げた。ドナウ党の支援を背景に、1931年にはドナウ連邦オーストリア共和国司法大臣、1933年には教育大臣に就任した。議会では反議会制強硬派としてオーストリア共和国議会ではまだ数が少なかったドナウ党議員らとともに共同戦線を張った。
 ドナウ党による政権掌握と憲法改正と同時に、連邦保安省に専従するようになった。しかし、1935年に妻ヘルマを交通事故で亡くした。
 1939年から1941年にかけて「上下オーストリア・アルプスにおける連邦保安・警察司令官」、1942年から1957年にかけては「南ドイツ・スイスにおける連邦保安・警察上級司令官」、1946年より下バイエルン州指導者を歴任した。
 WW2の南ドイツ占領中、シュシュニクは貴族出身という経歴を生かし現地の有力貴族を宣撫しつつ、反ドナウの地下活動に対しては容赦なく弾圧した。1957年に定年を理由に各指導職を辞任。その後はミュンヘン大学政治学を教えていた。1977年に死去。最終階級は保安大将。