ヨハン・ショーバー

ヨハン・ショーバー(Johann Schober、ヨハンネスとも、1874-1932)はドナウ連邦の政治家、官僚。

 上オーストリアのペルク出身。父は官僚のフランツ・ショーバーで、大家族の十男だった。
 父と同じく官僚として出世し、オーストリア革命ではキリスト教社会党党員としてベルリン警察長官に就任した。ショーバーは臨時政府に反抗する王党派や過激派などを抑えつけ、オーストリア革命における臨時政府の勝利とドナウ連邦の成立に貢献した。
 ドナウ連邦成立後は、官僚という来歴を買われ、各政党の調整役として1920年から22年に書けて制憲内閣、左右連立内閣の首相に就任した。1922年の連邦議会選挙で左派(社会民主党共産党など)が退潮すると右派による連立政権が成立し、ショーバーはもとのウィーン警察長官に戻った。1925年初頭にドイツ人閣僚とチェコ人閣僚の対立から内閣が瓦解すると、再び首相になり、3か月間ながら務めた。内閣の瓦解とショーバーによる「中継ぎ内閣」は、議会制の空転の象徴だった。
 1928年にドナウ社会主義労農党を含む左派連立内閣が成立すると、連邦政府の警察部門はドナウ党員に入れ替えられていった。ウィーン特別市のウィーン警察は、キリスト教社会党党員であるショーバーの手によりドナウ党の影響力を排除していたが、徐々に連邦警察と対立していった。1931年の7月事件ではドナウ党の国民衛兵隊と手を組み、社会民主党系のフライコールを鎮圧した。
 1932年春に改憲発議国民投票がなされ、アレクシス・ローゼッカ率いるドナウ党の勢力が増すなか、8月19日に持病の心臓病で死去した。イグナーツ・ザイペルの死からわずか3週間の出来事だった。ショーバーとザイペルの死はドナウ議会制の終焉を象徴した。事実、その翌年に憲法が改正されドナウ党による独裁が完全に成立することとなる。