Historia Donaufederaiha

民族、言語、国境。

ドナウ連邦による「浄化作戦」

 ドナウ連邦の秘密警察「連邦保安省」はその輝かしい歴史の一方で、様々な血生臭い事件に加担している。1930年代末期に起こったドナウ連邦におけるルーマニア人への迫害は、1940年代にドイツで起こったユダヤ人虐殺と比べればあまり知られていない。しかし、一部の研究者はルーマニア人迫害にこそ数々の民族浄化に関するヒントがあるのではないかと考えている。

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浄化作戦の一環で処刑されるルーマニア人。保安員らは急募のためかWW1時代のヘルメットを装備している。(1941年)

ローゼッカ政権におけるルーマニア

 アレクシス・ローゼッカがドナウ連邦の政権を掌握し独裁的権力を持つと、党是たるドナウ社会主義はドナウ連邦のあらゆるレベルの機関で実践されることとなった。党イデオローグであるホライ・ルーリンツによる「ドナウ文明」は、複雑な多民族国家であるドナウ連邦を定義し、ルーマニア人を含む周辺民族との付き合い方を説明した。
 ドナウ文明理論は汎ドイツ同盟理論家のルドルフ・ユング*1によるフェルキシズム的理論の影響を受けている。すなわち、中欧の人民(volk)は古代から続くドナウ文明を構成しており、このドナウ文明はトルコ人といった外敵に圧迫されつつも文明の系統を保持し、その国家こそドナウ連邦であるということである。
 フェルキシズムが人種ごとの優劣を否定しなかったように、ホライの理論は文明間の優劣を規定し、それがルーマニア人やセルビア人などへの迫害に繋がった――これが現代フランスやソ連などで定説とされているが、これはやや乱暴な見解である。
 ホライの著書『ドナウ文明』では汎ドイツ同盟の見解とは異なり、文明間の競争やそれに伴う闘争(kampf)についてあまり言及されていなかった。むしろ、ホライ自身は中南欧、地中海を統合しドイツに対抗することが強調されていた。つまり、文明間の優劣や闘争は後付けの概念だった、ということである。そのために、『ドナウ文明』で説明された文明の「周縁と中心」という概念が利用された。本来民族同化を説明するためのものだったが、これが文明の優劣を説明するようになった。
 では、なぜドナウ社会主義が文明の優劣について関心を寄せるようになったか、といえば汎ドイツ同盟とフェルキシズムの影響に他ならない。
 ドナウ社会主義とフェルキシズムの影響に関しては後述するとして、ルーマニア人に対する実際の政策について述べる。
 トランシルヴァニア全域の併合以前、ドナウ連邦のルーマニア人は東部の国境部に住んでいた。オーストリア革命におけるトランシルヴァニア割譲によりルーマニア人の数は減少したが、それでも無視できるほどではなかった。
 サトマールネーメティ、ナジヴァーラド、テメシュヴァールといった都市とその以東の山岳地帯に住んでいたルーマニア人は、ドナウ党政権掌握後も変わらず生活を続けていた。即座の国籍剥奪処置は一切なかった。
 しかし、ドナウ党におけるルーマニア人党員は、ドナウ連邦の人口統計を鑑みると不自然なほど少なかった。これは、入党が国民衛兵隊や地元党組織をもって行われたなか、ハンガリー人と混住するサトマールネーメティ、ナジヴァーラド、テメシュヴァールといった都市の党組織はルーマニア人の入党を独断で拒否したためである。これに加え、ルーマニア人農村部における党活動は活発ではなかった。このため、ルーマニア人党員は不自然に少なかった。一方ブダペストやウィーンなどのメトロポリタンな地域において、ルーマニア人は難なく入党できた。とはいえ、ルーマニア人の党幹部が存在しなかったことは、のちの虐殺を踏みとどまられなかった原因の一つとなった。
 もともと、ハンガリー人とルーマニア人の混住地帯においてハンガリー人によるルーマニア人への差別感情は無視できるものではなかった。実際、トランシルヴァニア出身の共産党指導者クン・ベーラは、オーストリア革命において民族平等と民主主義を約束したのにもかかわらず、ルーマニア人に対してのみ果たさなかったのである。
 このように、ドナウ連邦の行政機関はルーマニア人に対しても公平に扱ったが、ドナウ党の下級レベルは公平に扱わなかった。この時点からすでに虐殺の予兆はあったとみることもできる。
 1934年になり情勢が落ち着くと、ルーマニアカトリック団体を中心に党組織に組み込まれていったが、サトマールネーメティやナジヴァーラド、テメシュヴァールなどの党支部は不満を隠さなかった。ただし、ルーマニア正教会は強制的に解散され、党組織に組み込まれなかったルーマニア正教徒たちは党からして疎外されていたといえる。
 ドナウ党政権下では民族主義運動が統制され、ルーマニア民族主義団体は打撃を受けた。民族主義が抑えつけられたのはルーマニア人以外でも同様だが、ルーマニア人団体においては隣国ルーマニア王国に対する政治的対立もあって連邦保安省から睨まれるようになっていた。1935年のある報告によると、同年1月時点ですでに1200人の「ルーマニア民族主義者」が投獄されていた。
 このように、ルーマニア人正教徒は党下級組織と連邦保安省から冷遇されており、唯一ルーマニア人官吏で構成される郡や村の役場のみが不当な態度を取らなかった。
 しかし、こうした下級レベルの役場は地方における党権力の浸透政策により権限を剥奪され、党下級組織が代行するようになった。ルーマニア人地域の党下級組織はハンガリー人が行っていたため、党とルーマニア人の対立が表面化するようになった。党中央部と連邦軍は冷淡にもこの問題に対して介入せず、現場に委任していた。

連邦政府の介入

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 こうした「ルーマニア問題」はドナウとルーマニア間の通商交渉においてルーマニア政府に指摘され、1936年にこの問題を専門に扱う部局を大統領府に設けることとなった。これが「ルーマニア委員会」である。建前上ルーマニア人の権利を擁護するためのこの委員会には、実際には一人もルーマニア人代表者がいなかった。委員長はスロベニア人の保安指導者オディロ・グロボクニクである。
 グロボクニクは連邦保安省の国民創生局長を務めているように、ドナウ国内における民族政策の指導的存在だった。これにより、ルーマニア人問題の主導権は連邦保安省に移っていった。
 アレクシス・ローゼッカ大統領はトランシルヴァニアルーマニア人に対して、同化が最終的な解決策である旨を述べたが、それをどのように・いつ実行するかが問題となっていた。ルーマニア委員会は同地に住むルーマニア人について以下のようにカテゴライズした。

 A:ハンガリー人またはドイツ人と結婚しているルーマニア人またはその子供
 B:カトリックルーマニア
 C:正教徒ルーマニア人またはその他

 Cの「その他」は犯罪者であったりユダヤ人であったりと柔軟で恣意的な運用がなされた。 
 ルーマニア委員会を支配する連邦保安省により、このカテゴリーは運用され差別的な取り扱いが横行するようになった。例えば、トランシルヴァニアにおいてはAとBの犯罪は軽くなり、Cは些細な犯罪でも「ルーマニアのスパイ」として刑罰を受ける傾向にあった。
 こうしたドナウのトランシルヴァニア統治に対し、ハンガリー人やドイツ人などが住むルーマニアトランシルヴァニアでも不公正な統治が横行するようになった。ルーマニアのカロル二世は社会問題をごまかすため、ルーマニア民族主義を称揚しトランシルヴァニアの非ルーマニア人を虐待していた。こうして、ドナウとルーマニア間でお互い少数民族に対する虐待の応酬が行われた。
 また、ユダヤ人の扱いは劣悪だった。ルーマニアにおいてユダヤ人は金融業を担っていたことから、困窮する農民がユダヤ人を虐殺することがしばしばあった。ドナウ連邦においては反ユダヤ主義が公式に禁じられていたのにもかかわらず、ユダヤ人に対する不当な扱いはあったようである。
 このように、地域紛争が国際紛争に昇華するとドナウ国内では「ルーマニア脅威論」が広がっていった。すなわち、ルーマニアがドイツと組んでドナウを挟撃するというもので、実際にオーストリア革命において二国が協力関係にあったことを鑑みれば荒唐無稽な話ではなかった。これを反映するように、秘密警察たる連邦保安省はルーマニア人を次々と「ルーマニアのスパイ」容疑で逮捕していった。逮捕されたルーマニア人は強制収容所に移送されていった。
 ルーマニア脅威論はあらゆる組織に影響を与え、例えば宣伝省は反ルーマニア映画を製作し、外務省はルーマニアに対し高慢な態度をとるようになった。ローゼッカ大統領は将来におけるルーマニアとの開戦を前提に計画経済を構築するように命令した。
 1937年の北トランシルヴァニア割譲はこうした外交方針を象徴するような出来事だった。ドナウ連邦側は開戦も覚悟で敢えて受け入れ不可能な要求を押し付けたが、ドイツ帝国ルーマニアへの支援を実行する勇気がなかったため、結局この要求は受け入れられた。ルーマニア領北トランシルヴァニアの住民はハンガリー人やカトリックルーマニア人などがほとんどだった。このため事態はこれ以上悪化しないだろうという見方が大勢を占めていた。
 しかし、1939年春に併合した北トランシルヴァニアルーマニア人によるテロルが流行した。このテロルは大規模なものでドナウ国民合計318人が死亡している。とりわけナジバーニャの市役所爆破テロは77人が死亡し、「ナジバーニャ血の月曜日事件」と宣伝された。また、このころヴォイヴォディナではセルビア人によるテロルも起こっていた。こうした一連のテロルは確かに現地民族によるものであるが、世論を誘導するために連邦保安省が能動・受動的に支援したという可能性も否定できない。
 ともあれ、一連のテロルでドナウの世論は高揚した。ローゼッカ大統領はまずルーマニアでなくユーゴスラビアの屈服を試み、北トランシルヴァニア割譲のような無理難題を押し付けたが、今回は拒否され戦争となった。
 第二次世界大戦の最初の戦役となった「ゼラニウム作戦」はドナウ軍の圧倒的勝利に終わった。これにより、中欧におけるドナウ連邦の影響力は決定的なものとなり、翌1940年にルーマニアは南トランシルヴァニア割譲を余儀なくされた。

組織的な同化「浄化作戦」

 国家が完全に屈服したユーゴスラビアでは全土で連邦保安省による民族浄化が行われたが、ルーマニアにおいては割譲された南北トランシルヴァニアに限定して行われた。一連の民族浄化は連邦保安省により「浄化作戦」と呼ばれ、民族浄化作戦のモデルケースとなった。
 浄化作戦はオディロ・グロボクニクの指揮により「連邦保安省〈浄化作戦〉本部」の指令で実行された。浄化作戦の最終目標は反ドナウ的ルーマニア人の絶滅と、ルーマニア人の絶対数の減少、すなわち虐殺と人工的な同化だった。
 先述のカテゴリーB「カトリックルーマニア人」はすぐに「ルーマニア語話者」としてドナウ国籍を得たが、優先的に徴兵や徴用などの対象にされ反政府活動を警戒された。ともあれ、虐殺や人工的な同化はなされなかった。
 カテゴリーC「正教徒ルーマニア人またはその他」が浄化作戦の対象だった。
 正教会関係者、民族運動家約4000人の逮捕を皮切りに、政治家や芸術家、知識人などのほとんどは強制収容所に送られた。正教徒ルーマニア人は南トランシルヴァニアの各都市に集結させられ、そこでの居住を強制された。この際、作戦を実行した保安員に手持ちの財産を奪われることは自然な光景だった。
 終結した居住区は隔離された。最終的には彼らを同化させるため、幼い子供は引き離され孤児院
に送られた。そこでルーマニア人以外の母語話者として育てられ、「同化」されていった。
 結局、この浄化作戦でトランシルヴァニア全域で約50万人が姿を消し、約80万人がルーマニア王国へ追放された。併合領土にいたルーマニア人のうち、「孤児」を除いて生き残ったのは約40万人だった。
 既に少なからぬ歴史学者らが指摘しているように、この浄化作戦でのノウハウは旧ユーゴスラビアでも転用された。実際に、セルビア人虐殺を行ったクロアチア人ドナウ党員は子供の引き離しと「同化」を首尾よくこなしていった。
 浄化作戦はドナウ連邦とルーマニア王国に大きな影響を与えた。ドナウ連邦では浄化作戦によりトランシルヴァニアが人口希薄地帯となったため、戦後ドナウ国民向けの入植事業が行われた。このため少なからぬドナウ国民の入植者がトランシルヴァニアに移住し、アフリカへの移住者が不足するようになった。これが非ドナウ国民であるヘルマン・フォン・ゲーリングによる熱帯アフリカ植民に繋がったことも否定できない。
 ルーマニア王国では二度の領土割譲でカロル二世の権威は地に落ち、南トランシルヴァニアが割譲された直後の1940年9月4日にカロル二世は退位を余儀なくされた。しかし、その跡を継いだ全体主義政党の鉄衛団政権はルーマニアをまとめ上げることができず、ローゼッカに見捨てられ1941年1月に政権は倒れ、軍部による独裁が打ち建てられた。しかし、その軍部さえもルーマニア国民の信用を取り戻すことができず、ルーマニアの国内情勢は年々不安定化していった。
 このルーマニアの不安定化に追い打ちをかけたのが浄化作戦による追放者で、ルーマニア政府には彼らを養う余裕などなかった。結局、追放者だけでなく広範なルーマニア国民が飢え、反政府勢力に加担したり、国軍でなくフランス人民軍の外人部隊「ミハイ勇敢公旅団」*2に人材が流出したり、戦後多くのルーマニア人がドナウやフランスなどに亡命や移住などをするという結果に至った。浄化作戦は死に体のルーマニア政府に最後の一突きを与えた、ということである。

ドナウ社会主義とフェルキシズム

 ドナウ社会主義労農党はその形成過程でいわゆるヒトラー派が分派し、結局ドナウ国内から追放されたことは明らかな事実だが、その一方、比較的ヒトラー派に理論的に近い、汎ドイツ同盟をはじめとするフェルキッシュ運動とも相互影響を受けていた。
 トランシルヴァニアやヴォイヴォディナにおける民族浄化を考えるうえで、このフェルキシズムとの関係は不可欠である。
 フェルキシズムは科学的な人種分類とその優劣を定めていた。ゲルマン民族が劣等なスラブ民族を支配し、ユダヤ人種との不断の闘争を繰り広げるというこの世界観は、ドナウ連邦とドナウ社会主義に少なからぬ影響を与えていた。
 ドナウ社会主義においては、人種は「文明」に置き換えられた。ドナウ連邦はドナウ文明という単一文明の国家である、とされる。そしてこの文明という概念は、フェルキシズムの人種概念とともにドナウのまだ若い国家主義と結びついたのである。誕生間もないドナウ国民を創生するうえで、まず積極的な同化と、それを人為的に強制することが奨励された。そして、ゲルマン民族スラブ民族を支配するように、ドナウ文明は中欧バルカン半島の支配という理論を確立するようになった。
 この過程で、ドナウ連邦と対立する国家と民族は、国家としてのドナウ連邦と文明としてのドナウ連邦の敵と認識された。国家としては外交・軍事的恫喝で対応し、文明としては人為的な同化で対応することとなった。この文明としての対応こそ、トランシルヴァニアにおける浄化作戦であり、計画的な強制同化政策であったといえる。

参考文献

J. クラヨゼク『トランシルヴァニアにおける民族浄化――A.O.アイヒマン裁判の記録から』(プラハ文化出版、1974年)
アルフェルディ G.『連邦保安省国内作戦史』(ブダペスト特別市政府出版局、1969年)

*1:元ドナウ社会主義労農党ヒトラー派である。

*2:フランス人民軍のルーマニア系将軍イオン・ディク=ディセスクにより設立された外人部隊ルーマニア軍より待遇が良かったため、多くのルーマニア人が「ミハイ勇敢公旅団」に入営した。詳しくは「イオン・ディク=ディセスク」の記事を参照。 donau.hatenablog.com