フランツ・レール

フランツ・レール(Franz Rehrl、1890-1957)はドナウ連邦の政治家である。

 大工の息子に生まれる。地元の名士であるアロイス・ウィンクラー(Alois Winkler)の秘書を一時期務めたことがきっかけで、政治活動を始めた。
 オーストリア革命では臨時政府ザルツブルク州議会をまとめ、何度か知事代行や州議会議長に選出された。わずか31歳だった1922年にザルツブルク州知事に正式に就任した。
 レール知事の下ドナウ連邦オーストリア共和国ザルツブルク州は大きな発展を見せた。レールはとりわけ文化政策に力を入れ、中でもザルツブルク音楽祭は知事辞任後も存続し国際的な人気を誇っている。
 また、1931年の7月騒乱においては、連邦議会社会民主党議員が追放されたあとも、ザルツブルク州議会では議席の保持を許すといったことも行った。
 このようなドナウ党への反抗にも拘らず、権力掌握後も1938年まで非ドナウ党員でありながら例外的に州知事に居続けた。これは、レールの善政を住民が圧倒的に支持していたためである。公正を重んじるレールだったが、ドナウ党の権力掌握時には賛辞を惜しまなかった。すなわち現実主義的でもあった。
 1938年に知事を自ら「辞任」、その後は引退生活に入った。ただし身の安全の保障と引き換えにザルツブルクからウィーンへの転居を余儀なくされた。
 1957年に病死。