マルソー・ピヴェール

マルソー・ピヴェール(Marceau Pivert、1895-1958)はフランスの政治家、労農党(PSOP)党首。
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 農民出身でセーヌ師範学校を卒業、WW1では1914年に徴兵され1917年に復員した。革命の混乱が続く1919年には高等師範学校に入学し、哲学コースに通った。このとき政治家のピエール=エティエンヌ・フランダンとの知遇を得た。これを卒業すると教員として働き、労働組合である全国教師同盟(SNI)に参加した。また、このころ社会党(SFIO)に入党した。
 SFIOはちょうど過激派(ジャコバン)がフランス共産党(PCF)として分離した後だったが、革命熱の収まらない過激派を未だに抱えていた。ピエールもその一人で同志のジャン・ジロムスキーとともに「闘争社会主義者(Bataille socialiste)」というグループを立ち上げ、共産党と接近していた。
 この「闘争社会主義者」はSFIO最左派のジュール・ゲードを尊重し、党中央との対決を鮮明としていた。また、新社会主義運動にも反対していた。この「闘争社会主義者」運動はピヴェールに大きな影響を与えた。
 1928年に労働総取引所(議会)議員に当選し、その弁術から注目された。また、熱狂的な反帝国主義者であり反ドイツ主義者だった。
 ドゴールクーデターの際、他のSFIO議員はクーデターに賛成すべきか否かお互いの顔色をうかがうなか、ピヴェールは堂々と独裁に対し反対を表明した。1932年8月にピヴェールの自宅を憲兵が包囲した事件があったが、この際ピヴェールとその支持者は兵を一喝し帰宅させたという。
 こうしたピヴェールの剛胆さと人気にドゴールは警戒し、ひとまずピヴェールの弾圧や逮捕は免れた。ピヴェールもただ反対するのではなく、当局とぎりぎりの駆け引きをして核心的な問題には反対しなかった。例えば、対独開戦に関する諸法案には賛成票を投じている。
 ピヴェールはSFIOから脱退し労農党(PSOP)を立ち上げ、ドゴールの人民戦線に対する潜在的野党として機能した。例えば、戦争直後にアフリカ植民地における民族自決をいち早く提起したのは、PSOPとフランス共産党の一部だった。
 1957年にドゴールは暗殺され、ピヴェールのPSOPは再び注目されるようになった。しかし、その翌年の1958年にピヴェールは病死した。

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別の世界線におけるピヴェール。