第二次世界大戦における東部戦線

東部戦線とは、1941年から46年までロシア、ウクライナベラルーシ、バルト、カフカスなどで起きた一連の戦いである。枢軸国と同盟国が激突し、約2000万人以上が死亡したとされる。 

前史

 開戦以前、ロシア帝国の崩壊によって誕生したロシア共和国とウクライナは対立関係にあった。これは本来の民族的なものだけでなく、当時のイデオロギー対立に基づくものでもあった。
 ウクライナはWW1末期、ブレストリトフスク条約によってドイツの武力により独立させられた国家だった。このブレストリトフスク条約はまさにロシアにとって恥ずべき歴史であり、1937年までウクライナが「ドイツの傀儡」といわれるパウロー・スコロパードシクィーに支配されていたことは、ロシアの民族主義を刺激するほかなかった。
 1937年にミキータ・フルシチョウら率いるサンディカリストによる政変と政権掌握が起きると、サンディカリスト新政権は国内の不満をロシアに向けるべく、ロシアを「帝国主義国家」や「ウクライナの悲劇の原因」などと呼んで批難し続けた。いっぽう、ロシアも1925年のケレンスキー暗殺以降は過激な指導者デニーキン率いるロシア民族主義勢力が力を伸ばし、ウクライナと対立していった。ウクライナとロシアの間に位置するベラルーシは、こうした犬猿の仲である二国の緩衝国家として機能していた。
 しかし、1941年3月28日、ベラルーシの親ウクライナ派将校がドイツ人のワデマール国王を打倒し共和政を宣言すると、この微妙なバランスは一気に崩れた。4月6日、ベラルーシ東部国境に面したロシア軍は越境し、これに呼応してウクライナも南から首都ミンスクへ侵攻を開始、かくして東部戦線は始まったのだ。

交戦国・交戦戦力

枢軸国

ウクライナ・ラーダ国(元首:ウォロディムィル・ウィヌィチェンコ) 最大戦力:約350万人
ベラルーシ王国ウクライナ派→ベラルーシ・サヴィエト国(アレクサンドル・チェルヴャコフ) 約30万人
・ドナウ連邦(アレクシス・ローゼッカ) 約80万人
・フランスコミューン(シャルル・ド=ゴール) 約80万人
ポーランド軍(ヴワディスワフ・シコルスキ) 約130万人
フィンランド王国(ヴォルフガング・フォン・ヘッセン) 約53万人
ラトビア共和国(カールリス・ウルマニス) 約2万人
エストニア共和国(コンスタンツィン・パッツ) 約3万人
リトアニア反帝義勇師団他 約1万人
グルジアヨシフ・スターリン) 約40万人
アルメニア(ガレギン・ネジュデ) 不明
ペトログラードソビエト 不明

同盟国

・ロシア国(アントン・デニーキン) 約500万人
アゼルバイジャン(メフメト・エミーン・ラスールザーデ) 約40万人 
・ドイツ東方軍 約5万人

戦局の推移

1941年

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 ウクライナ軍はブレストを経由しミンスクを無抵抗で占領し、ロシアは東部の諸都市を占領した。森と沼地で構成されるベラルーシにおいて、都市と線路の占領は命とりだったが、それ以上の安易な攻勢は困難だった。宇露国境部とベラルーシでは小規模の戦闘が起きていたが、膠着状態に陥った。
 4月22日、ロシア軍はベラルーシではなく宇露国境で大規模な攻勢「スヴォーロフ作戦」を開始した。ロシア軍はハルキウ方面とマリウポリ方面の南北から侵入し、ウクライナ東部のドンバス工業地帯を包囲する作戦だった。ハルキウ方面からの進撃は成功しハルキウは包囲されたが、ドンバスとドニプロを繋ぐ鉄道線の手前で停止せざる得なかった。南部からの進撃はザポリージャまで進むことができたが、そこでウクライナ軍の機甲部隊による反撃を許し、ドンバス包囲は失敗した。
 包囲そのものには失敗したが、ドンバス工業地帯周辺はわずかな幹線道路と線路を除いてロシア軍に占領され、激しい食糧・原料不足に陥り生産は停滞した。こうした点では、スヴォーロフ作戦は一定の効果があったといえる。ウクライナ軍は自力でロシア軍を駆逐できず、反帝協定に基づきフランスをはじめとするの助けを借りるほかなかった。「赤い大公」ヴィリヘリム・ハプスブルクに次ぐウクライナのナンバー2であるフルシチョウはベルリンへ飛び、ドゴール、ローゼッカと会談し派兵の確約を取り付けた。こうして、枢軸国による反攻作戦が計画された。
 この会談では枢軸国による共同作戦の実施だけでなく、仏、ド、宇による勢力分割についても決められた。このときはまだ大雑把なものだったが、フランスはカフカスを、ドナウはバルト三国を自由に処分できることをウクライナに認めさせた。ウクライナが「大ロシア」の領域を外国に譲ったことは特筆すべきである。

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 1941年8月1日、フランス軍装甲部隊がウクライナのキーウ付近に派遣され、反攻作戦「東の夜明け」が始まった。装甲部隊はキーウ=ブリャンスク間の深い森林地帯を突破し、ウクライナ深くに侵入したロシア軍部隊を包囲する典型的な電撃戦を行い成功した。逃げ遅れたロシア軍はハルキウ南で包囲され、ウクライナ軍はロシア領に侵入しクルスク地方を占領した。南部ではロシアのロストフナドヌーの占領が企図されたが阻止された。「東の夜明け」作戦は東部戦線における初の枢軸国による共同作戦であり、その後も何度か共同作戦が繰り返されることとなる。
 この作戦によりロシア軍は大損害を負い、ハルキウで包囲された約60万人の将兵が捕虜となった。捕虜になった将兵は、まず出身階級、民族、思想別に「分別」され、必要であれば再教育を、そうでなければ強制収容所に送られつつ、ごく一部ではあるが国際サンディカリズムの戦士としてウクライナ軍に参加した者も少なくなかった。
 ロシア軍が負った痛手から、1941-2年の冬はロシアによる大きな反攻作戦はなく、両国ともにらみ合いつつ戦力の立て直しが行われた。

1942年

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 1942年春には新たにドナウ軍とポーランド軍が参加し、枢軸国軍の共同司令部が設立された。ドナウ連邦は戦後バルト三国を勢力下に入れること、ウクライナ人が多数住むポーランドガリツィアにウクライナは干渉しないことなどを条件に、フランス軍より少なくではあったが派兵を行った。ポーランドはロシアから得る領土はなかったが、戦争に貢献することで旧ドイツ帝国のシュレジエン、ポンメルン、プロイセンの併合をドナウに認められようと本格的な派遣軍を送り込んだ。*1
 ドナウ軍とポーランド軍はまずリトアニア王国に無警告で侵攻し*2、そのままドイツ領バルト公国に突き進んだ。バルト公国のエストニア人とラトビア人はドイツ支配の終わりを歓迎し、枢軸国側に協力し親ドナウ的な傀儡国家のエストニアラトビアを建国した。
 ドナウ軍とポーランド軍は難なく進軍し、ロシアの首都ペトログラードに迫った。ロシア軍はバルト公国北部に侵攻し枢軸国軍と衝突したが、徐々に押されていった。一方、ドナウ軍の別働隊はバルト公国の東隣にあるロシア領プスコフ付近から南東に進軍し、ベラルーシにいるロシア軍を背後から攻撃しようとした。これに対し、ベラルーシにいるロシア軍は撤退を開始し、ヴェーリキールーキから東に逃れた。このヴェーリキールーキも結局ドナウ軍に占領された。ベラルーシからロシアに向かった部隊はスモレンスクを占領した。
 首都ペトログラードではモスクワへの機能移転作業が急速に行われていたなか、ついに8月にはペトログラードが包囲され、ペトログラードを取り巻く鉄道も少しずつ占領されていった。古都ノヴゴロドも陥落した。
 さらに、フィンランドが急遽反帝協定に加盟し、冬戦争での失地奪還を求めてカレリアに侵攻、ペトログラードに北から圧力をかけた。
 いっぽう、フランス軍ウクライナ軍はモスクワに繋がるブリャンスク、オリョール、ヴォロネジへ電撃的に攻め込み、占領した。南ではロストフに背後から攻め込みロストフナドヌーを陥落させ、クリミアからはクバンに侵攻、さらにロシア南部の要所ツァーリツィンの占領に成功した。
 300万人が住むペトログラードは包囲され、冬を迎えようとしていた。飢餓の発生は必至だった。ドナウ軍としてはペトログラードを陥落させるほどの兵力がなく、ロシア軍もペトログラードではなくモスクワに向かいつつあるウクライナ軍に対処を優先しようとしていた。結局、1942年12月には市内でサンディカリストによる騒乱が起こったのもあり、ペトログラードは女性や子供などをロシアに解放する、という条件で降伏し、ドナウはこれを受け入れた。
 このとき、ペトログラードではサンディカリストによる「ペトログラードソビエト」が結成され、ロシアに対する赤色臨時政府を自称した。これにより、東部戦線とはロシアの赤化を巡る戦争であるということが判然とした。一方ペトログラード市内の男性は、サンディカリストウクライナ人を除きドナウ本国に捕虜として送られ、奴隷的労働力として軍需産業を支えることとなった。

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 冬になると、ロシア軍による反攻作戦が始まった。北方ではノヴゴロドが奪還され、スモレンスクでは市内に至るまで激しい攻防戦が繰り広げられた。中央部ではオリョールとクルスク南のグプキンでの反攻が成功し、ウクライナ軍は押し戻された。ツァーリツィンでは建物一つ一つを巡る凄惨な戦闘が行われたが、ついにフランス軍が撤退しツァーリツィンは奪還された。いっぽうブリャンスクとヴォロネジにおいて、反攻は成功しなかった。

1943年

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 1943年春、ロシア軍は冬季攻勢で得られたオリョールとグプキンの橋頭保から反撃を試みた。いわゆる「クルスクの戦い」である。このとき、中央部で突出していたのはクルスクとヴォロネジだったが、ロシア軍はオリョールとグプキンの南北からクルスクを挟撃し、包囲殲滅を試みた。ロシア軍により作戦は「ツィタデレ作戦」と名付けられた。というのも、この戦いにはドイツから東に逃れた精鋭戦力であるドイツ東方軍が多数参加していたからである。クルスクの戦いには両軍合わせて5000両以上の戦車が参加し、後世「史上最大の戦車戦」と見なされた。
 しかし、5月末に始まったクルスクの戦いは7月にはウクライナ軍の頑強な抵抗により失敗し、ロシア軍はむしろ冬季攻勢以前の地点まで押し戻されてしまった。ツィタデレ作戦が失敗したことにより、再びロシア軍は危機に陥った。いっぽう、ウクライナ軍はこの勢いに乗りモスクワ侵攻へ向け兵力を北へ北へと進めた。
 カフカスではついにフランス軍部隊がカスピ海に到達し、油田の一部を奪取した。また、人民戦線が与党であるグルジアは勝ち馬に乗るべく枢軸側でロシアとアゼルバイジャンに宣戦布告をし、バクーを目指しアゼルバイジャンへの侵攻を開始した。同時に、ウクライナ軍の支援部隊がグルジアに上陸した。これに対し、親独政権が与党であるオスマン帝国グルジアとの係争地帯を一方的に占領し、グルジアを牽制した。
 9月から10月にかけてモスクワ南方にあるカルーガ、トゥーラが陥落し、西からはドナウ軍がスモレンスクを突破しモスクワに迫った。さらに、ドナウ軍はトヴェリを占領しモスクワから北方に繋がる交通路を絶った。かくして、第一次モスクワの戦いが始まった。
 第一次モスクワの戦いは西と南から迫る枢軸国軍の挟撃だった。一方ロシア軍はクルスクの敗戦から立て直し、モスクワ目前で必死の抵抗を行い攻撃の足止めをした。空ではウクライナ軍による空爆が行われた。しかし、今や首都となったモスクワは耐え抜き、12月には厳しい冬が到来しロシア軍による反攻が始まった。

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 ロシア軍の反撃は北部で特に成功し、トヴェリでは逃げ遅れたドナウ軍が包囲、殲滅された。これに衝撃を受けたアレクシス・ローゼッカ大統領はドナウ連邦国防委員会を通して、東部戦線において今後積極的な攻勢は控えるよう言明した。代わりにポーランド軍部隊が補充されるようなった。
 中央部ではカルーガとトゥーラがロシア軍に奪還された。
 南部では相変わらず枢軸軍がゆっくりとバクーに迫っていたが、ロシア軍にはこれを防ぐ大作戦を実施する余裕がなかった。
 12月には枢軸国によるオスマン帝国に対する宣戦布告がなされ、イスタンブールギリシャ軍とブルガリア軍に占領された。これと同時にオスマン帝国はロシアの同盟国となったが、オスマン帝国は東部戦線より地中海戦線に気を取られておりカフカスに戦力を回す余裕がなかった。

1944年

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 春になると再び枢軸国軍はモスクワに前進した。第二次モスクワの戦いは冬までの時間の余裕をもって開始され、カルーガ、トゥーラ、トヴェリに加えてリャザンが枢軸国軍により陥落した。南部ではツァーリツィンに再び攻勢がかけられ、6月には雪辱が晴らされた。さらに、バクー油田を含むアゼルバイジャン主要部が枢軸国軍に占領され、枢軸国において燃料の余裕が見られ始めた。一方、バクーを失陥したロシアは自動車化戦力や航空機の運用が制限されることとなった。
 7月にはモスクワが再び包囲され、ロシア軍は厳しい戦いを強いられた。このころになると、フランスとドナウでは兵力不足が本格化し東部戦線における枢軸国軍の主力はウクライナ軍が占めるようになった。このことは、戦後におけるウクライナの発言力を高める結果となった。
 同年4月には、ドナウ軍に率いられたギリシャ軍とブルガリア軍がオスマン帝国本土に上陸し、年末にはアンカラまで迫った。

1945年

 1944年から45年にかけての冬には、モスクワが包囲されていることもありロシア軍は大規模な反攻作戦を実行できなかった。このころになると、戦場となったロシアでは飢餓と無秩序が蔓延し、「パルチザン」と呼ばれるフライコールのような民兵が各地で誕生、治安を乱していった。このパルチザンはサンディカリスト系のものも王党派系のものもあり、地域利害と結びつきつつ歴史に記録されない無数の殺戮を起こしていった。パルチザンによる戦いは占領軍とロシア人の間だけに限らず、ロシア人同士、あるいはユダヤ人やドイツ人などとロシア人といったような様々な対立の事例があった。パルチザンや飢餓、その他騒乱などで死んだ者の数はいまだ不明である。
 1945年4月、ついにモスクワは歴史上初めて降伏した。モスクワに立て籠っていたデニーキンは戦闘のさなか戦死した。これに加え、極東では日本がこれに乗じて侵攻してきたこともあり、ロシア軍は総崩れとなりヴォルガ川へ撤退していった。ウクライナ軍を主力とする枢軸国軍は「赤日作戦」*3を発動してこれを追撃し、ペンザ、サラトフ、アストラハンを占領しニジニーノヴゴロドに到達した。ニジニーノヴゴロドは天然の要塞であり、そこではロシア軍とウクライナ軍が交戦し、東部戦線の再終幕を象徴するような戦いを繰り広げた。
 このころ、小国として中立を守り続けたアルメニアが枢軸側に立ち、アゼルバイジャンオスマン帝国東部に侵攻した。オスマン帝国東部ではアルメニア人虐殺の報復として大規模かつ組織的なトルコ人虐殺が行われた。
 8月9日には中立条約を結んでいた日本軍が極東沿海州を攻撃し、宣戦布告をした。モスクワを失い国家全体による抵抗は困難を極めていたのにかかわらず、開戦を予期していた沿海州戦線司令官のアレクサンドル・ヴァシレフスキーの用意周到な防衛線と遅滞戦術、組織的なゲリラ戦により日本軍の進撃は一時食い止められた。

1946年・その後

 沿海州戦線においては遅々とした進撃に痺れを切らした日本軍大本営の命令で冬季攻勢が行われた。陸軍記念日(3月10日)までのウラジオストク陥落を目標としたが、ロシア軍の根こそぎ動員とゲリラ戦に阻まれ、さらに極寒の気候で日本軍は数万人の死者を出した。ウラジオストクは砲撃と空襲で市街の9割が廃墟と化しつつも、ロシア軍は廃墟に隠れて抵抗をつづけた。結局ウラジオストクの占領は4月へと遅れた。日本軍はゲリラ討伐のため奥地へと入り、女子供も構わず凄惨な絶滅戦を行った。
 また、1946年初夏に日本軍と満洲国軍はモンゴル及びザバイカルに進撃した。白人種から黄色人種モンゴル人を「解放」するというアジア主義的使命に基づく作戦だった。
 その後、世界各地の戦線は停滞し、いずれの国にも継戦能力が残っていなかったことから停戦協定の締結に向けた交渉が各地で行われ始めた。東部戦線でも7月に停戦協定が発効し、ヴォルガ川以西をウクライナに、以東をロシアに分割する形での停戦ラインが結ばれた。
 これを受けて、サンディカリストに支援されていた中央アジア、ウラル、ヴォルガ川少数民族独立運動が蜂起し、ロシアはまさに分解しようとした。さらに、翌8月には正式な平和条約締結の直前というタイミングに乗じ、最後の大規模作戦「フメリヌイツクイ」作戦を実施しヴォルガ川を越え、ウラル山脈に到達した。ウクライナのフルシチョウは、少数民族が分割しつつロシア全土を併合しようと試みたのだ。
 しかし、戦後ウクライナがシベリアを併合し強国になることを恐れ、枢軸各国すなわちドナウ、フランス、日本はウクライナに対しこれ以上の進撃を禁じた。ウクライナ軍も兵力が枯渇しつつあったため、残る旧ロシア領土は征服ではなく現地勢力の懐柔へと戦略を移していく。中央アジアにおいて誕生したトルキスタンにおいて人民戦線政権が成立するのは戦後すぐのことである。
 こうした背景もあり、東西を日本とウクライナに挟まれたシベリアでは一時無政府状態となり各地に軍閥がはびこったが、ここにきて卓越した農民運動家ボリス・サヴィンコフが台頭し諸勢力をまとめていった。東シベリアに進駐した日本軍はシベリア全土の併合とアジア人政権樹立のために工作を行い、ヤクーチヤでは分離独立運動が成功したが、それ以外ではうまくいかなかった。そもそもロシア人の割合がアジア系少数民族より多く、また沿海州戦線での経験からロシア人は日本軍を好かなかったためである。しかし、このままではシベリア全土の赤化が不可避だと見た日本本国は現地軍の頭越しにサヴィンコフと交渉、サヴィンコフのシベリア政権樹立の支援を決定し、シベリアは独立と引き換えに日本とウクライナの緩衝地帯となった。
 結局のところ、両陣営併せて約2000万人以上が死亡した東部戦線の結果は、ウクライナ主導による旧大ロシアの赤化すなわちソビエト連邦成立と、シベリアの分離であった。積極的な戦争指導を果たし勝利を導いたフルシチョウは、やがて元首ウィヌィチェンコを凌ぐ権威を手にし、ソ連を名実ともに支配することとなる。
 戦後、ベラルーシ、ウラル以西のロシア、そしてヴォルガ川などで興った数々の少数民族国家はウクライナの主導の下衛星国となった。カフカスではアゼルバイジャンが領土の一部を失い、グルジアアルメニアが旧オスマン帝国領を中心に西へ領土を拡大した。バルト三国リトアニアラトビアエストニアと北欧フィンランドの処分はドナウにゆだねられた。フランスはバクー油田の権益を手にした。シベリアではサヴィンコフ政権が樹立し、東シベリアではシベリアの主権の下にありつつも日本軍が介入する微妙な地域となった。

*1:これら地域はいわゆる「新ポーランド」と呼ばれ、戦後実際にポーランドに併合された。このとき、新ポーランドに住んでいたドイツ人は土地を追われ、アフリカに植民されることとなる。

*2:対独侵攻作戦の際、リトアニアが枢軸国による忠告に反して中立を破り、ドイツ軍をロシアへ逃がしたからだとも言われる

*3:中世ウクライナの名君ヴォロディーミル1世の渾名から名付けたという。