ミキータ・フルシチョウ(執筆中)

ミキータ・フルシチョウ*1(Мики́та Сергі́йович Хрущо́в;1894-1968)はウクライナソ連の政治家。

f:id:kodai795:20191124063526j:plain
反帝国主義式敬礼をするフルシチョウ

生い立ちとロシア革命

 1894年にロシア帝国クルスク県で生まれる。両親ともプロレタリアートだった。9歳のころまで羊番をしつつ学校に通っていたが、父親はミキータを学校から引っ張り出し働かせた。当時についてミキータ曰く、父は「30まで数えられるならもう十分だ」と述べていたという。
 炭鉱業が栄えるドンバス地方のユゾフカ(現在のドネツィク)に移住し、15歳で鉛管工として働き始めた。WW1では徴兵されなかった。
 1917年の二月革命の際、勤務している炭鉱のソビエト(評議会)に選出され、1918年にはボリシェヴィキに入党した。当時ウクライナはドイツの支援を受けたヘチマン軍とボリシェヴィキ赤軍戦火を交えていた。ヘチマンの攻勢でドンバスを追われたフルシチョフツァーリツィン(ボルゴグラード)で赤軍の政治委員となり、セミョーン・ブジョーンヌイの下で北上するデニーキン軍と対峙した。ツァーリツィンが陥落し敗色が濃くなる中、フルシチョフはクバンでの特務を命じられ戦線を離脱、敵軍支配地域をくぐり抜けて南へ脱出した。
 1921年ボリシェヴィキが滅亡しデニーキンによる白色テロが激しくなると、フルシチョフウクライナに脱出した。ドンバスでの地下闘争を試みたが、ここでも白色テロが極まりフランス・コミューンに亡命することになった。亡命は現地のフランス人コミュニストが手助けし、オデッサのフランス商船に乗り込んで海路マルセイユへ向かったという。このとき、同じく赤系ウクライナ人のニーナ・クハルチュクと出会った。ニーナはフルシチョウにとっての最初で最後の伴侶となる女性だった。ちなみに、ニーナとはその死までいわゆる「事実婚」だった。1922年にはすでに妊娠していたらしいが、詳しいことは明らかではない。ともかく、二人自身はすっかり夫婦だと思い込んでいたが、1964年にニーナが病死した際に初めて婚姻関係が書類上なかったことをミキータは知ったという。

フランス亡命

 1922年にフランスの工業地帯リールに移住したミキータとニーナは、そこで工場勤務の仕事を得、ミキータはリール大学夜間学部に入学した。同年に創設された、パリ・インターのウクライナ共産党に入党する。
 ウクライナ共産党でのフルシチョウは精力的な仕事ぶりと労働者としての現場知識に優れ、現地の赤系ウクライナ人労働者をまとめ上げた。当時はボリシェヴィキの後継組織であるロシア・フランス共産党が大ロシア主義に基づくウクライナ人の取り込みを行いウクライナ共産党と対立していたが、フルシチョウはロシア内戦時代に得た政治委員の経験をもとにウクライナ人労働者のミリス(民兵)を結成し、ロシア・フランス共産党に殴り込みをかけた。ついにフルシチョウはリールのロシア・フランス共産党を分裂させ、フランス共産党ウクライナ共産党に吸収させることに成功した。
 こうした仕事ぶりが評価され、1925年にウクライナ共産党リール地区書記長、パリ・インターリール地区中央委員に就任した。1929年にパリ市に引っ越し、工業物理化学市立大学で冶金学を修めた。このとき友人の紹介で知り合った人のなかに、シモン・ペトリューラの一人娘レーシャ・ペトリューラがいた。パリ第三大学で学び、のちに詩人として知られるレーシャを介して、フルシチョウはウクライナ共産党書記のシモン・ペトリューラと知り合うことができた。このころミキータはすでに反ロシア感情を燃やしており、ペトリューラには気に入られた。
donau.hatenablog.com

党指導部への就任

 1931年にウクライナ共産党中央委員に選出され、党専従となった。このとき後にフルシチョウの右腕となるラーザル・カハノーウィチやスタニスラウ・コシオールなどと知り合った。
 1932年にドゴールによるクーデターが勃発、ウクライナ共産党はミリスを出動させクーデター支持を表明した。このため、ドゴール体制ではパリ・インターを通じてウクライナ共産党への支援が約束された。無論、これはフランスの戦略的視点による、反帝国主義闘争の一環でもあった。このころ中央委員会幹部会議員*2フルシチョウはパリからウクライナの地下共産党と連絡を取るパリ・インターに対して、指示内容を実際に起草する立場にあった*3。フルシチョウは党内で最もウクライナの国内事情に熟知した立場だった。
 このころウクライナでは世界恐慌により失業者があふれ、ヘチマン政権への不信と反ユダヤ主義があふれていた。ちなみに、フルシチョウはユダヤ主義に関しては言及を避けていたが、少なくともパリにおいてはユダヤ人とも親密な交友を持っており、個人的には反ユダヤ主義者ではなかったであろうと言われている。とはいえ、ウクライナにおける治世では数多くのユダヤ人が犠牲になったのは事実である。
 1937年に反ヘチマンゼネストが起こると、フルシチョウは急遽エールフランス機でウクライナに乗り込んだ。この行動は奇襲的に行われ、パリのウクライナ共産党内部ではごく一部しか事前に知らされていなかった。このフルシチョウ帰還は衝撃的かつ印象的な出来事であり、その後の権力掌握に一役買ったといわれる。空港に降り立ったフルシチョウは労働者に出迎えられ、「肉の防弾」に囲まれ官憲を寄せ付けなかった。ヘチマンは事態の収拾をあきらめ、辞任した。

人民戦線政権

 社会主義政権であるウクライナ・ラーダが成立し、すぐにウクライナ社会民主党指導者のウォロディムィル・ウィヌィチェンコと協力し統一政党「人民戦線(ナロフロント)」が発足した。フルシチョウはナロフロント政治局員と書記を兼ねることとなった。ナロフロントでこの二つの役職を兼ねたのはほかにペトリューラとウィヌィチェンコだけだったが、二人はそれぞれ内務人民委員と全ウクライナ中央執行委員会議長(国家元首)という政府のポストを持っていたが、フルシチョウにはなかった。このため、フルシチョウは党務に専念することができ、事実上の党指導者と見なされた。
donau.hatenablog.com

 人民戦線においてパリのウクライナ共産党関係者は「パリ組」と呼ばれ、フルシチョウの権力源だったが、その数はウィヌィチェンコ率いる旧ウクライナ社民党員と比べて少なかった。フルシチョウはパリ時代のコシオール、カハノーウィチ、ドラホムィレツィクィー、シュムシクィーらだけでなく、人民戦線で政治キャリアを開始した若い世代を取り立て、取り込んだ。彼らはウィヌィチェンコ派の粛清後に活躍することとなる。例えばレオニード・コルニーエツィはキーウ市書記長(市長)カハノーウィチの後任となり、キーウ地下鉄建設を指揮した。この功を認められ、のちに大いに出世することとなった。
 1941年に東部戦線が勃発し、ロシア軍は「ズヴォーロフ作戦」でウクライナ東部になだれ込み、工業地帯ドンバスの包囲を狙った。首都のキーウは空襲に遭い、市民は地下鉄に避難した。ウィヌィチェンコらは身の安全のため政府要人のための特別壕に避難したが、フルシチョウはあえて地下鉄に避難し市民の前に現れた。そこでフルシチョウは即興の演説を開始し、今に戦況は逆転し最終的勝利を掴むと約束した。市民はこの演説に感動し、銃後の士気を大いに盛り上げたという。
 戦況を立て直すべくウクライナ国家防衛委員会が設立し、あらゆる国家・党の全権を押さえた。フルシチョウは同委員会の委員となり、軍需生産の統制と軍参謀本部の指導という重大な任務を担当した。これにより、フルシチョウは軍部を掌握し、さらにこの功績でフルシチョウの権威は高まった。
 そして、フルシチョウの演説通りウクライナ赤軍はロシア軍を追い出し、ロシア領土に攻め込んだ。1942年12月にはロシアの首都ペトログラードが陥落し、ロシア社会民主党左派や元ボリシェヴィキを中心に「ロシア・ソビエト」が成立した。フルシチョウは人民戦線を通じて必要な人材を送りこみ、占領地での赤色政権成立に大きく寄与した。
 その後も戦局はウクライナ軍と枢軸軍の有利に進み、1946年8月にロシアと休戦協定が結ばれウクライナウラル山脈以西を征服した。ウクライナは戦争に勝利した。

粛清と権力掌握

donau.hatenablog.com

 1946年12月1日、戦勝直後にレニングラードを訪問した全ウクライナ中央執行委員会のウォロディムィル・ウィヌィチェンコは暴漢レオニード・ニコラエフに暗殺された。これを「レニングラード事件」という。1943年にシモン・ペトリューラは病死したため、これで政治局員と書記を兼務する者はフルシチョウしかいなくなった。フルシチョウ書記長は党の最高指導者となったのである。
 ウィヌィチェンコを失いウィヌィチェンコ派は混乱するなか、フルシチョウはこの事件を利用し権力掌握を試みた。
 12月20日に第五回人民戦線党大会が開かれると、フルシチョウは腹心カハノーウィチに中央委員会選挙の投票改鋳を命じ、ウィヌィチェンコ派を全員落選させたのである。かくして、まずフルシチョウは人民戦線を掌握した。
 さらに、レニングラード事件はウィヌィチェンコ派による陰謀だったとして、ウィヌィチェンコ派の幹部を見せしめ裁判に引き出した。1947年の第二次レニングラード裁判ではイサーク・マゼーパ、ボリス・マルトス、ユーリー・マズレンコ、セルヒー・オスタペンコ、パナス・フェデンコらウィヌィチェンコの後を担うはずだった有力政治家らが容疑を「自白」し、銃殺された。
 続くキーウ裁判、モスクワ裁判ではウィヌィチェンコ派だけでなく、元地下共産党員や元闘争派、元ボリシェヴィキなど非パリ組は見境なく裁かれ、抹殺された。この粛清はウクライナだけでなくWW2で成立したロシア・ソビエトなどにも及んだ。フルシチョウはこれら政敵を「人民の敵」と呼び、徹底的に攻撃した。1948年には粛清の手が地方組織にも及び、数多くの党員が死亡した。
 フルシチョウはウクライナ、ロシア、ベラルーシなどの並立する社会主義国家を、ウクライナ主導の連邦国家に改組しようと試み、ウクライナ内外で徹底的な「社会主義化」を行った。農業は集団化され、産業は国有化し計画経済を構築した。特につい数年前まで資本主義国だったロシアでは、こうした革命化事業は急速で苛烈だった。1946年から1947年にかけてロシアでは大飢餓が発生した。フルシチョウは、こうした急速な革命化による失政を「人民の敵」の仕業とし、数々の陰謀事件をでっちあげていった。
 こうした「上からの粛清」に加え、「下からの粛清」も激化していった。ウクライナでは人民戦線政権成立以降も反ユダヤ主義に基づく、ユダヤ人に対する民衆の密告、暴力が多発していた。ロシアでも敗戦直後にそれが起き、貴族、資本家、ドイツ人、ユダヤ人は誰であれ民衆に「人民の敵」扱いされ、無実の罪を密告された。こうした党指導部と草の根民衆による動きを「大テロル」と呼ぶ。
 こうした粛清に次ぐ粛清でウクライナやロシアなど政治は乱れ、経済は停滞した。するとフルシチョウはこれをNKVS(内務人民委員部)長官のイワン・ボホンコのせいにし、1949年6月に失脚させ後任にパウロ・スドプラトウを据えた。かくして「上からの粛清」は落ち着いていった。

ソ連建国

f:id:kodai795:20191124063610j:plain
フルシチョウの肖像画

 1950年12月5日に通称「フルシチョウ憲法」が制定され、東ヨーロッパの各社会主義政権「ラーダ社会主義共和国連邦」*4が発足し、人民戦線は解散し「ラーダ連邦共産党」となった。
 フルシチョウ憲法では人民戦線時代と同様、「人民民主主義」と呼ばれる独裁前衛党だけでない広範な勢力の参加を認めたものだったが、「共産党の指導性」を定め独裁に法的根拠を与えた。
 新設されたソ連邦の要職には、フルシチョウ派の若手幹部が就任し、事実上のフルシチョウによる独裁を完成させた。

個人崇拝

 ロシア革命出身の革命家のなかでは比較的後発だったフルシチョウは、歴史を改鋳して正統性を加えようとした。
 デニーキンによる進撃の際、フルシチョウは政治委員としてこれを食い止めたが、レフ・トロツキー*5の無能により左遷され、結果侵攻を許したとか、フルシチョウはフランスのウクライナ人、ロシア人の指導者だったとか、誇張や捏造などで様々な逸話が創作された。
 ソ連各地にフルシチョウの肖像画が掲げられ、フルシチョウを称える歌が数多く作曲された。またフルシチョウの名を関した建物や通りなども現れた。これらはフルシチョウ死後「個人崇拝」として批難された。

強制移住

 ウクライナ民族主義に基づくロシア人の強制移住は、フルシチョウだけの方針でなくペトリューラら内務人民委員部の方針でもあったが、多くはフルシチョウ政権下で実行された。
 戦後南ロシアやドン、クバン、カフカスなどでは公用語がロシア語からウクライナ語になり、これら地域はソ連成立の際にウクライナに併合された。ヴォルガ川では少数民族の文化運動を支援しロシア語の地位を落とした。ロシア語話者に対しては、僻地やウクライナへの強制移住が頻繁に行われた。ポーランド人はポーランドやウラル以東のロシア共和国に追放されるか、カフカスの開拓地に強制移住された。ロシア帝政時代には権威と尊敬を集めたウクライナポーランド人貴族層は、これをもって絶えた。

仏ソ対立と赤軍粛清

 1957年にドゴールが暗殺されると、フランスでは与党人民戦線が分裂し、後継者争いとそれに伴う「ドゴール批判」が起こった。フルシチョウと「イデオロギー書記」ムィハイロ・スースロウらソ連指導部により、ドゴールに対する「修正主義」が批判された一方、ドゴール死後のフランス政界におけるドゴール批判を支援した軍部が批難され、ソ連では「ボナパルティズム批判」が起こった。
 もともとWW2以来ソ連軍は肥大化しており、実際には軍部を縮小する口実が欲しかっただけのようである。赤軍の粛清はウィヌィチェンコ派粛清と比べれば比較的穏やかだったが、それでも数人の将軍に対し銃殺系が下った。肥大化した軍部の人員120万人が削減され、その分浮いた予算を核兵器開発と生産に回した。
 いっぽう、仏ソ対立は国際的な反帝国主義闘争に暗い影を落とした。仏ソ対立にともない、アジアとアフリカの反帝国主義グループはサンディカリスト(フランス側)とコミュニストソ連側)に分裂し、内部抗争を余儀なくされた。とくにアフリカのザイール・コミューンでは両者の対立は1960年に内戦へ発展し、ドナウ陣営によるザイール介入を招いてしまった。

ニーナの死と神経衰弱

 終わらない激務によりフルシチョウは神経をすり減らしていたが、とりわけ大テロル以降は精神的衛生が悪化していった。独裁者特有のパラノイアにより、陽気だったフルシチョウの性格は年を取るごとに暗くなっていった。部下を信用しなくなり、パリ時代からの盟友だったアンチン・ドラホムィレツィクィーの失脚と銃殺以来、さらにそれが悪化した。フルシチョウはドラホムィレツィクィーが結局無実であり、自分の憤怒と猜疑心に基づき殺してしまったと自覚していたようである。
 また、ニーナとはかつておしどり夫婦だったが、次第に関係は冷却化していった。それでも、ニーナはフルシチョウにとって最愛の人間だったことには変わりなかった。1964年にニーナが病死すると、フルシチョウは完全に廃人になった。私邸に引きこもり、虚空を見つめて涙しているところを孫のミキータ(指導者たるフルシチョウと全くの同姓同名)が目撃している。
 1968年9月11日に心臓発作で死去した。フルシチョウ亡き後のソ連は、熾烈な権力争いの後「雪解け」の時代に突入することとなる。

この記事は、書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。

*1:実際の発音は「ムィクィータ」だが、慣習上こう書かれている。

*2:当時のウクライナ共産党に存在した組織。中央委員会から選出され、ウクライナ人民戦線でいう政治局と書記局を兼ねたようなものである。1937年時点での幹部会メンバーはシモン・ペトリューラ(議長)、ミキータ・フルシチョウ、アンチン・ドラホムィレツィクィー、オレクサンドル・シュムシクィー。

*3:ちなみにパリ・インターのウクライナ共産党代表はかのヴィルヘルム・ハプスブルクである。

*4:日本ではロシア語による「ソビエト社会主義共和国連邦」として知られている。

*5:トロツキー自身は1922年に白色テロで死去した。