ユルチェク・ベーラ

ユルチェク・ベーラ(Jurcsek Béla、1893-1959)はドナウ連邦の官僚、政治家。

 ティサタルヤーン出身の地主の子。ナジカーロイの中等学校に通い、デブレツェンで経済学を修めた。ドナウ連邦建国後にドナウ連邦ハンガリー共和国農務省に入省し、キャリアを積んでいった。
 ローゼッカによる権力掌握直前の1932年にドナウ社会主義労農党に入党したが、当時は官僚の入党が相次いでいた。
 ユルチェクは新設された公共生活省に移り、同省の食糧供給部門を指揮した。ラティンカ・シャーンドルが大統領府食糧局との抗争に敗れつつあるなか、ユルチェクは公共生活省食糧局の実質的な長として実力を蓄えた。
 戦争勃発後に戦時経済が構築されると、ユルチェクは本国の民間向け食糧配給・流通体制を構築するべく、ローゼッカ大統領から「戦時食糧供給部指導者」に任命されたほか、戦時経済のテクノクラートが連携を取るべく集まった「ヴェルナッツァ会議」に参加した。ユルチェクはとりわけ旧ユーゴスラビアの占領地から食糧を収奪し、占領地を飢餓に追い込んだ代わりに本国の食糧供給を安定させ、戦争指揮を維持し勝利に貢献した。
 戦後は正式に公共生活省食糧局長に就任し、戦後のドナウの食卓を支え続けた。1953年に定年退職し「ティサタルヤーン食品加工公団」を地元に設立、自身は公団指導者に就いた。1959年病死。