レオン・ジュオー

レオン・ジュオー(Léon Jouhaux、1879-1954)はフランスの政治家、CGT事務局長。
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 パリ郊外のパンタン出身。父はデモ行進中に警官隊が撃った白リン団で失明し、失職した。このためジュオーは子供の頃から働かざるを得なかった。職場では労働運動指導する立場になり、1906年には労働総同盟(CGT)の地域代表に選出された。
 WW1ではユニオン・サクレに参加したが、一方で戦争末期には反戦運動にも参加した。こうした態度のため、CGTはWW1敗戦直後過激派(ジャコバン)の煽動もあり労働統一総同盟(CGTU)が分離する事態となった。
 コミューン建国期のCGTはCGTUへの反発からパリインターでなくアムステルダムインターに参加した。ジュオーは理論闘争を自制させ、労働環境の向上といった現場生活に根差した政策を行わせた。CGTもCGTUも、SFIOとPCFとの合意により地方コミューンの自治を担うようになったためである。ジュオーの下で1日8時間労働、団結権、団体交渉権の確認、休日出勤の賃金の支払いが認められた。
 1932年のドゴールクーデターでは特に抵抗を指示することはなかった。このおかげでCGTは解体されることなく、ジュオーもまた職務を続けることができた。クーデター体制には順応し、ドゴールの命令でアムステルダムインターの脱退とパリインターへの加盟を行っている。
 しかし、ドゴールによる軍備拡張と開戦もいとわぬ恫喝的な外交にジュオーは抗議し、1938年に辞任した。その後は死ぬまで政治的沈黙を貫いた。