フバイ・カールマーン

フバイ・カールマーン(Hubay Kálmán、1902-1968)はドナウ連邦の政治家。

 1902年ソルノク県ヤーサパーチ村出身。ミシュコルツ大学で法学を修め、オーストリア革命を機にジャーナリストとして活動していた。
 1920年頃にドナウ社会主義労農党に入党した古参党員であり、ジャーナリストという経歴を買われて初代党宣伝指導者に就任した。しかし、『プレスブルク綱領』を積極的に支持しなかったため、よりローゼッカへの忠誠を示していたヨーゼフ・ゲッベルスが1928年に宣伝指導者に就任し、フバイは役職を奪われる形となった。これ以来、フバイとゲッベルスはライバル関係となった。
 フバイはこれで引き下がらず、ブダペストの国民衛兵隊を中心に影響力を維持し、国民衛兵隊内部の宣伝を担当する国民衛兵隊広報局長をしばらく務めた。ドナウ党による政権掌握後は、ペシュト=ピリシュ=ショルト=キシュクン州*1指導者のほか、1937年には宣伝省主席次官に上り詰め、宣伝大臣ゲッベルスと対立した。
 フバイはドナウにおける宣伝部門のナンバー2となったため、ローゼッカが1948年に死去し、ナジ・エンドレが指名後継者として大統領に就任し、ゲッベルスが罷免されるとフバイは宣伝大臣に就任した。
 フバイの下の宣伝省はよく言えば当たり障りのない運営で、悪く言えば新鮮味が欠けていた。フバイにゲッベルスほどの芸術の才能はなかったようである。
 しかし、ナジ大統領の権威と基盤はローゼッカほど盤石ではなく、当時のドナウでは連邦軍、連邦保安省、国民衛兵隊といった武力組織が戦争で得た利権をもとに独自行動と派閥闘争に没頭していき、とりわけ連邦保安省出身の議員で構成される「保安省閥」はナジ政権に反抗的だった。ナジは保安省閥を牽制するため、国民衛兵隊とのつながりが深い*2フバイを登用したのである。
 とはいえ、ナジの政権運営は困難を極め、ついに1957年に連邦保安省の圧力でフバイは辞任を余儀なくされた。その後任に、保安省閥との協力関係を取ったゲッベルスが選ばれたことは、フバイにとって屈辱だった。
 その後のフバイは巻き返しを図ることができず、1962年のウィーンの春でも有効な行動をとれず、そのまま1968年にブダペストで病死した。

*1:名前が長すぎるためしばしば「PPŠK-štat(ドナウ語)」と書かれる場合が多い。

*2:階級は国民衛兵隊大将である。