フリードリヒ・フォン・ハイエク

フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク*1(Friedrich August von Hayek、1899年5月8日 - 1992年3月23日)はドナウ連邦、イギリスの経済学者、哲学者。ポラーニ・カーロイ、ペーター・ドルッカーと並び「中欧の三大哲学者」と評された。
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 ウィーン出身のプロテスタントの貴族。WW1では同時代人同様に従軍し負傷している。オーストリア革命が起きた1918年にウィーン大学に入学し、法学博士と政治学博士号を取得した。その後経済学者のルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(1881-1973)に師事するようになる。フォン・ミーゼスは経済計算論争において否定派に立ち、市場ではなく政府が完全に管理する社会主義経済は不可能であると主張し、自由主義を擁護した人間であるが、フォン・ミーゼスの考えはフォン・ハイエクに受け継がれている。ちなみにフォン・ミーゼスもフォン・ハイエクと同様にドナウ社会主義労農党政権の誕生で新大陸に移民している。また経済計算論争で賛成派に立ったポーランド人経済学者のオスカル・ランゲはアメリカのミシガン大学に在籍していたが、アメリカ内戦の影響でポーランドに帰国し全体主義経済学者の一人となっている。
 世界恐慌全体主義革命により社会主義経済が肯定されるなか、市場を不可欠とした市場原理主義的なフォン・ハイエクらは「オーストリア学派」と呼ばれるようになり、アレクシス・ローゼッカらドナウ党と公然と対立するようになった。ポラーニら全体主義革命を支持した哲学者は、これを「旧時代と新時代の闘争」と表現した。結局フォン・ハイエクはドルッカーと同様にドナウを出国し、イギリスに移住した。
 フォン・ハイエクはドナウ以外ではあまり知られていなかったが、その名を轟かせたのは1944年に出版された『隷属への道』だった。ファシズムサンディカリズムも同根の集産主義と断じたこの書は、WW2で全体主義諸国と戦う同盟国の間でベストセラーとなり、イギリス首相のチャーチルはこれを印刷して前線兵士に配ったという。しかし、書物だけでは戦局を転換できず、戦争末期にイギリス本土は陥落し、フォン・ハイエクはカナダに逃れた。
 戦後はオタワ大学教授となり、反全体主義の哲学者として影響力を持った。
 全体主義国に敗れたイギリスやドイツ、アメリカ内戦に辛勝したアメリカ連合などの新大陸国家は、かつてWW1が欧州に全体主義を生んだように、皮肉にもWW2の経験が社会主義的な政府をもたらし、全体主義的傾向を持つな革命運動さえ現れるようになってしまった。フォン・ハイエクはこうした傾向に一貫として反対し、同じく新大陸諸国の反全体主義者であるリバタリアニズム運動にも影響を与えた。しかし、フォン・ハイエクリバタリアンと断じるのは安直であるという指摘もある。
 ドナウ連邦が動乱と全体主義革命のなか生み出した哲学者として、ポラーニ、ドルッカーそしてフォン・ハイエクが挙げられる。ユダヤ人中間層のポラーニが革命側に、同じくユダヤ系中間層のドルッカーが革命を理解しつつも反対したのに対し、ドイツ人富裕貴族フォン・ハイエクは革命そのものを拒絶した。こうした点で、この三人は建国期のドナウ連邦を象徴していると言われている。ポラーニは全体主義の起源を19世紀のレッセフェールに、ドルッカーが塹壕戦に、フォン・ハイエクが戦時経済に求めたことは、それぞれ興味深い視点を提供している。
 『隷属への道』では理性主義批判だけでなく、自由主義保守主義は反全体主義においてしか共通点がないことを指摘し、保守主義の観点から過度な自由主義には反対し、保守主義そのものを改善することで全体主義に対抗すべきとした。ヒュームらイギリス保守主義に影響は受けつつも、戦争に敗れたイギリス指導部を「貴族の徒党は真の保守主義ではない」と辛辣に断じている。また、行き過ぎた自由主義経済に反対して保護貿易を主張したことも、オーストリア学派の影響を受けたリバタリアンとの相違点として挙げられるだろう。

*1:「フォン」などの貴族称号はドナウ党政権で廃止しされたが、反全体主義者として一貫して「フォン」を付け続けた。