ヨーゼフ・ゲッベルス

ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels、1897-1975)は、ドナウ連邦の政治家。

 1897年、ドイツ帝国ルール地方出身。4歳のころ小児麻痺を患い、歩行が不自由になった。敬虔なカトリックに生まれ神学校に通ったが、WW1後の混乱で次第に神を信じなくなった。WW1では従軍を希望したが、かなわなかった。1922年にハイデルベルク大学を卒業。しかし、戦後不況で職が見つからず露頭をさまよった。この頃資本主義に恨みを持ち始めたという。
 1923年にウィーンにある新聞社のジャーナリストに採用されドナウ連邦に移住。保守ブルジョワ系の新聞だったためか、肌に合わず退職した。その後ゲッベルスはいくつかの政党をめぐり(DSABP右派も含まれる)、ドナウ社会主義労農党オーストリア支部指導者のヨーゼフ・レオポルトの誘いで入党した。
 その後、ドナウ党北ボヘミア支部に転任。一時期、ローゼッカらハンガリーのグループとは対立していたが、その後懐柔されてローゼッカに従った。1926年にオーストリア支部へ戻り『ドナウ闘争新聞』を創刊。独特な宣伝手法に党員を一気に増やした。1928年に連邦議会議員に当選し、同時に宣伝指導者となった。前任のフバイ・カールマーンから奪う形で宣伝指導者となったが、このフバイとは終生の政治的ライバルとなる。1929年の世界恐慌以降は、社会民主党の手法を真似しつつ失業者を中心に党員と支持者を増やしていった。
 1933年のドナウ党による権力掌握の際は宣伝大臣に就任し、ドナウ連邦における「思想戦」の最高指揮官となった。ゲッベルスによる芸術路線は、彼自身曰く「ロマン主義リアリズム」と言われる。このように、ドナウ社会主義の芸術が創作されていった。
 ローゼッカに懐柔されて以降、党内では左派の立場として、党イデオローグのホライ・ルーリンツと同調的だった。しかし、公団化やドナウ語などの諸改革が落ち着くと、次第にホライとはローゼッカとの距離感をめぐり対立した。また、ザイス・インクヴァルトや国民衛兵隊とも仲は悪かった。
 ローゼッカ死後の後継大統領となったグロス(ナジ)・エンドレはゲッベルスを好かず、就任直後の1949年にゲッベルスを宣伝大臣から罷免した。ナジが罷免した人事の中では最も大きいものである。後任はゲッベルスのライバルであるフバイ・カールマーンだった。ゲッベルスは退任後も省内で「ゲッベルス派」を形成し、ドイツ民族国*1に派遣されプロパガンダ部門の顧問となった。
 1956年にナジが失脚すると宣伝大臣に復活。しかしゲッベルスロマン主義リアリズムは新鮮さを失い若い世代には不人気だった。1963年の「ウィーンの春」では連邦保安省側に立ち失脚した。

*1:WW2でドイツ本土が陥落し、戦争が終結した後、ブランデンブルクザクセン、メクレンブルクにて成立した全体主義国家。