フランツ・ディングホーファー

フランツ・ディングホーファー(Franz Dinghofer、1873-1956)はドナウ連邦の政治家。

 元判事で二重帝国が崩壊するまではリンツ市長だった。当時ディングホーファーはいわゆる「ドイツ自由主義運動」の代表的な存在であり、二重帝国のドイツ人をドイツ帝国へ統合させることを訴えた。オーストリア革命後はドイツ本国から始まった「汎ドイツ運動」の影響を受け、汎ドイツ同盟の兄弟政党としてウィーンで「大ドイツ人民党」を創設しその指導者に就任した。
 大ドイツ人民党はそこそこの議席を獲得し、右派政権に参加した。ディングホーファー自身もオーストリア共和国の司法大臣を務めている。また、ディングホーファーは極度の反ユダヤ主義者であり、アドルフ・ヒトラーとは仲が良かった。この縁からヒトラーのドナウ党右派とは議会で連立会派を組んでいた。
 ローゼッカが権力を握った翌年の1934年にドイツへ亡命、1940年に汎ドイツ同盟に入党する。1956年にベルリンで死去。