エドゥアール・ド・カステルノー

エドゥアール・ド・カステルノー(Noël Édouard Marie Joseph, Vicomte de Curières de Castelnau、1851-1944)はフランスコミューンの軍人、政治家である。バチカンとフランスの叙任権闘争における重要人物。
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 南フランスのラングドック出身。カステルノー家は歴史ある貴族の家系である。1870-1年に普仏戦争に従軍、1900年にはドレフュス事件により参謀本部から罷免されたが、すぐに復帰しジョッフル参謀総長の代理を務めた。
 第一次世界大戦ではヴェルダンで防衛戦を指揮し、次のような言葉を残している。

「嗚呼ナポレオンよ、ナポレオンよ、彼が今ここにあらば何か他の手段を思案すらん」

 ヴェルダンでの指揮を解任された後*1、革命直前のロシアに派遣された。1918年の春季攻勢(カイザーシュラハト)で本国帰還命令が下されたが、革命の混乱でロシアにとどまらざるを得なかった。ロシア内戦では白軍に加わり、白軍の勝利に貢献した。
 戦後フランスに帰国すると、退役軍人をまとめた民兵組織(ミリス)を構築し、反コミューン議会とカトリシズムを掲げて反動運動を指導した。
 1924年にフランスにおけるカトリック弾圧と叙任権、バチカン市国大使館開設問題に関してバチカンとコミューン政府が対立すると、カステルノーは敬虔なカトリックとして「国民カトリック連合(Fédération Nationale Catholique; FNC)」を組織、コミューン政府に衝撃を与えた。FNCには最大200万人が参加し、フランスのカトリシズムを鼓舞した。また、この運動はドゴールにも大きな影響を与えたとされ、ドゴール・クーデター後のカトリシズム政策もこれに由来していると指摘されている。1926年にコミューン政府とバチカンが妥協策を結ぶと、FNCは急速に衰退した。FNCの有名なメンバーにフィリップ・アリオ、グザヴィエ・ヴァラ、アッベ・バルギー、ピエール・タタンジエールなどがいたという。
 ドゴールによるクーデターと国民革命運動に対し、カステルノーは形式的に参加したが何か指導的立場を得られたわけではなかった。1944年に病死。

*1:後任はフィリップ・ペタン。