ウクライナ人民戦線政権の機構(執筆中)

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はしゃぐフルシチョウ首相

国家の組織

 人民戦線政権の成立でウクライナの国家機構は抜本的に改組された。あらゆる職場にラーダ(評議会)が設置され、各ラーダは「ラーダ大会」で政治的意思表示をすることができた。このラーダ大会が立法府に相当するが、実際には1938年、1940年、1947年の三度しか開催されず、人民戦線の方針を追認するのみに過ぎなかった。
 ラーダ大会は閉会中の代表機関として、約100人ほどの「全ウクライナ中央執行委員会」を選出する。全ウクライナ中央執行委員会はラーダ大会の招集や法の解釈、行政府たる「人民委員会議」の選出という役目があったが、開催されるのはラーダ大会と同様まれである。そのため、委員は人民委員会議の決定を追認するにすぎなかったが、ウォロディムィル・ウィヌィチェンコのように人民戦線と兼務することで、実質的な権力を持つことができた場合もある。この全ウクライナ中央執行委員会の議長が対外的な国家元首である。
 全ウクライナ中央執行委員会により選出された人民委員会議の成員たる「人民委員」が、諸外国でいう大臣に当たり、人民委員会議の議長が首相に当たる。立法権はこの人民委員会議が保有しており、行政府と立法府が事実上同一という極めて強権的な体制だった。

歴代議長

ウクライナ中央執行委員会議長

ウォロディムィル・ウィヌィチェンコ(1937-1946)
ボリス・マルトス(暫定 1946-1947)
レオニード・コルニーエツィ(1947-1950)

人民委員会議議長

イサーク・マゼーパ(1937-1947)
ミキータ・フルシチョウ(1947-1950)

党中央の組織

 人民戦線とは、ウクライナを実質的に指導した独裁政党である。1937年のヘチマン退陣に伴い、ウクライナ社会民主党ウクライナ共産党ウクライナ社会革命党、ウクライナ社会連邦党の合併で誕生した。その支配は、当初は集団指導体制だったが次第にフルシチョウによる独裁へと変化していく。

中央委員会

 人民戦線の大まかな方針を決める「人民戦線大会」が開催されると、中央委員会委員を一人ずつ選出する。中央委員会は大会閉会中の党務を委任されており、実際には人民戦線大会が中央委員会の決定を追認しているのが実情だった。

歴代大会

1937年 第一回大会(中央委員20人、中央委員候補15人選出)
1938年 第二回大会(30人、20人)
1939年 第三回大会(48人、37人)
1940年 第四回大会(52人、40人)
1946年 第五回大会(52人、40人)

政治局

 政治局、通称「ポリトビュロー」は人民戦線において統治の方針を実質的に議論し決定していた。政治局員は中央委員会から数人ほどが選出されるが、詳しい人数規定はない。中央委員会が選出されるたびに、すなわち人民戦線大会が開かれるたびに政治局員メンバーも更新されていった。

書記局

 書記局は政治以外の党組織における庶務を担った。これは予算や人事など幅広いもので、実質的に党を支配していた。書記長のフルシチョウはまず書記局を掌握することで、権力掌握の機会をうかがった。また、政治局員と書記を兼務するわずかな党員(フルシチョウ、ウィヌィチェンコ、ペトリューラ)が最も党内で権力を有していると判断できる。

歴代政治局員・書記

下線は兼務。
赤色:パリ派(パリインター・ウクライナ共産党)、ピンク色:ウィヌィチェンコ派(旧ウクライナ社会民主党)、緑色:地下組(地下ウクライナ共産党)、青色:ボリシェヴィキ派(旧ボリシェヴィキ

1937年

政治局員:ミキータ・フルシチョウウォロディムィル・ウィヌィチェンコ、シモン・ペトリューラアナトリー・ピソツィクィーアンチン・ドラホムィレツィクィーイサーク・マゼーパウォロディムィル・ザトンシクィー
政治局員候補:パウロ・フルィスチュークミハイロ・アウジエーンコスタニスラウ・コシオール
書記:ミキータ・フルシチョウウォロディムィル・ウィヌィチェンコ、シモン・ペトリューララーザル・カハーノウィチオレクサンドル・シュムシクィー
書記候補:フェジル・ジャルコ

1938年

政治局員:ミキータ・フルシチョウウォロディムィル・ウィヌィチェンコ、シモン・ペトリューラアナトリー・ピソツィクィーアンチン・ドラホムィレツィクィーイサーク・マゼーパウォロディムィル・ザトンシクィーカルル・サウリッチ
政治局員候補:パウロ・フルィスチュークミハイロ・アウジエーンコスタニスラウ・コシオールオメリャン・ウォロフ

書記:ミキータ・フルシチョウウォロディムィル・ウィヌィチェンコ、シモン・ペトリューララーザル・カハーノウィチオレクサンドル・シュムシクィー
書記候補:パウロ・ポポウニコライ・ブルガーニン

1939年

 フルシチョウの権力欲を批判したサウリッチは解任、第一次スヴァーリニスト裁判で処刑された。

政治局員:ミキータ・フルシチョウウォロディムィル・ウィヌィチェンコ、シモン・ペトリューラアナトリー・ピソツィクィーアンチン・ドラホムィレツィクィーイサーク・マゼーパウォロディムィル・ザトンシクィースタニスラウ・コシオールオメリャン・ウォロフ
政治局員候補:パウロ・フルィスチュークミハイロ・アウジエーンコスピリドン・ドウガーリ

書記:ミキータ・フルシチョウウォロディムィル・ウィヌィチェンコ、シモン・ペトリューララーザル・カハーノウィチオレクサンドル・シュムシクィー
書記候補:パウロ・ポポウ

1940年

政治局員:ミキータ・フルシチョウウォロディムィル・ウィヌィチェンコ、シモン・ペトリューラアナトリー・ピソツィクィーアンチン・ドラホムィレツィクィーイサーク・マゼーパウォロディムィル・ザトンシクィースタニスラウ・コシオールオメリャン・ウォロフウラス・チューバル
政治局員候補:パウロ・フルィスチュークミハイロ・アウジエーンコスピリドン・ドウガーリ

書記:ミキータ・フルシチョウウォロディムィル・ウィヌィチェンコ、シモン・ペトリューララーザル・カハーノウィチオレクサンドル・シュムシクィーパウロ・ポポウ
書記候補:なし

1946年

 1943年にシモン・ペトリューラ内務人民委員が病死。
 ウィヌィチェンコが暗殺される「ウィヌィチェンコ事件」発生。これに伴い後任の全ウクライナ中央執行委員会議長(国家元首)をめぐってフルシチョウ派とウィヌィチェンコ派が激突する。12月に急遽人民戦線大会が開催され、中央委員会が選出されることとなった。数に劣るフルシチョウ派は投票委員長カハノーウィチの手で投票を改鋳することに成功し、ウィヌィチェンコ派抜きの中央委員会を組織した。この中央委員会の手でウィヌィチェンコ派幹部は「反党行為」により党員資格が停止され、「レニングラード裁判」や「キエフ裁判」などの公開裁判へ送られていった。

政治局員:ミキータ・フルシチョウアナトリー・ピソツィクィーアンチン・ドラホムィレツィクィーウォロディムィル・ザトンシクィースタニスラウ・コシオールオメリャン・ウォロフウラス・チューバル
政治局員候補:パウロ・フルィスチュークミハイロ・アウジエーンコスピリドン・ドウガーリ

書記:ミキータ・フルシチョウラーザル・カハーノウィチオレクサンドル・シュムシクィーパウロ・ポポウ
書記候補:なし

その後

 人民戦線大会は1946年を最後に開かれなくなり、ウクライナにおけるフルシチョウの支配が完成した。ウィヌィチェンコ派以外にも粛清は続けて行われ、主に元アナキストや元地下共産党員などを対象にした第二次スヴァーリニスト裁判、ロシアの元ボリシェヴィキであるニコライ・ブハーリン率いるロシア人民戦線を標的にした「ロシア・ナショナリスト裁判」、ポグロムを生き残ったユダヤ人に対する「シオニスト裁判」などが「演出」された。標的は権力または権威を有していた50代以上の古参政治家であるが、事件をでっちあげるため、実在しない反革命組織の構成員として若者も無作為に選ばれて裁かれた。こうした政治裁判では半分が死刑、もう半分が重労働刑だった。
 これとは別に、一般人の密告による「反革命組織構成員」「スヴァーリニスト」「右派」に対する裁判も行われた。密告が奨励されたので、政治裁判に名を借りた私刑が横行した。
 ウクライナ人民戦線は1950年におけるソ連邦建国とフルシチョウ憲法の制定に伴い、ウクライナだけでなく全ソを統括する巨大政党「共産党」に改組される。ここでもフルシチョウは要職を保持した。