ドナウ社会主義労農党の組織

政権獲得前

 1918年の結党から1933年の政権掌握に至るまで、ドナウ社会主義労農党の規模は大きく変化し、それに従って党組織も変化した。結党初期からプレスブルク綱領、左派連立政権参加までの党組織は概して秩序だったものではなく、諸組織の寄せ集めに過ぎなかった。こうしたことによる統制の弱さは分派、すなわちヒトラー派を生んでしまい、ローゼッカが自身の絶対性という指導者原理の追求へ駆り立てられた原因でもあった。
 プレスブルク綱領のころから党中央部の組織が整備され始め、党中央部には各専門分野を扱い研究する組織が設けられた。いわゆる野党の「影の政府」にも近いもので、この当時からドナウ党が政権獲得を視野に入れていたことを示すものである。各組織を束ねた幹部のなかには、ホライ・ルーリンツのような後のイデオローグへと成長する者もあった。
 

政権獲得後

 ドナウ党が強引に政権を獲得するにおいて、問題は各権力(政府や軍など)内部の反対者をいかに排除するかだった。国家権力を形骸化させ、党そのものが国家を主導する案も存在したが*1、事前工作において中央政府における公務員労組の引き入れに成功したこともあり、中央政府は易々とドナウ党により掌握することができた。
 これに伴い、党中央部の「影の政府」組織は解体され、中央政府に新設された省庁にそのまま移管されることとなった。これら組織に所属する党員はそのまま国家公務員として再就職できたので、これに目をつけ多くの失業中の技術・知識労働者が入党すべく殺到する一幕もあった。この動きは地方自治体でも起きており、党の地方部が既存の有力者(地主や貴族など)に乗っ取られることを党中央部が恐れたこともあり、1933年中には早くも入党制限措置が取られた。
 当時ドナウ連邦は急速な識字化と発展を迎えていたが、地方部は未だに封建勢力が蔓延していることも事実だった。プレスブルク綱領に参加した左派、ホライやゲオルク・リートミュラー、ローゼッカなどはこうした勢力を嫌い、何とか彼らを排除しつつ地方を支配しようと腐心することになる。

党中央部の組織と主な指導者

・指導者官房
指導者官房長:ゲオルク・リートミュラー
国政を含むローゼッカの業務を補佐し、ローゼッカの名において決済することができる。このため、リートミュラーは絶大な権力を持つことができた。

・財務局
党の予算を担当する縁の下の力持ちである。

・党員資格委員会
入党の認可だけでなく、党員の不祥事に対する懲罰についても判断する。

・書記局
党内部の事務処理を担当する。権力掌握以前はサーラシ・フェレンツが指導し、ローゼッカへの忠誠強化や党員番号の改革などを行った。サーラシが去ったのち、書記局の規模は縮小した。

・国際局
ノイバッハー事務所とは別に、党の国外業務や対外宣伝、ロビー活動を担った。クロアチア社会主義労農党といった国外のドナウ党組織の指導を行ったのは外務省でなく国際局である。

・出版局
『労農兵』といった党機関紙の出版を行う。

・国民衛兵隊
党の民兵組織。

・ローゼッカ青年団

・宣伝局(1933年廃止、宣伝省へ移管)
宣伝指導者:ヨーゼフ・ゲッベルス

・グラーフェ事務所(1933年廃止、経済計画局へ移管)
経済担当指導者:ヴァルター・グラーフェ

・ホライ事務所(1933年廃止、大統領府の各部局へ移管)
イデオロギー指導者:ホライ・ルーリンツ

・ノイバッハー事務所(1933年廃止、外務省へ統合)
外交問題指導者:ヘルマン・ノイバッハー

・クライスル事務所(1933年廃止、ドナウ法曹同盟へ移管)
司法問題指導者:アントン・クライスル

・国防問題事務所(1947年廃止)
他の組織が政府に統合されたのに対し、国防問題事務所は軍部を牽制するために統合されなかった。とはいえ、国防問題指導者は有効な指導力を持たなかった。

・ドナウ社会主義学生組織(1933年廃止、ドナウ学生同盟へ改組)
学生指導者:バルトゥール・シーラッハ
ドナウ社会主義学生組織はブダペスト大学や全国の技術学校を中心に勢力を持つ組織だった。より全国的な組織となるべく、1933年に改組された。

・ドナウ社会主義勤労者組織(1933年廃止、公共生活省へ統合)
ドナウ党は労働者の支持が篤かったが、その労組の多くは社会民主党共産党系の労組であり、ドナウ党はそれら労組を従属させたに過ぎなかった。ドナウ社会主義勤労者組織はドナウ党が一から建てた労働組合だったが、自動車産業、燃油産業などの新興産業をのぞき大した影響力は持たなかった。

・ドナウ農民同盟(1933年に党から公共生活省へ移管)
農業指導者:ガーティ・ヨーゼフ

地方行政

 1934年の憲法改正により三共和国による分権制から州による中央集権体制に転換すると、従来地方自治体が保持していた権限を中央が回収する動きが見られた。このため、憲法改正前に機構が成立した市町村、郡においては、これらを指導する封建的勢力でなく党が行政を代行することとなり、市町村と郡は形式的権限のみ残された。地方行政を代行する党の指導者は党中央から指名された者であり、選出されるわけではなかった。
 例えば、党の郡指導者の下には郡指導者官房、財務局、書記局、出版局などがあり、郡指導者は郡政部に対し自由に命令することができた。これとは別に、宣伝省や公共生活省、国民衛兵隊などの郡支部が存在し、形式上郡指導者の下にあったが、実際には中央省庁がこれを動かす場合もあった。党による地方行政は著しい縦割り行政化を招いたという指摘もある。

党機関紙

 党機関紙として最も有名なものは『労農兵』だったが、各幹部・各部局の下に機関紙が自由に発行されていたこともあり、『労働兵』を除いて数多くの機関紙が存在した。1933年以降、その数は停滞傾向にあったが、代わりに政府機関の下での発刊が増加した。『国際消息』*2のようにプロパガンダだけでなく報道としても評価されたものもあった。党機関紙の間ではお互いのライバルに対する批判も珍しくはなかった。

海外の類似政党

 ドナウ党国際局の支援の下、海外で「(国名)社会主義労農党」といった名前を冠した類似政党が構築された。とはいえ、その多くは泡沫政党に留まり、実際には外務省や連邦保安省などが支援する現地の政党とドナウ連邦は連携することが多かった。
 唯一の成功例はクロアチアの「クロアチア社会主義労農党」で、WW2後はクロアチア保護領の統治を支えた。

党員

 入党する際は党員の推薦とアレクシス・ローゼッカに対する忠誠表明が必要である。1933年末時点の党員は約230万人で、総人口の約5%を占めた。

党のシンボル

 有名なものは「覇十字」と呼ばれる十字架で、もともとは中南欧に伝わる「力」を意味するシンボルである。このほかにも、オーストリア・ハンガリー帝国とドナウ連邦を象徴する双頭の鷲をあしらった意匠も多用された。

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参考文献

ハイドゥ・ティボル『双頭の鷲と覇十字の中欧――党と国家のメカニズム』(ウィーナ・ランデスブルク社、1984年、ウィーン)
ケレン・ヨラーン『ドナウ社会主義労農党史』(ドナウ社会主義労農党出版局、1953年、ウィーン)

*1:このアイデアは後のドイツ民族国において汎ドイツ同盟により実践されることとなる。

*2:海外動向の報道に重きを置いた日刊新聞。編集長はヘルマン・ノイバッハーに近いフェルディナント・グラーフ。党指導下にありながら公正中立な報道に努め、読者はウィーンの政権中枢に限定された。1962年に一般購読の受付を解禁。