戦間期フランスコミューン政治史(後編)(更新中)

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 こちらの続き。
 WW1に敗北しコミューン国家となったフランスだったが、失政が続き内乱寸前まで追い詰められていた。そのようななかの1932年7月20日、シャルル・ド=ゴール少将率いるフランス人民軍は蜂起し、独裁体制が始まった。

クーデターからWW2まで

クーデター直後の緊急措置

 人民軍による蜂起は順調に進み、ド=ゴールを警戒していたマキシム・ウェイガンは予備役に送られた。ド=ゴールに協力したミリス「クロワ・ド=フー」と人民軍のもとで街頭に秩序が戻り、7月21日にはド=ゴールを歓迎するデモ行進が行われた。
 ド=ゴール・クーデターに対する政党政治家の反応は様々だった。もともとコミューン行政に批判的な新社会主義者や反動的な右派はもろ手を挙げて歓迎したが、彼らに批判されている政治家からもド=ゴール支持を表明する者が現れた。しかし、ここで問題が起きた。彼らはみなド=ゴール支持では一致していたが、それ以外バラバラだったということである。ド=ゴールは彼らをコントロールするべく新しい政党を設置しようと、公安委員のジョルジュ=エティエンヌ・ボネ(Georges-Étienne Bonnet)に頼み政党設置を試みたが各政治家の意見がまとまらず失敗に終わった。
 こうして、ド=ゴールは政党政治家を利用する手を諦め、公安委員会を超越する臨時機関「革命防衛委員会」による統治に切り替えた。もともとド=ゴールは、必要な措置を終えればクーデターで成立した革命防衛委員会を速やかに解散させるつもりだったが、結局公安委員会を停止させたまま革命防衛委員会による緊急体制が1935年までの三年間続くことになった。ド=ゴールが必要だと認めた人物は革命防衛委員会委員に任命、登用され独占的な権限を有することになった。こうして、フランスコミューンの行政速度はみるみるうちに改善していった。
 まず革命防衛委員会が行ったのは秩序回復と経済救済だった。革命防衛委員会命令により全ミリスは「フランス民兵団(Milice Française)」の管理下に置かれた。この措置に反対したとされるリベラリスト(PR, SFIO)やレピュブリカン(URD, AD)のミリスは人民軍部隊により壊滅した。フランス民兵団設置に反対したミリスに対する弾圧は、ド=ゴールを支持するPCFやクロワ・ド=フーのミリスによっても行われ、フランス民兵団の設置という出来事は早速ド=ゴール体制を支持するか見極める試金石となった。少なからぬ犠牲者を出しつつも、ミリスによる横暴はほとんどなくなり、街頭に秩序が戻ってきた。
 経済に関しては破滅的な状況にあった。1920年代にアメリカからの投資で復活したフランス経済は、アメリカ発の世界恐慌で完膚なきまで叩きのめされた。中央銀行のフランス銀行は財政支出に反対し、銀行家や政治家などには古典経済学を信奉する者が多かったため、機動的な景気対策を取ることができなかった。失業者は100万人を超えていた。
 ド=ゴールによるクーデターで公安委員会が停止し古典経済学派の政治家の身動きが取れなくなったことは、古典経済学に反対する「新社会主義者」と呼ばれるものにとっては好機にほかならなかった。フランス人民党(PPF)やフランス国民連合(RNP)、共和サンディカリスト党(PRS)などの政治家はクーデター直後に連名で緊急景気対策を提言し、そのなかのリーダー的存在だったジョルジュ・ヴァロワとアンリ・ド=マンが革命防衛委員会委員に任命された。クーデター直後の半年間でいくつもの「コミューン経済に関する緊急命令」がなされた。初期の緊急経済政策は以下の三つに集約できる。すなわち、「信用の国有化」ことフランス銀行の委員会管理下への移管、大規模公共事業の実施、そして「経済の組織化」である。
 中央銀行であるフランス銀行は完全に民営で、国家ではなくパリの銀行家に支配されていた。そのためコミューン政府とフランス銀行は度々対立し、フランス銀行が反対する大規模な景気対策は実施できなかった。フランス銀行国有化に関してはレピュブリカンを除く多くの政治家が支持せざる得なかった。彼らかつてフランス共和国が革命にて滅びたように、飢えた労働者がコミューンを滅ぼすことを恐れていたのである。
 大規模公共投資は革命防衛委員会の下部組織である「緊急経済措置委員会」(委員長:ジョルジュ・ヴァロワ)により具体的計画がなされた。委員会はフランスの経済政策を支配するようになり「計画経済の先駆け」とも後に言われた。ここではマルセル・デア(Marcel Deat)やモーリス・ルヴァラン(Maurice Levillain)、ルイ・ヴァロン(Louis Vallon)などの若く活気あふれる新社会主義者が活躍していた。彼らはやがて「プラニスト(planiste)」と呼ばれるようになった。
 「経済の組織化」とは、経済の徹底的な合理化と中央集権化を意味した。フランスは中小企業が主流で、経済の合理化はコミューン成立以来の課題だった。コミューン国家成立直後にCGTを中心に経済組織化を求める声が上がり、1925年には「国民経済評議会(Conseil national économique)」が設置された。しかしこれは財界の反対により不徹底なものだった。ド=ゴール率いる革命防衛委員会は国民経済評議会を強化する形で経済を組織化した。この措置に対し、CGTは好意的な反応を示し、ド=ゴール側に人的協力を惜しまなかった。1932年12月の命令で全労働組合、経営者組合は国民経済評議会への強制加入がなされ、翌年には労働組合と経営者組合を組合ごとではなく勤務地ごとに分割すべく、評議会の「社会委員会」に強制加盟させた。こうして事実上、労働組合と経営者組合は骨抜きにされた。*1その後、実践的な経済運営は国民経済評議会によりなされるようになった。
 こうした一連の経済措置によりフランス経済は不況の底を脱した。とはいえ失業は完全にはなくならず、世論のド=ゴールへの支持は不安定だった。クーデター直後の熱狂的な世論を目にしたド=ゴールらにとってこれは衝撃的だった。結論から言えば、コミューン国民がド=ゴール体制に対し完全な支持を表明したことはある場面を除きほとんどなかった。その場面とは、フランスのナショナリズム――かつてコミューンの礎となったジャン・ジョレスが反対した――が沸き上がり、ド=ゴールの開戦も辞さない姿勢を評価したときである。ド=ゴール体制は閣僚を含め、大衆の支持を定着させることに苦労し、ド=ゴールに反対する政治家もド=ゴールを下ろそうにもその後の展望が見えないことに絶望していた。「史上初の全体主義政権」*2と呼ばれたド=ゴール体制は、その偉大さの裏にこうした悲観的な雰囲気があったのである。

革命防衛委員会解散まで

 クーデターの後、ド=ゴールは革命防衛委員会への全権委任と公安委員会と労働総取引所の一時停止について国民投票を行い、僅差ではあるが信任を得ることに成功した。これによりクーデター体制が承認され、今までコミューン政府を動かしていた労働総取引所と公安委員会が力を完全に失った。とはいえ、各地方コミューンの議会(地域労働取引所、県労働取引所、職場サンディカ)は稼働し続け、選挙も行われた。しかしド=ゴールは大衆政党を用意することができなかったため、選挙においてド=ゴールに対するOui/Nonを測るのは難しかった。
 国民投票後の1933年に「行政機能整理のための命令」により国民経済評議会と労働取引所の役割が整理された。今までは地方の労働取引所が経済運営と福祉、一般行政を担っていたが、経済運営に関しては国民経済評議会傘下の社会委員会への移管が決定した。労働取引所はあくまでも取引所議員による自治的な組織だったが、国民経済評議会と社会委員会においては国民経済評議会命令に強制性があった。この命令は、フランスコミューンが初めて経済を完全に支配することに成功したという点について意義深いものだった。
 1934年には国民経済評議会の下に「五ヵ年計画」が始まった。経済計画は既にドナウをはじめとする一部国々に見られていたが、フランスの五ヵ年計画の特徴は細密であることが特徴だった。ドナウの第一次四か年計画は一種の「資本投下計画」だったが、五ヵ年計画は重工業産業と軍需産業の発展と並行し、消費財産業を少しずつ削っていく過程の詳細が記されていた。フランスから始まったこうした経済方式は「計画経済」と呼ばれ、資本主義とその不況に対する処方箋と見なされた。計画経済はドナウ連邦やウクライナ、ロシア、アメリカ・サンディカリスト政権などでも取り入れられていった。
 ド=ゴールの出身母体はフランス人民軍だったが、人民軍はクーデターにおいて最も利益を享受した。当時独仏平和条約である「ルクセンブルク条約」でフランスは軍備制限がかけられており、空軍と戦車は保有を禁じられていた。ド=ゴールは軍備拡張を求める人民軍の意思に応え、軍備拡張の隠匿を全面支援した。この他にも、人民軍幹部をクーデター体制の責任者に任命し、軍の影響力を伸ばした。とはいえ経済分野においては官僚とプラニストに委任され、軍の出る幕はなかった。また、フランス民兵団を軍の予備部隊として教育し強化した。これは旧各ミリスへの帰属意識を解体し、フランスへ忠誠を誓わせる意図があった。
 クーデター直後の1933年には警察機構が改革され、地方自治体の警察が内務省の指揮下に入った。同時に諜報機関や政治警察が整理され、シャルル・ド=ゴールを初代委員長とする「国家保安委員会」が発足し、内務省の防諜部門や通称「参謀第二局」と呼ばれる軍の情報機関も統合された*3。後に「ジャンダルムリ」と呼ばれる国家憲兵の一部部隊を指揮下に置き、ド=ゴール体制はより盤石なものになった。ちなみに、国家保安委員会はWW2においてドイツ帝国軍の情報将校ハンス=ティロ・シュミットを買収しドイツ軍の新型暗号「エニグマ」を解読するという戦果をもたらした。

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エニグマ解読を指揮しWW2では国家保安委員会第二局長として諜報戦を行ったルイ・リヴェ准将(当時)。1946年にレジオンドヌールを受章。

 国家保安委員会は政治警察から国境警察、防諜、産業スパイまであらゆる任務をこなし、しばしばドナウ連邦の連邦保安省と比較された。連邦保安省と異なる点としては、人民軍出身のメンバーが多いこと、連邦保安省のような囚人経済は担当しなかったこと、特に戦時におけるミリス部隊の秩序を守る憲兵として機能した点がある。
 ド=ゴールは経済分野で社会主義者を登用する一方で、思想面においてはクロワ・ド=フーやカトリックを登用した。ド=ゴールが敬虔なカトリックであったことも理由の一つだが、フランスにおいてはカトリックが近代化の弊害に対する反動としての立ち位置を有しており、ド=ゴール体制がある種の「革命」であることもその理由であろう。カトリックの立場から中絶手術が禁止され、パリには初めてバチカン大使館が設置された。
 1932年の7月20日革命の前後で最も特徴的だった変化は「対独復讐」が事実上の国是として採用されたことである。フランスはWW1で敗北し、多額の賠償金を課せられた。当時の混乱で誕生した国家がフランスコミューンである。ド=ゴール体制の革命的な哲学は、フランスコミューンの失政で生まれた体制でありながらコミューンを攻撃せず、ドイツを攻撃したという点が目立った。1933年には革命防衛委員会の下に「情報委員会」が設立され、報道管制とプロパガンダが開始された。ドイツに対する憎悪と復讐心はプロパガンダをもって煽られた。WW2のドイツにおけるフランス軍による蛮行と対独復讐プロパガンダは無関係ではない。これらド=ゴール体制における哲学の詳細については別の機械で述べる。

憲法復帰と労働総取引所選挙

 
 クーデター三周年の1935年7月にド=ゴールは「憲法復帰」を宣言し、労働総取引所の総選挙を行った。ド=ゴールはもちろん憲法復帰を機に退く意思はなかったが、ドナウにおけるドナウ社会主義労農党のようなド=ゴール体制を直接支える政党はなかった。そのため、ド=ゴールは既存政党の若手政治家に閣僚ポストの「」

*1:CGTといった政権に好意的な労働組合連合は形式上存続し、選挙にも立候補できた。しかし実際の経済上の力はほとんど失ったと言える。

*2:ムッソリーニファシズム政権を「史上初の全体主義政権」とする場合がある。

*3:参謀第二局はWW1の際にドイツ軍の暗号を解読したという輝かしい戦歴を持ち人気があった。そのため国家保安委員会に統合された際「国家保安委員会第二局」という名を与えられた。