Historia Donaufederaiha

民族、言語、国境。

ホライ・ルーリンツから見るドナウ社会主義(更新中)

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ホライ・ルーリンツ(1889-1960)ドナウの「イデオロギー王」。

ホライ・ルーリンツという人物

 ホライ・ルーリンツはドナウ連邦における代表的な理論家である。武力が物を言い、国民衛兵隊や連邦軍、連邦保安省といった制服組が大きな権力を有していたドナウ連邦において、ホライは制服を着ていない数少ない幹部だった。それにもかかわらず、制服組はホライを抑えられなかったばかりか、ときにホライは制服組を凌駕して国政に影響を与えてきた。
 また、ホライが残した影響は政治の場にとどまらない、ホライはドナウィズム理論家としてドナウ社会主義労農党の掲げる思想である「ドナウ社会主義」を構築し、実践していった。つまり、ドナウのイデオロギーを知るにはホライを知らねばならないということである。

生い立ち

 1889年、ホライ・ルーリンツオーストリアハンガリー二重帝国のトランシルヴァニアの一都市ナジヴァーラドに「ホライ・ラヨシュ」て生まれた。すなわち「ルーリンツ」とは偽名である。しかしながらホライはオーストリア革命でルーリンツを名乗り、ドナウ連邦建国後はルーリンツに改名している。
 ナジヴァーラドを含むトランシルヴァニアではハンガリー人とルーマニア人が混住していた。ハンガリー人は地方官吏を独占していたがルーマニア人は貧しい土地に住み、両民族の仲は良くなかった。同じくトランシルヴァニア出身の政治家クン・ベーラはルーマニア人を終始嫌っていたが、この点はホライも同様である。というのもドナウ社会主義労農党においてルーマニア人の幹部は一人もいなかったのだ。
 ラヨシュは宗教的少数派であるプロテスタントの家系であり、父はそこそこ豊かな商人だった。ラヨシュは3人兄弟の次男だったが、兄弟のなかで抜群に成績が良かったのはラヨシュであり、ただラヨシュのみ大学に進学した。

ブダペスト時代

 中央最大の都市ブダペストに上京し、弁護士になるべく1912年に王立大学に入学した。当時王立大学では法学者ピクレル・ジュラの罷免をめぐり学生の間で抗議運動が起こり、学生運動団体「ガリレイサークル」が結成されていた。ガリレイサークルは科学主義、進歩主義を信じる新興知識人の集まる場でもあった。経済学者ポラーニ・カーロイや後のドナウ連邦文部大臣ルカーチ・ジェルジ、オーストリア革命で民族問題を処理したヤーシ・オスカル、後にドナウ連邦から国外追放されるマンハイム・カーロイなどの大物が揃っていたが、ホライが入学したころちょうど彼らは卒業してしまったころだった。とはいえ、ホライはガリレイサークルにて確かに世紀末ブダペストモダニズムに触れることができたのは確かである。
 ホライが入学したころの学友に、同じくガリレイサークル所属のアレクシス・ローゼッカ(ロゼッゲル・アレクシス)がいた。ローゼッカは言うまでもなく後のドナウ連邦大統領であるが、ホライとローゼッカの出会いはここから始まった。
 ホライもローゼッカも他の学生と同じようにカール・マルクスを読み、「ハンガリーのジョルジュ・ソレル」ことサンディカリストであるサボー・エルヴィン教授の講義を受けた。しかしインテリではあったが田舎出身の彼らにとって、世紀末ブダペストを前にしてやや気遅れ気味だったという。科学主義的教養を身に着けたホライだが、一方でそれを熱心に信奉しているわけでもなかった。ホライは友人との談笑の中でこのような皮肉めいたことを言った――「我々自身を解放し共産主義を成し遂げようにも、我々は財産しか平等に分配できないではないか。女をひきつけるブロンドの髪や美しい骨格や血統などは分けることも変えることもできない」。ホライは女性にモテず、むしろブダペストの高飛車なブルジョワからは田舎出身の陰気なインテリと見なされていた。こうしたせいかホライは放蕩から無縁で、オーストリア革命直後の1920年トランシルヴァニアの田舎娘と結婚した。
 1913年の夏休みはローゼッカとともにローゼッカの故郷であるウングヴァールに滞在した。ローゼッカの家族はウングヴァール市に住居を置く小地主だったので、ホライはそこで農作業を手伝うことができた。このように、ホライは徐々に都市から農村へ回帰していったが、これは後のドナウィズムという思想の変遷と似ている。ホライは自身についてあまり多くを語らなかったため彼の内面を断ずるのは難しいが、少なくともこの頃には既に農本主義的傾向があったと言えよう。

オーストリア革命

 WW1が勃発するとホライとローゼッカは志願し1915年に東部戦線へ送られた。ホライは同年末に負傷し本国へ後送され、オーストリア革命まで物資配給をつかさどる部局に勤めることとなった。当時二重帝国では戦争疲労により反戦運動が起きており、ガリレイサークル出身者も反戦運動を指導していた。ホライはガリレイサークルの伝手を借り彼らと連絡を取っていた。短い前線経験は農本主義と同様に、科学主義とは異なる選択肢をホライに見せた。単調な役所労働をするなか前線と農作業の経験を思い出し憧れていた。
 1918年1月、オーストリア革命が勃発しホライは仕事を放ってデモに出かけた。それ以来ホライは違法な地下反戦活動に参加するようになった。同年末、ハンガリー共産党に入党した。
 1919年2月にはブダペストでアレクシス・ローゼッカと再会した。ローゼッカは臨時政府軍に参加していたが、負傷しハンガリーでの特務に従事していた。このときホライはローゼッカを介し、当時はツィスライテニエンでのみ活動していた政党「ドナウ社会主義労農党」に入党した。この頃共産党とドナウ社会主義労農党に二重所属していたことになるが、当時としては珍しくない。
 5月にホライは逮捕され、収容所に抑留された。ホライはここで地下共産党指導者のクン・ベーラとしばらく過ごしていた。この頃のホライは再び科学主義、つまりマルクス主義に希望を見出し、精力的に共産主義革命へ向けた工作活動をしていた。同じくトランシルヴァニア出身のクンと意気投合していたという。8月にドイツが支援する反革命的なハンガリー王国政府が崩壊すると釈放され、ホライは直後に共産党社会民主党などにより構成される左派臨時政府に参加した。
 1920年にはドナウ連邦が成立した。革命騒ぎが落ち着き始めるなか、ホライは故郷ナジヴァーラドに戻ると荒廃した農村を目にした。この体験はホライ自身にとって衝撃的だったらしい。マルクス主義農本主義の間を揺れ動いていたホライだがこの頃からマルクス主義から離れ始めていった。こうした傾向はホライのみならず同時代のマルクス主義者によく見られた。ドナウ連邦が成立し構成国となったハンガリーを支配することになったのは、地下共産党社会民主党が合併した「合同共産党(正式名称:社会党)」だったが、マルクス主義が約束した高らかな理想は何一つ成し遂げられず、失業と飢餓は去らなかった。それどころか革命的だったクン・ベーラは次第に労働組合に癒着し始め、土地改革も不徹底に終わった。ホライが感じたマルクス主義に対する失望は、当時のハンガリー人が感じていたものと変わらなかった。とはいえ二重帝国を復活させ時計の針を戻すわけにもいかず、ホライ曰く「浮遊したる不安」に漂っていた。
 同年ハンガリー人の田舎娘であるフェルディ・カタリン(Földi Katalin)と結婚し、1921年に娘が誕生した。

『労農兵』編集委員として

 ローゼッカが所属していたドナウ社会主義労農党は1921年に機関紙『労農兵』を設立し、ホライは編集委員の一人となった。『労農兵』はその名前の通り幅広い層を購読者とするドナウ社会主義労農党の顔だったが、ホライがその編集委員に抜擢されたのはローゼッカの口利きにほかならない。設立当初は他とは大差ない編集委員の一人に過ぎなかったが、アレクシス・ローゼッカがそのカリスマから次第に支持を獲得し、党内闘争に勝ち進むにつれて、ホライにも権威が集まっていった。
 同年、内戦終盤のロシアへ派遣され前線を取材した。ホライとってはドイツ軍も赤軍も支持していなかったが、とりわけ赤軍における「目的のために団結し貫徹する精神」は大いに感銘を受けた。
 「浮遊したる不安」にあったホライだったが次第に仕事が板につき、特にイデオロギー研究にのめりこんでいった。同年にルカーチ・ジェルジが『歴史と階級意識』を出版し、ドナウ連邦でマルクス主義批判*1ブームが到来した。また1920年代のドナウでは「ドナウィズム」という連邦制擁護思想が左派を中心に流行しており、ホライは元マルクス主義者としてこの流行に与した。

「ドナウ社会主義」の初出

 ドナウ社会主義とは後にドナウ社会主義労農党が掲げることとなるイデオロギーを指す。このドナウ社会主義の基礎を築いたのはホライ・ルーリンツらローゼッカ派理論家だった*2
 1921年に『労農兵』において「インターナショナルではなくナショナルな、ドイツ的ではなくドナウ的な社会主義、すなわち〈ドナウ社会主義〉」を訴え、ドナウ社会主義労農党左派の公式路線としてプレスブルク党大会で『プレスブルク綱領』をもって認められた。これらがドナウ社会主義の初出である。
 『プレスブルク綱領』では反地域主義、反資本主義、反民族不平等、反地方分権、反貧困、反労働組合、反地主制、反無秩序を要求した。プレスブルク綱領にはローゼッカやホライ、ドナウ=フランス友好協会に務めドナウにソレリアニズムを伝えたイレーシュ・アルトゥル(Illés Artur)などが関わっていた。『プレスブルク綱領』で定義されたドナウ社会主義はマルクス主義とも民族分離主義*3とも異なる第三の道を示し、ハンガリーでは合同共産党主流派が迷走し始めた1924年から党員がドナウ社会主義労農党左派に移っていった。そうした党員のうちドナウ社会主義の理論家になる者も少なくなかった。有名な例はルダシュ・ラースロー(Rudas László)である。
 『プレスブルク綱領』で示されている通り、ドナウ社会主義労農党はこのときから既に「何事にも反骨する」という反動政党として固まりつつあった。反動政党は普段こそ単なる一野党だが、既存秩序に対する信頼が著しく損なわれた際に最も支持される存在である。事実、ドナウ社会主義労農党は1920年代末から1930年代初頭におけるドナウ連邦への絶望と不信に乗じ、憲法改正を行いその国名以外の全てを変えたのだった。
 しかし、すべてを否定した後に何を建設するのか――という点については様々な青写真があった。ドナウ社会主義労農党は各地域、各階級から様々な党員がいたが、政治的青写真の数々はそれを支持した党員の出身地域、階級から分類することができる。ここでは詳細を割愛するが、オーストリア革命で対伊戦線に参加したドナウ連邦オーストリア共和国の党員はアドルフ・ヒトラー率いる党内右派を、ハンガリー王国の打倒に参加したドナウ連邦ハンガリー共和国の党員はアレクシス・ローゼッカ率いる党内左派を結成した。どちらも掲げた政策は似たり寄ったりだが、最大の違いを述べるとすれば、右派はヒトラーを崇め「ドナウ連邦国民」の創出にさえ反発し、左派はローゼッカを崇め「ドナウ連邦国民」の創出には賛成した、ということである。分裂初期において、これ以外の両派の違いは掲げた政策よりも、これを構成する党員の階級的、地域的対立の点のほうが大きい。
 ともあれ、ホライ・ルーリンツは党内左派の主体的理論家であり、1933年の権力掌握後における新秩序建設における理論的功績の多くは彼にあるといっていい。『プレスブルク綱領』はこうしたホライのデビュー作であった。

ドナウ語運動

 ドナウ語とは後にドナウ連邦の公用語となる人工言語で、ゲルマン、スラブ、マジャールの文法と語彙を相互に妥協させたものだった。もともと言語学のこじんまりとした実験的事業だったドナウ語は、ドナウィズム運動において国民統合の象徴として左派知識人に注目され、ホライも『労農兵』でドナウ語運動を推し進めた。
 ローゼッカとホライが所属するドナウ社会主義労農党左派はドナウ科学アカデミーにドナウィストを送り込みドナウ語文法を整理し、1928年には公用語級の扱いを受けることとなった。なお正式にドナウ語が公用語となったのは1933年の憲法改正の際である。
 しかしホライ自身が志向する先である労働者や農民、兵士などにとってドナウ語は熱狂的に受け止められることはなかった。むしろドナウ語は不人気であり、ドナウ連邦各都市のインテリやとりわけブダペストマルクス主義者により推し進められた。しかし、1933年の政権獲得後はローゼッカの個人的権威によりドナウ語が浸透していった。

イデオロギー指導者として

 1928年にはじめてドナウ社会主義労農党が国政の連立内閣に入閣すると、ホライ・ルーリンツは党左派指導者ローゼッカにより「イデオロギー指導者」に任命された。この人事は党内左派を完全にローゼッカに従えるべくローゼッカに近いホライをもって理論面で援護するだけでなく、国政参加において連立相手を説得し取り込むための手立てでもあった。
 ドナウ党が参加した「左派連立内閣」では、主に社会民主党系や共産党系の政党が参加していた。当時特にハンガリーの合同共産党では党主流派のクン・ベーラが保守化し、オーストリア革命で重視していた自律的な労働者組織ではなく企業に癒着している労働組合を重視し始め、さらに農地改革に失敗し地主が温存されたことに対する不満により党内反対派が形成されていた。ホライは労働組合という既存秩序を批判し、反動することで彼らを分離させ、ドナウ社会主義労農党へ取り込むことに成功した。合同共産党からドナウ社会主義労農党への移動は1924年の時点で既に確認されていたが、1928年からはより激化した。もともとドナウ社会主義労農党左派と合同共産党は支持層が重なっていたこともあり*4、これは実質的な党と支持者の吸収合併だった。
 ホライ・ルーリンツは党イデオロギー指導者の地位を利用し党内に「ホライ事務所」と呼ばれる組織を設け、党内の理論家を集めていた。彼らは「ホライ・サークル」と呼ばれ、1933年の権力掌握後は強力な権限を持つ大統領府に参加し、ローゼッカの死後はグロス・エンドレを後任大統領に擁立した。

公団運動

 公団とはホライが参加するドナウ社会主義労農党が権力を掌握した1933年以降に設置された組織形態である。公団の持つ第一の意義は、すべての企業と工場組織を国家と党の管理下に置き最終的に経済統制を実施することである。公団そのものが既存の企業組織より優れているわけではなく、あくまで党、国家、財界の複雑な関係を整理するためのものだった。しかし政治的なパワーで経済を支配し管理するという発想は、社会民主党の生産協同組合が既存経済を補完するようにして作られていたように、ドナウ社会主義労農党やホライに限らず様々な政党に見られたことである。そのため、公団化は大した反発もなくスムーズに行われた。
 ホライ・ルーリンツは公団化政策の具体的な内容を策定したほか、自身が大統領府公団化委員会の委員長に就任し徹底的な公団化を行った。大統領府は1933年の憲法改正の際設置された政庁で、ローゼッカ大統領の庇護の下に既存省庁を超える強力な権限が与えられていた。公団化政策にてホライは例外なく企業組織を公団化しつつ、シュコダやMAVAGなどの大企業経営者らと調整し企業合併などの整理を行った。公団化委員会を通じホライは理論面だけでなく実務面での経験を積んでいった。
 1936年頃には公団化が完成し、付加価値を生む生産組織はすべて公団化、公団同盟に加盟し経済計画局の指揮下に入り、それ以外はドナウ〇〇同盟といった職業同盟に参加し党の指揮を直接受けるようになった。「公団化とは、ドナウにおけるあらゆる組織の解体であり党に従属させるためのアトム化だった」とはハンナ・アーレントの言葉である。

他の政権幹部との関係

 ホライの占めていた政権における特殊な地位は当然他の幹部との軋轢をもたらした。まず同じ理論家であるルカーチ・ジェルジは一時『労農兵』編集委員だったが、ホライとの論争によりこれを一時退いた。ルカーチは1928年に連邦内閣で文部大臣を務めていた人物である。その後のルカーチは政治的理論ではなく文芸批評に身を寄せていった。
 ルカーチがホライとの対立にも関わらず完全失脚しなかったのは、ルカーチは王立大学の「ガリレイサークル」出身であり、ローゼッカはこの団体出身者を優遇していたこと、1933年より宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスルカーチを庇護したということが主な理由である。1933年よりルカーチは『労農兵』編集委員に復帰し、文芸・文化紙面を担当するようになった。いっぽう、ホライはルカーチ復帰以降もローゼッカにルカーチの悪評を述べ、ルカーチ下ろしを試みていたようである。
 ルカーチの経緯からホライはゲッベルスと対立していた。とはいえゲッベルスを全否定していたわけではなく、特に宣伝省芸術「ロマン主義リアリズム」は公言こそせずとも気に入っていた。またゲッベルスとホライは、連邦保安省や国民衛兵隊、連邦軍を相手にしばしば共同歩調を取った。ドナウ連邦では徐々に連邦保安省、国民衛兵隊、連邦軍といった武官組織が力を持つようになったが、ホライやゲッベルスは武器を持たずに政権幹部に立っていた数少ない人物だったからである。

民族問題

 民族問題に関して、ホライは典型的なドナウィストだった。文化自治とドナウ語の公用語化を肝要とし、ドナウ連邦建国直後の「関税問題」*5においては関税撤廃派に立った。
 ホライは中枢に立つ理論家だったことから、市井の少数民族運動にはあまり関心がなかった。例えばチェコスロバキア共和国では少数派のハンガリー人運動があり、憲法改正後の地方自治制度再編において大きな影響を与えたが、ホライは政権獲得のために彼らを擁護することはあっても理論的に支援することはなかった。これに関しては都会的、ブルジョワ的な一面であるといえる。
 ドナウ連邦における特定の民族による運動には冷淡だったが、特定の民族に対する運動は積極的だった。トランシルヴァニアにおけるルーマニア人弾圧はその好例である。ルーマニアとドナウ連邦は激しく対立していたが、WW2直前に軍事的恫喝によりトランシルヴァニアを割譲させた。この際、正教徒ルーマニア人のほとんどは連邦保安省により拘束され、強制収容所に送られた。こうして生まれた土地の空白を世界恐慌で没落した貧窮農民が植民していった。この一連の「浄化作戦」に直接かかわったのはルダシュ・ラースロー(Rudas László 1885-1950)をはじめとする連邦保安省の理論家たちだった。とはいえ、ホライは植民による農民救済と「敵のスパイ」の一掃を主張しており、決して無関係ではないと言える。ホライによる植民理論に関しては別項で述べる。
 ホライの民族観とドイツのフェルキシズムの関連を指摘する声は数多い。フェルキシズムとはドイツの反近代化運動と汎ドイツ同盟を構成する思想の一つであり、その特徴は「人種→民族(volk)→文化→国家」という世界観にあった。事実、ヘルマン・フォン・ゲーリング率いる汎ドイツ同盟は「アーリア人種の優秀性」を唱え植民を奨励していた。フェルキシズムを積極的に受け入れていたのは対立勢力であるドナウ社会主義労農党右派(指導者:アドルフ・ヒトラー)だったが、ホライはフェルキシズムをそのままではなくよく反芻して受け入れた。
 ホライが諸民族の集合体であるドナウ連邦を盤石なものとするために、フェルキシズムを改変しつつ援用した。ホライは『ドナウ文明』(1930年)において、フェルキシズムの「人種→民族(volk)→文化→国家」を「国家(=指導者)→文化→民族→人種(=文明)」とした。指導者とはアレクシス・ローゼッカである。一見近代思想に対する反動たるフェルキシズムをさらに反動し、元の近代思想に戻したようであるがそういうわけではない。ホライの世界観で特徴的であるのは「国家(=指導者)」と「人種(=文明)」の重視である。ホライは国家を本来は統率能力が不十分であるとしたが、絶対的な指導者とそれを顕揚する人民組織(公団)の下では最大的効果を発揮するとした。こうした指導者の下で初めて国家は統一され、多種多様な文化や民族はこれを超越する形で統一されていく。これらの最終形態は統一された一つの文明の出現であり、ホライはこれを「ドナウ文明」と呼び、その構成者を「ドナウ人種」とした。かつてマルクスヘーゲルを逆立ちさせたように、ホライはフェルキシズムを逆立ちさせたといえる。こうした思想はドナウ社会主義の核心的価値観として、ローゼッカによる国家再建に大きな影響を与えた。とはいえ、フェルキシズム本流と真っ向から対立する思想であるため、汎ドイツ同盟とホライの仲はあまりよくなかった。
 ペーター・ドルッカーは『ドナウ文明』について、諸民族の統一と超越する民族創出というあまりにも分不相応な大役を国家に任せつつ、その矛盾をローゼッカの権威を据えることで打ち消している、と指摘し、全体主義思想の一種と述べた。

植民・外交政策

 連邦保安省と対立していたホライが唯一彼らと一致していた点は植民政策だった。『ドナウ文明』ではドナウ文明の最もな発露として前線の勇敢さや植民における強かさを述べていたが、1930年代末にはより具体的な植民構想がまとまっており、WW2では実際にトランシルヴァニアとヴォイヴォディナ、バナトに植民が行われドナウ文明への加入を拒否された民族であるセルビア人とルーマニア人は抹殺された。
 ホライは戦後構想について誰よりも早く研究をまとめ上げた。ホライが打ち出した最終的な結論とは、ドナウ連邦によるヨーロッパ外の開拓だった。ホライはヨーロッパの過剰人口について指摘し、開拓地を設けて薄く広く植民すること、貧民を開拓地に送り指導的立場を与え階級対立を緩和すること*6が戦後ドナウが確固たる地位を保つにつながると述べた。ホライは開拓先として中東、アナトリア半島北アフリカエチオピア、東アフリカなどを列挙したが、ここに全て植民が実行されたわけではなく、実際の政治情勢に制約された。とはいえ、一部地域(アナトリアリビア、東アフリカ、マダガスカル)で植民が実施された。
 一方ヘルマン・ノイバッハーによる「ヨーロッパ連盟構想」には賛成していない。
 ホライはドナウ党随一のイタリア贔屓として知られた。ドナウとイタリアは度々対立していたことから、ドナウ党内のイタリア派は少数であり、「ド伊同盟」は成立しなかった。ホライが好んだのは1920年代のファシズム政権を支えた左派理論家らで、ムッソリーニ個人を好んでいたローゼッカとはまた異なっていた。ホライとローゼッカによるイタリアとの縁は、戦後秩序構築におけるイタリア優遇政策につながった。

戦間期時代のプライベート

 カタリンと結婚したホライだが、子供は娘のナディア(Nadia, 1922~2010)のみだった。ナディアは政治の道へは進まずWW2後に児童文学作家となった他、晩年にアレクシス・ローゼッカ大統領のプライベートを暴露した回顧録を出版した。というのも、ホライ家はホライとローゼッカの個人的友情からローゼッカのプライベートを見ることができる限られた人々だったからである*7。ローゼッカはオーストリア革命直後に結婚した妻と早くに死別し、一時期生活が酷く荒んでいたが、ホライは友人としてローゼッカを見捨てることはなかった。このためホライはローゼッカの篤い信頼を獲得し、いつでも直言できる立場を獲得した。これはホライの政治的キャリア上でも、ローゼッカの精神衛生上でも良好な影響を与えたといっていいだろう。
 ホライ自身はその政治的傾向と農本主義者で田舎臭いインテリのヘビースモーカーであることを除き、ローゼッカとの共通点はあまりなかった。ホライは酒を健康のために控えていたが、ローゼッカは新妻を失ってから酒に入り浸っていた。後世の歴史家は口をそろえて「当局は認めたくないだろうが、ローゼッカの健康状態は最悪だった。間違いなくアルコール依存症だった」と述べている。ホライは性愛そのものに興味をなくしていたが、ローゼッカは一時期ドナウ各地の女性を抱いていた*8。そして何より最大の違いは、ホライには家族がおりローゼッカにはいなかった、という点である。
 ローゼッカはもともと父子家庭だったので母性的な愛情に飢えていたが、ホライには家庭があることを羨ましがっていた、とホライ・ナディアは述べている。その一方で、ホライ・ルーリンツ本人は家庭を深く顧みていたとは決して言えなかった。ホライは党の仕事に熱中し、娘であるナディアの将来についても関心をほとんど抱かなかった。なかなか家に帰らず、せかっく帰宅しても読書や理論研究などに没頭していた。こうしたことから、カタリンは1942年にホライと離婚したのだ。しかしローゼッカとは対照的に、ホライは家庭への興味を失っても、そして離婚をしてもローゼッカのような醜聞が立たなかった。ホライの仕事熱心がいかに異常であったかを語るエピソードである。
 ホライによる一日の読書冊数はだいたい5,6冊とされている。党の「ホライ・ルーリンツ事務所」にはホライの読書専用の部署があり、膨大なコレクションとメモが残されていた*9

戦後

 ドナウ連邦はWW2に勝利したが、ローゼッカは日頃のストレスに体を蝕まれほとんど公に姿を現さなくなった。一方、旧来の党勢力に対し台頭してきたのが国民衛兵隊、連邦保安省、連邦軍という武官勢力だった。彼らは植民事業の実務を担当することで私腹を肥やし、特に連邦保安省は「保安省閥」を結成し次期大統領の座を狙っていた。
 ローゼッカに近いホライは身の危険を感じ、普段は対立することもあったゲオルク・リートミュラー首相と同盟し古参党勢力の結集を図った。幸い武官勢力はローゼッカに直接接触することができなかったので、ホライは上手くローゼッカに吹き込み、ホライと近いローゼッカ派であるグロス・エンドレを次期大統領にするという確約を取り付けることに成功した。
 ついに1948年、アレクシス・ローゼッカ大統領は死去し、間髪入れずにリートミュラーがローゼッカの「遺言」を発表し、グロスを大統領に担ぎ上げた。こうして、ホライはもとの役職にとどまることができたが、グロスはローゼッカほどの指導力もなく、連邦そのものがあまりにも巨大化し特に連邦保安省の横暴を次第に認めざるえなくなっていった。それとともに、ホライの影響力も減少していった。
 グロス・エンドレ政権時代に伸長したのがドイツ由来のフェルキシズムに影響を受けたグループだった。フェルキシズムはかつてホライも需要・解釈していき上手くドナウ社会主義に当てはめたが、そのグループはホライによる解釈前のフェルキシズムをドイツで学んでいた。具体的には人種主義や反ユダヤ主義、汎欧州主義などである。これはホライの影響力の低下を如実に示していた。
 グロスは1949年の憲法改正で大統領への権力集中を緩める形で譲歩し、保安省閥の入閣を許した。ホライは最終的に巻き返しを成功させることもできず、1956年に辞職し「ウィーン哲学研究所」に移籍した。ちょうど古参グループが摘発、逮捕されている時期だった。

*1:ここでは「再解釈」という意味。

*2:ドナウ社会主義労農党という党名の由来はドナウ社会主義ではない。ドナウ党の党名はもともとオーストリア革命時代に「ドイツ国社会主義労働者党」と「ドナウ人民労農党」が合併して生まれたものである。

*3:とりわけオーストリアや北ボヘミアで活動していた、ドイツへの併合さえ厭わないドイツ民族主義とそれを擁護するドナウ社会主義労農党右派(ヒトラー派)はホライにとって目の敵だった。

*4:どちらもハンガリー共和国が政治的地盤であるため、共和国議会選挙では合同共産党が立候補名簿を独占し、連邦議会選挙ではハンガリー共和国内の選挙区においてドナウ党左派と合同共産党が3:1の比率で名簿を分けていた。この比率は選挙のたびに微妙に変化していた。ハンガリー共和国外の選挙区ではドナウ党左派が立候補し合同共産党は立候補しないという協定もあった。

*5:旧二重帝国時代に存在したハンガリーオーストリアチェコ間に設定されていた関税を、ドナウ連邦建国後に撤廃するか否かという論争。ホライを含むマルクス主義者の多くが撤廃派に立ったのは、「民族主義的民主主義」(=連邦主義)は一つの統一された経済圏で育つというマルクス主義における命題を支持したからである。

*6:ホライは階級という概念を完全には捨てなかった。階級を認めたうえで、階級と階級闘争をできるだけ廃止していくことが肝要で、そのためには人民を組織化し何らかの役割を与え、また人民を煽動し「ドナウの敵」と闘争する――これがホライの持論だった。ジョルジュ・ソレルの影響があることは言うまでもない。

*7:ローゼッカのプライベートを知る男性は限られる。ホライのほかにはゲオルク・リートミュラーが有名で、ローゼッカの死の間際に後任大統領に指名されたグロス・エンドレはローゼッカの別荘に出入りできた数少ない人物の一人だった。一方ローゼッカを知る女性は数多い。これは妻を亡くし一時期自暴自棄になったローゼッカがドナウ中の夫人を漁ったからだった。しかしどの女性関係も長続きせず、政権獲得後はそれ自体もなくなった。

*8:1930年代、ハンガリーにおいては路上の孤児を「ローゼッカの落とし子」と呼んでいたらしい。またローゼッカは梅毒に罹っていたのではないかという説もある。

*9:現在はドナウ連邦公文書館、ウィーン哲学研究所にて保存