ドナウ連邦の連邦保安省(更新中)

歴史

前史

 詳しくは「ドナウ連邦の国民衛兵隊」を参照。
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 オーストリア革命を経てドナウ連邦が成立したが、当初の体制は地方分権的なものだった。これは警察権力においても同様で、オーストリアチェコスロバキアハンガリー各共和国警察が最も規模が大きく、連邦政府内務省にある連邦警察と連邦保安隊のうち前者は各共和国警察を形式上まとめるこじんまりとした組織だった。一方連邦保安隊は旧オーストリア・ハンガリー帝国における憲兵(ジェンダルメ)を引き継いだものだった。
 1928年にドナウ社会主義労農党左派が入閣すると、直接閣僚にはならず党トップとして「院政」をしていたアレクシス・ローゼッカは早速警察権力の掌握を始めた。内務大臣に党幹部のヨーゼフ・レオポルド、内務次官にヘルマン・ノイバッハーが任命されたが、実際に直接連邦警察と連邦保安隊に向かい合うことになったのは国民衛兵隊幹部であり警察出身のルドヴィーク・ボルスキーだった。レオポルドもノイバッハーも警察の扱いは苦手だったようである。
 ボルスキーの下に連邦警察は拡充され連邦警察職員らの支持を獲得すると、1930年に政治警察部門「連邦政治警察」が新設された。当時各共和国にも政治警察があり、ドナウ社会主義労農党左派が政権を獲得していない共和国における政治活動のために設置したものだった。後の連邦保安省はこの部門をもとに発展した。同年ボルスキーは退任させられよりローゼッカに忠誠を誓うアルトゥール・ザイス=インクヴァルトが連邦警察・連邦保安隊長官に就任した。連邦警察の下にある連邦政治警察の部長にはザイス=インクヴァルトの部下であるエルンスト・カルテンブルンナーが率いることとなった。
 

誕生

 1933年に憲法改正を経てドナウ連邦が中央集権化されドナウ社会主義労農党の独裁体制が構築されると、旧各共和国警察を統合する必要性が生じた。また当時肥大化していた国民衛兵隊に対しローゼッカが疑念を抱いていたことから、国民衛兵隊と対立すべき新たな組織を必要としていた。こうした背景から同じく1933年に連邦保安省が中央政府に新設され、内務省連邦刑事警察を除くすべての警察権力が連邦保安省に移された。連邦保安隊は「保安戦闘団」と名前を変えて連邦保安省の準軍事組織となった。

組織

大臣:アルトゥール・ザイス=インクヴァルト(1933-)
 大臣官房
次官:
副次官:
第三次官:

会計・法務局
 局長:フリードリヒ・ヴィマー(1933-)
 連邦保安省内部の庶務、会計、法務処理を担当。国民衛兵隊の会計局とは異なり小規模なものだった。

人事局
 局長:
 人事、評価、休暇などを担当。連邦保安省内部向け機関紙『』を発行。

経済局
 局長:マティアス・ラーコシ(ラーコシ・マーチャーシュ)(1933-)
   :ハンス・フィシュベック()
 もとは連邦保安省の運転資金を管理する部局だった。しかし強制収容所での労働によるビジネスに目を付け、各地に強制収容所を建設し管理するようになった。戦時においても捕まえたパルチザンなどを占領地に建設した強制収容所に移送し、莫大な利益を上げた。初代局長のマティアス・ラーコシ(ラーコシ・マーチャーシュとも)は強制労働によって手にした利益でドナウ経済に影響を与え、戦後はドナウ連邦リビア共和国の独裁者となった。

食糧局(1940-)
 局長:アントン・ラインタラー(1940-)
 1933年に大統領府に設立した食糧局を引き継ぎ、戦時における食糧配給を支配した。このほかにも占領地や住民を追放し無人化した地への入植の際における、農業整備を目的とした。具体的にはドナウ社会主義に基づく農本主義的な有機農法世襲農地など徹底が代表的である。

国民創成局
 委員長:オディロ・グロボクニク
 大統領府に存在した「ルーマニア委員会」などの「特定少数民族問題」の「処理」を目的とし大統領府から連邦保安省に移管された。局長のグロボクニクはトランシルヴァニアにおけるルーマニア人の弾圧で名高い。

移住局
 局長:アドルフ・オットー=アイヒマン
 WW2においてドナウ連邦はトランシルヴァニアセルビアなどを占領し、将来の入植を目論んで現地に住むルーマニア人とセルビア人を追放・強制収容した。移住局はこうした地域に対するドナウ国民の移住を推し進めた。はじめは連邦保安省が占領政策を担当したトランシルヴァニアとバナトのみだったが、戦勝によりリビア、キリキア*1、東アフリカがドナウの手中に収められるとこの地域の植民も担当するようになった。植民にあたり現地のインフラ整備や原住民の「処理」などで連邦保安省は活躍した。

在外国民局(1947-)
 局長:
 戦後に設立した部局。植民事業で植民地や海外へ移住したドナウ国民にサービスを提供し、監視する。

第一保安局
 局長:エルンスト・カルテンブルンナー
 国内における秘密警察、防諜などを担当。内務省連邦政治警察を引き継ぐ。連邦保安省のうち最も巨大な部局で、人々の密告を受け付け音もたてずに政治犯を拘束し、裁判なしで強制収容所に送り込んでいたため、ドナウ国民から大変恐れられていた。権限の大きさと組織の巨大さを利用してカルテンブルンナー局長の権力はザイス=インクヴァルトのそれを凌ぐものとなりかけた。そのため常にカルテンブルンナーとザイス=インクヴァルトの主導権争いが起きていた。一応この争いはザイス=インクヴァルトが勝利し、1939年の戦争勃発により治安機関を統括する必要性から「連邦保安・警察司令部」が発足し「連邦保安・警察総司令官」に任命されたアルトゥール・ザイス=インクヴァルトの指揮を受けることとなった。とはいえ1939年以降もカルテンブルンナーの権力は維持された。

第二保安局
 局長:エルンスト・カルテンブルンナー
 国外における諜報活動を担当。

保安戦闘団司令部
 司令:アルトゥール・ザイス=インクヴァルト
 かつてのジェンダルメ(憲兵)である連邦保安隊を改組、強化したもの。既存の旧連邦保安団10個連隊と強制収容所警備にあたる警備連隊*2に加え、徴兵を受けることができない前科者や外国人などの部隊で編成された「保安戦闘隊」の総司令部。平時における訓練や整備などを担当する。作戦時においては連邦軍の命令に従う。保安戦闘隊は連邦保安省の本格的な武力となり、連邦軍と国民衛兵隊に対する牽制としても利用された。とはいえ、保安戦闘団は人的資源がほとんど連邦軍に取られていたこともありWW2の間は主力部隊としての活躍・部隊の拡大はあまりなく、もっぱら占領地における対パルチザン戦闘や虐殺に従事した。保安戦闘団が急拡大するのはWW2終結直後の植民地「開拓」期と、戦後アレクシス・ローゼッカ大統領死去後にウィーンの権力バランスが乱れ連邦保安省そのものが拡大した時期である。
 

*1:オスマン帝国南岸部

*2:最終的に師団にまで拡張される。