ドナウ連邦の国民衛兵隊(更新中)

ドナウ連邦において秘密警察または準軍事組織に当たるものは「連邦保安省」「国民衛兵隊」がありました。この二つは連邦軍とともにドナウ連邦を支配していくこととなります。ここでは国民衛兵隊についてみてみましょう。

国民衛兵隊

 国民衛兵隊(ドナウ語:Nacionalgarda;NG、ドイツ語:Volksgarde)はオーストリア革命に端を発する古い歴史を持つ組織である。その性格は時代により異なるが、ローゼッカの権力掌握に大きな役割を果たした。

歴史

誕生

 1918年1月、オーストリア・ハンガリー帝国にて休戦を求めるデモが勃発し、帝国政府が鎮圧に失敗すると各地に臨時政府が誕生した(オーストリア革命)。各地に駐屯していた銃後の予備軍では秩序が失われ、部隊の分離・独立が活発化していった。国民衛兵隊はそのような分離部隊――後の「フライコール」――の一つであり、同年5月に上オーストリアリンツ市で結成された。国民衛兵隊は政党「ドナウ社会主義労農党」の武力組織と定められた。ドナウ社会主義労農党とは、後にアレクシス・ローゼッカという男とともにドナウ連邦を支配することになる政党である。ドナウ社会主義労農党は「ドイツ国社会主義労働者党」という北ボヘミアの政党がチェコ人の弾圧によりウィーンに逃れ、資金上の理由から無名政党「ドナウ人民労農党」と合併したものだった。いずれにせよ、当時の混乱した政局においては政党とフライコールが乱立していた。このような現象は敗戦後のフランスでも見られた。
 国民衛兵隊は臨時政府支配下のケルンテン地方においてスラブ人ゲリラからドイツ人を守ったり、上・下オーストリアにおける治安維持において活躍し、次第に隊員は増加していった。基盤の弱い臨時政府は各フライコールを束ねた「人民軍(Volkswehr)」を設立し、国民衛兵隊も参加した。1918年秋には分離独立したドイツ傀儡のハンガリー王国と、1919年には再び開戦したイタリアとの戦いに人民軍は投入され、国民衛兵隊はドナウ建国神話の一翼を構成することとなった。ちなみに後の独裁者であるアレクシス・ローゼッカはケルンテンに侵攻したイタリア軍との戦線で国民衛兵隊将校を務め、1919年1月に早くも戦傷して後送された。そこで国民衛兵隊将校ローゼッカはドナウ社会主義労農党党員として党中央に関わるようになり、足場を固めていった。

乱立と内部抗争

 ドイツの支援で独立したハンガリー王国は、国内の不満や軍事作戦の失敗などがあり1919年8月ごろには完全に滅亡した(ハンガリー革命)。崩壊したハンガリーに入城したのは臨時政府の人民軍だったが、ハンガリー王国の滅亡は臨時政府だけでなくハンガリー国内の赤色反政府勢力による努力も大きかった。彼らを構成していたのは、ハンガリー王国への党の協力姿勢に嫌気がさしたハンガリー社会民主党左派、当時ボリシェヴィキが支配していたロシアから帰国した「捕虜社会主義者」、捕虜社会主義者の協力で成立した地下政党であるハンガリー共産党、そして無数の兵士と労働者だった。特に兵士と労働者はタナーチ(ハンガリー語:Tanacs;ソビエトの意)を結成しフライコール化しつつあった。臨時政府の特務としてハンガリーに潜入し反政府運動を支援したアレクシス・ローゼッカらドナウ社会主義労農党員は、彼らタナーチに取り入り同名の国民衛兵隊(Nemzetigárda)を結成した。ローゼッカらはハンガリー共産党と協力関係を結びハンガリーの国民衛兵隊を共産党のフライコールの一つに組み込んだが、ハンガリーの国民衛兵隊は臨時政府のそれとは思想も民族性も異なるものだった。ローゼッカらがこのような行動に出たのは、臨時政府の国民衛兵隊の第一線を外されたことから勢力を巻き返すべく、新規党員・隊員を加入させようとしたからだった。
 一方臨時政府の国民衛兵隊ではドイツ人のアドルフ・ヒトラーという男が名を挙げていた。徴兵を逃れるためオーストリアからバイエルンに逃げていたヒトラーオーストリア革命を「祖国の危機」として駆け付け*1、持ち前の演説の才をもって国民衛兵隊将校・ドナウ社会主義労農党員として名を馳せるようになっていた。またヒトラーはドイツ民族の民族性を強調し、ドナウ連邦という諸民族の連邦には賛成しつつも民族ごとの分離発展と対独友好を望んでいた。臨時政府の国民衛兵隊で活躍していたヒトラーとその派閥は、やがてドナウ社会主義労農党に進出し「ドナウ社会主義労農党右派」として知られるようになる。ドナウ党右派はローゼッカらと対立していた。
 一方ローゼッカらがハンガリーで打ち立てた国民衛兵隊は左派とされ、彼らのうち特にハンガリー革命政府を率いた若く有能なインテリはウィーンのドナウ社会主義労農党に入党し、「ドナウ社会主義労農党左派」を構成していった。左派の中心人物はアレクシス・ローゼッカであり、ヒトラー率いる右派とは政策・思想において著しい対立を抱えることとなる。
 オーストリア革命に伴う戦争(革命戦争)により国民衛兵隊は急拡大したが、その組織は属地的で分散しており、地域ごとに対立していた。国民衛兵隊のみを見ればヒトラーは小オーストリアに、ローゼッカはハンガリーに基盤を持っていた*2。このほかにも枚挙にいとまがないほど多数の派閥が各地に存在し、国民衛兵隊はまとまりを欠いていた。もともとフライコールという点しか共通点を持たず、政治的傾向も統一していなかった。ひとまず国民衛兵隊は地域ごとに司令官を設定し、司令官ごとに隊がまとまる形となっていった。隊員数は革命戦争から時がたち景気が良くなるごとに減少していった。

中央集権化の試み

 1923年、ローゼッカは「国民衛兵隊総司令官」という役職を設けさせ、それにポガーニ・ヨーゼフを充てた。ポガーニはハンガリー革命に参加したハンガリー人で、ドナウ連邦ハンガリー共和国内務次官(治安担当)だった。この人事はハンガリーの国民衛兵隊とハンガリー共和国警察を協力させ、より強化することが目的だったが、当然右派はそれに反発しドナウ社会主義労農党右派が支配する党支部への従属を誓うと宣言した。また、当時ハンガリー共和国内務省にて新設された共和国警察の政治監視部門を「国民衛兵隊調査局」とし、諸所の地方司令官から独立した国民衛兵隊の存在として確立させた。これはハンガリーの国民衛兵隊幹部、ハンガリー共和国閣僚にハンガリー革命関係者が多くを占めていたからこそなせる業だった。
 調査局の初代局長は同じくハンガリー革命で活躍したチェルニー・ヨーゼフが就任した。このチェルニーという男は後に国民衛兵隊の重要人物として出世することとなる。調査局の任務はドナウ社会主義労農党やハンガリー共産党に敵対する政治勢力と国民衛兵隊内部の監視であった。他にも各司令官に依存しない戦力として一時ローゼッカら党幹部の護衛を任されていた時期もあった。
 また1925年にはシャライ・イムレを局長とする憲兵局が、シュガール・ティヴァダルを局長とする会計局が設立された。憲兵局は国民衛兵隊内部の取り締まりと要人警護を、会計局は国民衛兵隊の中央予算を担当しており、いずれもアレクシス・ローゼッカと仲が良い「ガリレイ・サークル」*3出身だった。当時国民衛兵隊のほとんどの隊員はイベントがあるときのみ参加する「半野良」隊員で、国民衛兵隊専従の隊員が初めて組織された。また会計局はハンガリー王国滅亡の混乱のなか手に入れた180万クローネの運用を行い、ドナウ社会主義労農党左派の財政を支えた。こうして、ハンガリーの国民衛兵隊は中央に新組織を設ける形でローゼッカは手中に収めていった。

政治運動としての国民衛兵隊

 ちょうど国民衛兵隊が結成、拡大していたころイタリアでも「黒シャツ隊」が生まれ、1922年にベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党が政権を掌握した。このころ欧米では黒シャツ隊とファシズムの模倣が流行っていたが、つい最近までイタリアと戦争をしていたドナウにおいてイタリアファシズムの人気はなかった。それにもかかわらずファシズムに類似した政党・運動がドナウにおいても登場していたことは注目に値する。これらの運動は意欲ある新興インテリと国民衛兵隊のようなフライコールに支えられており、国政の混乱に乗じて勢力を伸ばしつつあった。しかしその様子は有象無象であり、それぞれ運動は一地方に終始して長続きしなかった。しかしながら国民衛兵隊は例外で、国民衛兵隊が実践する模範的規律が強調され、議会政治の堕落が批難された。イタリアファシズムが敵としたボリシェヴィズム系政党であるハンガリー共産党も国民衛兵隊とともにそれに加勢した。
 特徴すべきことは、国民衛兵隊にはその軍事的組織のみならず、政治的哲学を編む党が存在したことである。無論これは国民衛兵隊とドナウ社会主義労農党左派・ハンガリー共産党に限ったことではないが、そうしたフライコールと政党はかなり限られていた。フライコール「連邦防衛同盟」を抱える社会民主党ハンガリーにおいては既に虫の息で、且つ小オーストリアチェコスロバキア、ドイツ人ボヘミアの三支部で足並みがそろっていなかった。護国団を抱えるキリスト教系政党は各共和国のみならず各群においてさえバラバラで統制が利いていなかった。
 国民衛兵隊とドナウ社会主義労農党も全国統一はできていなかったが、ドナウ社会主義労農党左派が中心として唱える「ドナウィズム」*4は民族と政党を超えた連帯を呼んだことは確かである。またこうした理論面だけでなく、国民衛兵隊はアレクシス・ローゼッカに対する個人崇拝の傾向があった。ローゼッカはヒトラー同様、連邦において若手の新興政治家の一人として知られており、特にハンガリーにおいて人気があった。ドナウ社会主義労農党はイタリアを嫌いつつも「ローマ式敬礼」などの権威的な装置を次々に取り入れていたことも無関係ではない。そもそも、ローゼッカはヒトラーに劣らず演説の才能があり、地方の隅々にわたって遊説していたことも一役買っていたようである。いずれにせよ、国民衛兵隊はドナウの数あるフライコールのうち有力なものに成長し、またドナウィズムの一翼を担う政治運動として発展した。

政権掌握まで

 国民衛兵隊は党員にとって手軽な暴力装置だった。ドナウ社会主義労農党左派やハンガリー共産党などの政治家が集会を組織する際、まず警戒せねばならないのは敵対勢力からの殴り込みだった。こうした殴り込みに対抗し、また殴り込むべく国民衛兵隊は訓練された。またアレクシス・ローゼッカは敵対政党幹部の暗殺において国民衛兵隊調査局を活用した。このような血なまぐさい政党闘争は1920年代のドナウにおいてごくありふれた光景だった。
 また国民衛兵隊は公団制度成立以前における人々の束ね役だった。つまり国民衛兵隊は失業者に居場所と規律、任務提供し、人々を軍隊的システムと同時にローゼッカ個人への崇拝システムに束ねていた、というものである。実際、ドナウ社会主義労農党の多くの政治集会は国民衛兵隊により行われ、会場では宣伝部隊が活躍していた。政権掌握後はラジオ普及率が低い農村においてラジオによるローゼッカの演説聴取会をした。国民衛兵隊は市井の人々が営む生活にすらりと忍び込み、ドナウ社会主義労農党の哲学――農村復興、連邦主義、中欧独立、個人崇拝などを伝える役割を果たしていた。
 国民衛兵隊が生々しい政治的「入力」の場であれば、同時に「出力」の場であった。ローゼッカは悪徳地主や悪徳貴族、セルビア人などの陰謀を主張し、国民衛兵隊員はこれに呼応してしばしばそれらを襲撃した。特に経済が落ち込んだ世界恐慌後はこの傾向が顕著である。こうした性質は革命的破壊にとっては役に立ったが、同時にローゼッカさえコントロール不能な不満分子であることも意味した。ドナウ社会主義労農党左派が勢力を拡大する過程で党右派や保守政党などを取り入れると、さらなる過激路線を主張しローゼッカを批難する国民衛兵隊員が現れ、ドナウ党幹部たちを悩ませた。1932年には国民衛兵隊憲兵局長のシャライ・イムレが暗殺された。
 過激派のターゲットとなった主要なテーマは経済のコーポラティズム化とカトリックの取り込みである。経済のコーポラティズム化はホライ・ルーリンツをはじめとする党若手理論家の主張により始まったが、主にハンガリー共産党に所属する、革命を経験した「一揆主義者」には嫌われた。またカトリック勢力の取り込みは、ドナウ連邦をカトリック共同体とする連邦主義者(広義のドナウィスト)とキリスト教社会党に歓迎されたが、都市部に基盤を持つ社会民主党ハンガリー共産党の一部党員には反対された。ハンガリー共産党における一部の反発に対しドナウ社会主義労農党に近いハンガリー共産党員は、今までの共産党は口だけ共産主義による団結を唱えていたが何も解決できず何も変わっていない、と主張しクン・ベーラなどの党幹部を批難した。ハンガリー共産党とドナウ社会主義労農党の関係について詳しいことは別の機会で述べるが、ローゼッカによる「ドナウィズム革命」においてハンガリー共産党は分裂し、共産主義に幻滅した党員がドナウィズムへ鞍替えしたといえる。この事件はハンガリー共産党とドナウ社会主義労農党の微妙な協力関係を破壊し、ドナウ社会主義労農党の完全な優位を生んだ。

粛清と縮小

 1928年にドナウ社会主義労農党左派を含む連立内閣が誕生し、1933年にアレクシス・ローゼッカとドナウ社会主義労農党のみが完全に権力を掌握すると、国民衛兵隊の政治的比重が減少した。というのも国民衛兵隊ではなく政府主導で人民の政治的統合(公団化)、国家警察の利用ができるようになったからである。政治的な「入力」手段としての国民衛兵隊は、全勤労者が所属する「公団」と呼ばれるコーポラティズム組織に譲った。経済のコーポラティズム化*5により失業者が減り始め、また軍隊的な組織が新たに多数結成されて隊員を吸収したことにより、国民衛兵隊は再び縮小した。結局、フライコールとしての国民衛兵隊は準軍事組織としての性格を与えられ、公団に所属する勤労者への軍事教練指導といった限られた権限を与えられることとなった。
 また国民衛兵隊内の不穏分子は粛清された。最後までヒトラーに忠誠を誓った右派残党は1934年に完全粛清され、アドルフ・ヒトラーはドイツ、次いでアルゼンチンに亡命した。
 かくしてその役割をほとんど終えたかに見えた国民衛兵隊だが、憲兵局、調査局などの中央機関は依然残った。チェルニーなどは党内の反ローゼッカ分子に目を光らせつつも、この地位に居座り権限を乱用していたが、チェルニーやその同志コルヴィン・オットーなどは優秀でありつつもローゼッカからの信用をあまり勝ち取っていなかった。こうした事情のほかにも連邦における包括的な警察網構築の要請から、1933年に「連邦保安省」が誕生した。ドナウ連邦の悪名高い秘密警察である。連邦保安省のメンバーは旧各共和国*6の警察官僚と国民衛兵隊憲兵局と調査局のメンバーらで構成されていたが、その比率は約5:1と警察官僚側が優勢だった。大統領となったアレクシス・ローゼッカは連邦保安省と国民衛兵隊という二つの秘密警察を互いに競争させ、一つの武力組織への依存と腐敗を避けようとした。確かにこの策は一定の効果を上げたと言えるが、同時にこのような処置は二重権力、国政混乱、権力闘争を招く結果となってしまった。
 ローゼッカは連邦保安省も国民衛兵隊憲兵局&調査局に対して疑いの眼差しを向けていたが、どちらかといえば連邦保安省のほうが信頼を勝ち取った。1938年に全ドナウの警察統合を名目に「連邦保安・警察司令部」が新設され国民衛兵隊調査局も含め、ドナウの治安機関が一応ここでまとまった。とはいえこれらは形式上にすぎず、調査局は国民衛兵隊総司令官代理であるコルヴィン・オットーの命令で独断専行を続けた。

戦時中

詳細は「」を参照。
 1939年の戦争勃発に伴い調査局が廃止され、より権限の強化された情報局が誕生した。

戦後

 戦争が国民衛兵隊に与えた影響は連邦保安省の場合と大差ない。国民衛兵隊は軍、連邦保安省と対立しつつも占領地の治安対策に努力をした一方で、戦争に伴う「火事場泥棒」で大きな利益を上げた。トランシルヴァニアにて連邦保安省がルーマニア人を追放し強制収容所に入れ、彼らの資産を奪いとったように、ヴォイヴォディナにおいても治安対策を名目にセルビア人向け強制収容所が建設され、そこでセルビア人は奴隷労働と生産作業に従事し、生じた利益はすべて国民衛兵隊の懐に入った。こうした戦時中の蛮行を挙げればキリがないが、少なくとも国民衛兵隊も連邦保安省も戦争において莫大な利益を上げ、戦後のドナウ連邦において武力だけでなく経済面からも発言力を持ち始め、強制収容所をはじめとする非人道的システムが構築・温存されたということは確かである。
 国民衛兵隊は連邦保安省ほど戦後の植民事業に参加できなかったが、戦争中に手に入れた諜報・外交網を依然と手にしつつ、外務省や連邦軍、連邦保安省などとは独立した外交チャンネルを開き続けた。また国内向けの監視網・密告網も保持し続けた。
 こうした国民衛兵隊を含む戦時中における軍と連邦保安省の拡大は、戦後のドナウ連邦を歪なものにし政権運営を困難なものとさせていった。

組織

総司令部
 総司令官:ポガーニ・ヨーゼフ(1923-1933)
     :アレクシス・ローゼッカ(1933-1939) 代理:コルヴィン・オットー(1933-1939)
     :コルヴィン・オットー(1939-1960)
     :チェルニー・ヨーゼフ(1960-71)
会計局
 局長:シュガール・ティヴァダル
 国民衛兵隊の予算だけでなく隊員の福利厚生、給与管理、資金調達をする。戦時中における経済部門は資金調達を名目に始まった。

法務局
 局長:
 法務や公報発行、人事や苦情、隊員の規律や表彰などを担当。

行軍局(-1934年)
 局長:
 国民衛兵隊の行動を一切管理する。軍における参謀本部

動員局(1934年-)
 局長:ポガーニ・ヨーゼフ(1934-55)
 準軍事組織と言う観点から1934年に設置。動員計画を練る。戦時においては国防委員会に統合された。

兵器局(1934年-)
 局長:
 準軍事組織と言う観点から1934年に設置。兵器整備を行う。戦時においては国防委員会に統合された。

航空局(1934年-)
 局長:
 準軍事組織と言う観点から1934年に設置。航空パイロットを養成したりアマチュアパイロット大会を開催したりした。戦時においては国防委員会に統合された。

海運局(1934年-)
 局長:
 準軍事組織と言う観点から1934年に設置。来る海軍建設へ向けて水兵を養成した。戦時においては国防委員会に統合された。

広報局
 局長:ポール・エルネー(1930-1937)

憲兵
 局長:シャライ・イムレ(1920-1932)
    チェルニー・ヨーゼフ(1932-1939)
    コルヴィン・オットー(1939-1946)
 本来は国民衛兵隊における風紀粛清や取締などを行うが、実際には政敵を暗殺するための手段として用いられた。

調査局(-1939年)
 局長:チェルニー・ヨーゼフ(1920-1932)
   :コルヴィン・オットー(1932-1939)
 副局長:コルヴィン・オットー(1920-1932)
    :サムエリ・ティボル(1932-1939)
 国民衛兵隊における諜報機関。その対象は国内外の隅々に渡り、連邦保安省と対立した。その専横ぶりはローゼッカも憂慮し、1938年に「連邦保安・警察司令官」の称号を授かったアルトゥール・ザイス=インクヴァルト連邦保安大臣の統合機関である「連邦保安・警察司令官部」に形式上収められた。それでも調査局と連邦保安省の対立は続いた。

情報局(1939年-)
 局長:チェルニー・ヨーゼフ(1939-1960)
 さらなる統合の引き換えとして正式に国外諜報任務を与えられ、1939年の戦争勃発とともに再編された。

国民衛兵隊管区
 基本的に軍管区と同じ。ただし割り振られた数字は二重帝国軍管区のものを再編したため注意が必要。また管区司令部の位置は連邦軍管区のそれと異なっている。連邦軍管区司令部は要塞にある場合が多いが、国民衛兵隊管区司令部は都市の一オフィスである場合が多い。
 管区より下級の単位における指導者の任命権は管区司令官が持っているため*7、管区司令官の配置が国民衛兵隊の秩序を決定すると言える。ドナウ社会主義労農党右派系の国民衛兵隊司令官は1934年までに粛清された。
第一管区(北ボヘミア)司令部:アウスィヒ
第二管区(中央・南ボヘミア)司令部:プラハ
第三管区(シレジア、モラビア)司令部:ブリュノ
第四管区(上下オーストリア、アルプス)司令部:ウィーン
 司令官:ヴァゴー・ベーラ(1932-1948)
第五管区(シュタイアマルク、ケルンテン、クライン)司令部:グラーツ
第六管区(西ハンガリー、西スロバキア)司令部:プレシュブルク
 司令官:ハウブリヒ・ヨーゼフ(1920-1930)
    :ポガーニ・ヨーゼフ(1930-55)
第七管区(北東ハンガリー、東スロバキア)司令部:カッシャ
 司令官:ヴァゴー・ベーラ(1920-1927)
 司令官:カリカーシュ・フリジェシュ(1927-1946)
第八管区(中央ハンガリー)司令部:ブダペスト
 司令官:ヤンチク・フェレンツ(1920-1946)
第九管区(ティサ川以東の東ハンガリー)司令部:デブレツェン
 司令官:サムエリ・ティボル(1920-1945)

制服

 国民衛兵隊にも制服があった。人民軍時代は旧二重帝国軍のものをそのまま使っていたが、ドナウ連邦建国後は駐中東部隊に配備される予定だった薄茶色の砂漠服がそのまま制服となった。1933年に将校以上の礼服が整備され、特に将官クラスの礼服は旧ハンガリー軍の伝統的な軍服デザインに影響を受けていると言われる。

*1:長らくこれが定説とされていたが、最近の研究においては、ヒトラーはドイツ軍のスパイとして国民衛兵隊に加入したという説が濃厚である。しかしヒトラーがスパイの任務を捨ててまで国民衛兵隊に献身したことは確からしい。

*2:ただしドナウ党中央はローゼッカ率いる左派が優勢だった。

*3:ハンガリー王立大学の学生団体。ローゼッカも在籍していた。

*4:ドナウィズムは広義においてドナウ独自の連邦主義を意味し、狭義においてドナウ社会主義労農党の思想を意味する。ドナウ社会主義労農党左派は連邦主義にもっとも忠実だった。

*5:経済学者ドラッカーは「全体主義化」と呼んだ。

*6:1933年の憲法改正地方分権的な各共和国は廃止された。

*7:そのため称号が乱立することとなった。憲法改正後に創設された州を単位としてWW2中に設立された治安司令部は、こうした乱立する下級司令官らを拒むことで連邦保安省が司令部内を掌握するに至った。