ドナウ連邦の世界観

諸民族の連邦という特殊な国家から覇権国家に成長したドナウ連邦の世界観についての短い記事。

オーストリア革命からWW2まで

 オーストリア・ハンガリー帝国は地理的統一の欠けた広大な地域にまたがっていたが、WW1末期における革命と帝国の解体そしてドナウ連邦の成立は、領土だけでなく世界観も再編した。

 大地を覆っていた巨大な老木はついに倒れてしまった。しかし老木の切り株に新たな芽がいくつか現れた。いくつかのオークと菩提樹の芽は互いに争っていたが、ある嵐が吹いた冬に三つの芽は互いに団結し、合体して一つの苗となった。その苗は「ドナウ」と言い、まだ若いがはつらつとしている。(カロル・チェルニク『1920年叙事詩』)

 端的にその変化を述べるとすれば以上のようになる。オーストリア革命による混乱に付け込みドイツは独立ハンガリーを自国勢力圏に組み込もうとしたが、革命により誕生したドイツ人のオーストリアチェコ人のチェコスロバキアは協力してこれを阻止した。「革命戦争」または「ドナウ戦争」と呼ばれるこの事件により、ドナウ連邦はドイツという新たな脅威の下再び団結するようになった、ということである。
 1920年代ドナウはこのようにドイツ人、チェコ人、ハンガリー人という三民族の団結により象徴された。またその国土の位置は、戦前のような「ドイツの南にある中欧」から「ドイツに対する中欧」へと変化していった。こうした立ち位置は同じくドイツに抵抗したフランスへの共感をもたらしたとともに、ドイツではなくドナウオリジナルのアイデンティティを生み出した。これは一民族のための一国家という「ドイツ的volk」に対抗し、アイデンティティから生まれるvolkによる国家という「ドナウ的volk」の創造にもつながっていく(ドナウ哲学)。
 1930年代にはドナウのこうした世界観はやや変化していった。これは地方分権的議会政治から中央集権的独裁政治への移行、つまりドナウ社会主義労農党による権力掌握や、三民族に従属していたスロバキア人やスロベニア人などの民族意識復興などと無関係ではない。まず、「ドイツに対するドナウ」の概念が拡張され「ドナウを中心とするカトリック」になった。これはドナウの地理概念が南ドイツやクロアチアなどに広がったことを意味しており、ドナウ社会主義労農党がカトリック勢力と手を組んだことによる。また世界恐慌でドイツ経済が衰退するなか、代わりにドナウが中欧各国との貿易において影響力を行使するようになると、特にドナウの南に位置するユーゴスラビアアルバニアルーマニアギリシャブルガリアオスマン帝国を「ドナウの庭」と認識するようになった――と外国人研究者には指摘されている。実際、当時はハプスブルク帝国時代の南進と領土獲得が強調されており、ドナウ戦争の混乱でルーマニアに割譲されたトランシルヴァニア問題やWW1の発端たるサラエボ事件などを引き合いに、ルーマニアユーゴスラビアに対し激しい敵意が向けられていた。当時辺境ではセルビア人とルーマニア人への迫害が連邦保安省・国民衛兵隊主導で起きていた。
 一方でドナウ社会主義労農党の理論家であるホライ・ルーリンツカトリックに拘泥せず、南ドイツからギリシャに至るまでの中南欧による「ヨーロッパ連合」を構想していた。これはホライがカトリックではなくプロテスタントであったことも関係しているようである。「ヨーロッパ連合」構想では、これにイタリアを加えて「地中海帝国」を創建し、中東に侵攻・入植してヨーロッパを拡大する、という構想も追加された。その奇天烈さからアレクシス・ローゼッカ大統領はこの構想を一蹴したが、経済的目的から資源有産地に入植して資源を確保し、ヨーロッパを拡大するというアイデアは後々受け継がれていくこととなった。

WW2

 ドイツ帝国は東方植民のように常にロシアへの野望を隠さなかったが、ドナウ連邦に「東方への衝動」はほとんどなかった。もともとロシアは進出先ではなく脅威としてハプスブルク時代から認識されており、ハプスブルクからドナウ連邦への変化はちょうどその脅威がロシアからドイツに入れ替わったというものだった。一方ドナウ連邦建国後の東方はブレストリトフスク条約によりウクライナが新たな東方の隣国となった。戦間期においてウクライナとドナウは穏健な関係を築いていた。
 WW2の東部戦線において一部時期を除きドナウが兵力を出し惜しみしたことは、無論ドナウが東方に対した脅威を感じていなかったことに関係していた。対露開戦の発端となったロシアのウクライナ侵攻でドナウの安全保障が脅かされた時期を除けば、ドナウ連邦軍は東部戦線に大して兵力を咲かず、フランスやポーランドなどの同盟国に任せきりだった。ドナウはその分の戦力をユーゴスラビア征服やイタリアの「ファシズム化」、戦争後期のオスマン帝国への侵攻、北アフリカ戦線などに投入していった。
 戦争中ドナウは中南欧の覇権を確かなものにしていった。征服されたユーゴスラビアにはセルビア総督府が設置され、現地住民を強制労働に充てた。またドナウ外務省は中南欧各国の国境紛争を調停し、イタリアに侵略され地図から消えたアルバニアを解放することで中南欧の覇権的地位を固めていった。戦争終結まで、中南欧にはドナウ連邦を中心とする、ドナウが労働者と資源を収奪・徴用しドナウ軍が中南欧を防衛する覇権が構築されていった。また、ルーマニアユーゴスラビアから奪ったトランシルヴァニア、バナト、ヴォイヴォディナでは現地住民が強制収容され代わりにドナウ農民が入植していった。同じく枢軸国としてドナウと戦ったフランスにおいても似たような現象が見られた。
 オスマン帝国への侵攻はホライの構想に影響されたローゼッカやさらなる資源を求める軍部により開始された。こうして結果的にホライの構想に近い形でドナウ連邦の巨大な「ヨーロッパ連合は完成していった」。しかしWW2終結後、ドナウが手にした領域はそれ以上だった。

冷戦の始まり


【架空戦記】「架空歴史解説地図シリーズ02」イラスト/ドナウ連邦建国史 [pixiv]
上は1950年頃までに構築された冷戦世界。ドナウ連邦は中南欧だけでなく北ドイツの一部やアフリカまでも手にした。

 WW2によりドナウが手にした最大の領土はアフリカにあった。WW2中から植民が計画されたリビアを除けば、東アフリカ(後のノイプロイセン)などのアフリカ新領土に関してホライ・ルーリンツを除けばどの機関もしっかりした構想を持っていなかった。しかしホライ・ルーリンツやヴァルガ・イェネーなどのハンガリー人理論家らは戦時中からアフリカに着目し、来たる戦後世界における人口爆発と食糧不足を指摘し、アフリカの開発こそ繁栄につながると主張した。というのも枢軸国が旧大陸の占領にとどまっている以上、戦後世界は新大陸が英独らに旧大陸が枢軸国に分割されることは明確であり、戦前旧大陸は新大陸からの食糧を含む資源に依存していたことからアフリカ開発による資源生産拡大が急務である、ということである。この理論は食糧不足と主にドイツ人の過剰人口に悩まされていたフランスでも支持され、WW2終結で枢軸国によるアフリカ支配が確定するとアフリカへの入植と効率的な資源生産が両国とも検討されるようになった。ちなみにノイプロイセンはこうした文脈の下、過剰人口対策と資源開発のために建国された人口国家だった。
 一方ドナウでは中南欧統一を成し遂げたのもつかの間、戦後問題の処理に追われることとなった。また同時にフランスとの対立――後の冷戦――が表面化しつつあった。例えばイタリアの戦後計画にフランスが関与したことに対するドナウ世論の憤慨は、既にイタリアが「大ドナウ」の世界に受け入れられていたことを意味している。1946年から早速始まったリビアや東アフリカへの植民事業は、単なる過剰人口処理・資源開発だけでなくドナウ世界の拡大を意味していた。こうして「大ドナウ」は、北はドイツ社会共和国から南はノイプロイセンまで南北に大きく跨るようにして構築されていった。ドナウ連邦はドナウ世界の「指導的立場」であると盛んに宣伝され、アフリカ原住民への絶滅作戦や白人の入植、セルビア人への虐待などはこうして正当化されていった。
 ところで、こうして生まれた冷戦初期のドナウ世界にとってノイプロイセンは辺境だった。加えてドナウ国民のうち植民に参加した者がほとんどいなかったことから*1、1950年代末にノイプロイセン独立運動が起こり、1960年代初頭に実際に完全独立したことは驚きをもって受け止められ、ドナウの世界観再編、やがては体制改革へと繋がることとなる。
 

【架空戦記】「ノイプロイセンの地図(1955年)」イラスト/ドナウ連邦建国史 [pixiv]
ノイプロイセンの詳細な地図

*1:入植者の多くはポーランドによるドイツ東部併合で故郷を失ったドイツ人難民である。