Historia Donaufederaiha

民族、言語、国境。

戦間期フランスコミューン政治史(前編)

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フランスコミューン国旗

敗戦と新たな革命

 セルビア人青年が放った銃弾はオーストリアのフランツ・フェルディナント大公を死に至らしめ、欧州を大戦争へと陥れた。1914年にドイツはベルギーそしてフランスへ侵攻し、フランス軍はイギリス軍やイタリア軍、東部戦線のロシア軍などとともに防戦に当たった。後にドナウ連邦となるオーストリア・ハンガリー帝国はドイツを盟主とする中央同盟国としてフランスらと戦争状態にあった。新兵器と塹壕戦は戦場から一切のロマンを奪い去り、前線では無謀な突撃命令が繰り返され、仏独ともに厭戦気分が広がっていた。1917年のニヴェル攻勢は両軍合計25万人もの損害を出し、これに対して兵士らはストライキを展開した。しかしこの動きは憲兵軍法会議により無慈悲に潰された。
 1918年、戦争負担に耐え切れず革命ロシアが東部戦線を離脱すると、ドイツ軍は「カイザーシュラハト」と呼ばれる大攻勢を西部戦線で開始した。この戦いでは両軍とも戦車が使用され、その規模も大戦最大だったという。アメリカ参戦に向けた外交工作の不調が伝わっていたフランス外務省は絶望に包まれ、英仏軍はじりじりと後退していった。同年春にはオーストリア・ハンガリー帝国で革命が起き、こちらも戦線離脱の動きが見えてきた。西部戦線ではフランス兵の離脱や抗命などが相次ぎ、次第に西部戦線は崩壊していった。11月末にはついにパリが陥落し、事実上西部戦線はフランスの敗戦という形で終結した。ドイツへと併合されたルクセンブルクにおいて1919年6月28日、フランスと中央同盟国間で講和条約ルクセンブルク平和条約」が結ばれた。ルクセンブルク条約ではアルジェリアチュニジアを除く全海外領土のドイツなどへの割譲*1、ドイツ、ブルガリアオスマン帝国への賠償金が定められた。途中で戦線離脱した旧オーストリア帝国こと後のドナウ連邦は条約に参加できなかった。
 さて、フランスはこのようになされるがまま戦争を続け、敗北したかと言えばそうではない。社会党やCGT(労働総同盟)など左派の一部には反戦派がいたが、彼らがロシアやドナウなどのように政府を打倒し戦争を止めることはできなかった。熱狂的なナショナリズムに駆られ無謀な戦争を遂行した政府は相変わらず温存されていた。フランス政府は敗戦の混乱を収拾できず、民衆は飢餓に苦しんでいた。1919年10月にイギリスと中央同盟国間のシャルロッテンブルク平和条約でイギリスによる海上封鎖が解除されるまで、フランスは海外からの食糧輸入が途絶していたことが事態に拍車をかけた。祖国の無様な敗戦により動員解除された兵士らは次々に故郷に戻り、当然職もないので民兵組織を結成していった。兵と民衆の怒りは政府に向かっていた。このような大衆の怒りを上手く吸収していったのは左派の社会党とCGT、右派のアクシオン・フランセーズだったが、これは大衆が彼らの思想に感化されていったわけではなく、フランス伝統の一揆主義(Putschism)に基づく大衆行動の拠点となったに過ぎない。
 ルクセンブルク条約締結に先立つ1919年5月1日のメーデーではパリを含む各地でデモが武装蜂起に発展し、北フランスの複数の都市が奪取された。労働者と兵士はロシアのソビエトオーストリアのレーテに倣い「コンセイ(conseil;評議会)」を代理機関とし、左派は労働者のサンディカ(syndicate ;組合)化を急いだ。革命派の全国組織として公安委員会(Comité de salut public)が発足したが、これはフランス革命やパリコミューンでも用いられた伝統ある名前を冠した組織であり、その名誉ある委員長には1909年にCGTを引退したエミール・プーゲ(Émile Pouget)が選ばれた。フランス第三共和政府はドイツに対し派兵と鎮圧を要求したが、ドイツにこれ以上戦闘を行う余力はなかった。こうしてなし崩し的にフランス第三共和政は崩壊し、8月1日にパリにおいてフランス第三共和政の終焉と「フランスコミューン」の成立、労働者と兵士による独裁*2が宣言された。この三か月間をもってフランス赤色革命は達成され、以降の政治体制は「第二コミューン体制」と呼ばれることとなる。第一コミューンとはもちろんパリコミューンを指す。フランスコミューン国はパリコミューンの後継者を自称していた。
 生まれたばかりのフランスコミューンの舵取りは自由主義者社会主義者、サンディカリストアナキストなどの多種多様な面々により運営された。フランスコミューンは絶対的な指導者に欠いていたため複数の――委員会にしてはやや多い――人々により率いられることとなった。また革命派は戦争協力者をポワンカレやクレマンソーなどを除き咎めなかったため、カナダのケベックに亡命した一部の政治家と軍人を除き易々と新体制に席を持つことができた。1921年ごろはロシア内戦に敗れたボリシェヴィキの残党やアナキストのネストル・マフノなどがフランスに亡命し、ただでさえ複雑な革命派はさらに細かく分割されることとなった。

「窮乏の時代」

 フランスコミューンとは各都市、各村にあるコミューンの連合体を意味しており、中央政府公安委員会により統括されている。各コミューンは労働取引所*3にて地方行政を行い、各生産施設の労働者による選挙が行われており、実質的にプロレタリア独裁が達成されていた。各コミューンの選出と労働者による直接選出で中央政府である公安委員会のメンバーは選出され、これが事実上の議会として機能していた。公安委員会の中でさらに選ばれた委員が閣僚となった。このように、フランスコミューンとはプロレタリア独裁の仮面をかぶった、議会偏重の事実上の第三共和政であったともいえる。ロシアのボリシェヴィキたちはいち早くこれに気づき、「フランス革命イデオロギー的希薄さ」を批判したが、1921年の夏には白軍によりモスクワが陥落しボリシェヴィキも国外へ離散するうちに思想的分化を遂げていった。
 フランスコミューンがその国名とは程遠い存在であったことは経済部門からも伺うことができる。1922年当時経営権がサンディカや労働者自身などに移された生産手段は全体の半分を下回っていた。革命が最も盛り上がった北フランスを除けば、革命前の地主や資本家などが相変わらず経営権を握っており、労働者もそれに甘んじていた。こうした「非革命勢力」は全国選挙によっても存在が確認できる。1920年1月に行われた第一回全国投票では左派各派を合わせた連合勢力「左派連合」がかろうじて過半数を確保した。エドゥアール・エリオを公安委員長*4左派連合政権の主導によりコミューン憲法が制定、発布されると、左派連合政権は何とか右派の支配する地方部を取り込もうと画策したが、革命を率いた都会風は地方部には冷たくあしらわれ、右派の野党勢力は勢力を維持し続けた。ざっくばらんながら、左派は都会的、共和主義、反カトリック、右派は農村的、権威主義カトリックというように分けることができる。フランスは急激な都市の成長にもかかわらず小さな農村が人口を維持し続け、決して無視できないフランスコミューンの中核となっていた。しかしながら、フランスコミューン政府は農地改革に消極的であったし、地方を疎ましくさえ感じていた。こうしたこともあり、1920年代のフランスコミューン文化はパリを拠点とするボヘミアン芸術が花開いた。
 一方で、戦争による荒廃とドイツへの賠償によりフランス経済は困窮を極めた。戦時国債の乱発によりフラン紙幣は紙くずとなり、ハイパーインフレが襲った。リールといった国境付近の産業地帯がドイツ軍に占領されたままになっており、物価は1923年6月までに戦前の約25000倍まで膨れ上がった。コミューン政府の樹立をもって争乱は終結せず、相変わらずデモや暴動、民兵による反乱などが繰り返された。ルクセンブルク条約で軍備が制限され、軍の外に民兵(ミリス)を置く政策は、却って国内の不安定化を呼び起こした。1924年にはリーフ戦争に影響されたアラブ人退役軍人らのミリスがアルジェリア北西部で蜂起(オラン戦役)し、1920年代における数々の反乱のなかでは大規模なものとなった。
 当時仏領アルジェリアに隣接するスペイン領北モロッコではアラブ人ナショナリストのアブド・アルカリームが独立戦争を起こし、スペイン軍を蹴散らしリーフ共和国の独立を宣言しており、オラン戦役はその余波によるものだった。討伐軍を率いたのはシャルル・ド=ゴールという男で、敗戦の混乱で多くが退役した軍に残り次々と昇進していったが、オラン戦役でのド=ゴールの活躍は彼の名声を決定的な物にした。騎兵と戦車*5を用いた機動戦術をこなした鎮圧作戦は、後の「電撃戦(Guerre éclair)」につながったとされる。他にもオラン戦役にはロシアから亡命したミハイル・トハチェフスキー(ミハイル・トュハチェウスキとも)といった後にド=ゴールとともに活躍する軍人が参加していた。
 1923年に経済・通貨危機はピークに達し、政府は相変わらず無能だった。しかしドイツ本国にてエーリヒ・ルーデンドルフが失脚しアルフレート・フォン=ティルピッツが首相となると、ドイツ側の態度が軟化しドイツ軍がフランスから完全に撤退した。またイギリスとアメリカが資金を拠出し、緊急通貨発行とデノミを行うことでインフレは終結した。結局フランスの運命は列強の匙加減で決まることが明らかとなった出来事であり、かつての大国の住民であるフランス人民は無力感とやるせなさに打ちひしがれた。この英米による資金拠出は、ドイツがフランをマルクの衛星通貨にすべくフランの価値をマルクに連動させるという提案に対し、英米がドイツ経済圏の拡大を恐れて行った措置だった。当時ドイツは欧州経済を牛耳り一大経済圏を作っていたが、そのなかでドイツに反抗的なフランス、ドナウ、ロシア、イタリアなどは非ドイツ勢力反攻の拠点として用いられた。ドイツのフォン=ティルピッツ政権はフランスでの影響力を保持するため譲歩し、ドイツ製機械の購入を条件に賠償金を減額した。
 この敗戦から革命、経済危機までの数年間は「窮乏の時代」と呼ばれ、革命に対する熱狂もほとんど失せてしまった。生活への不満から一揆主義的な事件が多発する一方で、この頃から混沌とは対照的な権威や安定などを求める意見や、中道ではない極左・極右的な過激派も散見されるようになっていく。

中道の没落

 1920年代のパリは世界中の思想が終結する地だった。雨後の筍のごとく似たり寄ったりな過激政党・ミリスが次々に登場していったが、左右の過激派に圧迫されていた中道を含めて当時のフランスの政治勢力を分類するとおおむね以下のようになる。

 最も基本的な政治勢力でフランスコミューンの政権を握っている。戦前はフランスで最も過激な左派勢力だったが、与党になったこともありすっかり軟化した。一方で結束にかけており、しばしば離脱者が過激勢力に合流する事態があった。革命における政界再編により社会党(SFIO)と労働総同盟(CGT)はほとんど合流している。

 ミハイル・バクーニンにより形成されたアナキズムは、フランスにおいてはサンディカリズムを兼ねる場合が多かった(アナルコサンディカリズム)。アナルコサンディカリストを含む多数のアナキストが参加したフランスコミューンにおいて、革命に幻滅しコミューン政府を離脱したCGTのサンディカリストアナキストを名乗り、公然とコミューンに反抗する者が現れていた。彼らはCGT左派として分類できる。
 一方ロシア内戦でウクライナを中心に活動したネストル・マフノのアナキスト運動は、白軍による鎮圧を経てネストル・マフノ自身を含む多くのウクライナアナキストがフランスに亡命してきた。彼らが政党として「黒色アナキスト連合(Rassemblement Anarchiste Noir; RAN)」を結成、サンディカに拠らないアナキズムとして新風をふかせていた。彼ら黒色アナキストは少数ながら公安委員会の議席を得、影響力を持っていた。
 第二インターをフランス支部であるSFIOとは別に、ボリシェヴィキが主導した第三インターコミンテルン)のフランス支部として1920年フランス共産党(PCF)が結成されると、フランス革命を経験したフランス人や亡命ロシア人などが参加した。この中でもマルクス主義ではなく一揆主義に魅了されたPCF党員はアナキストを名乗った。コミンテルンボリシェヴィキの崩壊以来求心力を失ったこともありPCF党員の数はSFIOと比較して少なかった。

 フランス大革命で活躍した恐怖政治の担い手であるジャコバンは、フランスコミューンにおいてはロシア帰りの鉄の規律を持った共産主義者を意味するようになった。烏合離散するフランス在来の政治勢力とは異なり、ロシア帰りの共産主義者民主集中制により軍隊並みの厳格な規律を持ち、マルクス主義レーニンの言葉に対し忠実であった。彼らはPCFの主流派を形成していた。

 自由主義者を意味するこの言葉はブルジョワ国家においてあまりにも広い範囲を指すが、コミューン国家においては明快である。コミューンにおいてリベラリストは急進党(PR)といったブルジョワ政党左派とSFIOにおける非サンディカリストを指している。プロレタリア独裁においてブルジョワが政治の場に立っていることは不思議であるが、ロシアとは違いマルクス主義受容が遅れたフランスでは階級による他階級の組織的虐殺は起きず、むしろ有権者として取り入れていたという事実に依っている。リベラリストは中道派としてフランスコミューン統治をにない、PCFと一揆主義的労働者の間はSFIOが仲介した。

  • レピュブリカン(URD、AD他)

 PRとSFIOを除くブルジョワ右派、すなわち右翼連合を意味しており、彼らの多くは敗戦と革命で失脚して以来再起を伺っていた右派だった。サンディカリズムに対して批判的だったが、同じくコミューン国家に疎外されていた地方農村は、レピュブリカンを積極的に支持しているわけではなかった。地方農村の票はさらに過激な右派に流れ、レピュブリカンは次第にその姿を消していった。

 フランスでは革命前からアクシオン・フランセーズという右翼団体を主体として反動思想が連綿と続いていた。アクシオン・フランセーズは国粋主義反ユダヤ主義、反プロテスタント主義を掲げ、王党派を自称していたがこれは第三共和制への象徴的反動と言う点があった。フランスコミューンにおいてもアクシオン・フランセーズはフランスを代表する右翼団体であり続けたが、それを追い抜かんとする勢いがあったのはクロワ・ド=フーだった。
 クロワ・ド=フーは1927年に設立された退役軍人互助団体をもとにし、伝統社会の復権を訴え有力ミリスの一つとして発展した。香水王ことフランソワ・コティの資金援助とカリスマ指導者フランソワ・ド=ラロックの尽力により1930年代には最大のミリスに成長し、コミューン国家を揺るがすまでになった。クロワ・ド=フーはド=ゴールといった右派軍人の協力関係を持っていたとされる。
 カトリックによる社会思想はカトリシズムとして知られ、カトリック教会は労働問題を中心に積極的に関わってきた。ローマ教皇は1891年の『レーム・ノヴァルム−−労働者の境遇』回勅において経営者と労働者による組合というサンディカリズムを早くも示していた。前述のアクシオン・フランセーズとクロワ・ド=フーはカトリシズムの流れをくんでおり、少なくとも組合化という手段の点においてはサンディカリストと合致していた。カトリック教会は特に南フランスの農村で人民の支持を獲得しており、コミューン国家への不満を原動力にして勢力を伸ばしていた。また第三共和制から政教分離を徹底してきたフランスにとって、カトリシズムは王党派と同様に反動的選択肢だった。

 フランスに出現したファシストは、その後一般に呼ばれるファシストとはかけ離れたものだった。フランスコミューン初期において著名なファシストはジョルジュ・ヴァロアだったが、彼の主張したファシズムとはイタリア式の協調組合社会を指しており、そこには何ら反共和主義的な独裁や粛清などを匂わすものはなかった。世界恐慌以前のファシズムとはブルジョワ社会の延長線にあり、特異な世界観ではなく協調組合や国家資本主義などといった手段に着目していたといえる。代表的な政党は共和サンディカリスト党(PRS)。

 相次ぐ経済危機に対し自由放任主義ではなく国家の積極的な経済介入や福祉国家などをもって対抗していくという理論は一部の社会主義者に感銘を与え、やがて新社会主義者と呼ばれる勢力が生まれた。協調組合のカルテル化や国家による管理、やがては計画経済までその内容は幅広い。ジョルジュ・ヴァロワはこうした点でファシストと新社会主義者を兼ねていたといえる。他にはフランスに亡命したベルギー社会党員のアンリ・ド=マンが有名。既存のSFIOやCGTなどから離脱する形で新社会主義者はフランス国社会党(PSdF)やフランス国民連合(RNP)などに集まっていった。

 フランの価値が落ち着くと、フランスコミューン政府はアメリカとドイツからの産業顧問による経済合理化を行い、工業部門の生産性は1920年代末に大きく向上した。また占領していたドイツ軍を経由してドイツ軍式の先進的な医療が伝わり、フランスの高い死亡率は改善しようとしていた。
 しかし1920年代末のわずかな繁栄は1929年に起きた世界恐慌により吹き飛ばされた。まず恐慌の震源地であるアメリカ資本が引き上げ、世界中の金貨が比較的安定しているマルクに避難しポンドから金が流出、暴落したためイギリス資本もフランスから撤退した。こうしてフランは再び暴落し、激しい経済不安へと突き落とされた。復興途上のフランス経済は破滅的なダメージを受け、大量の失業者が生まれた。失業者は社会不安分子としてデモや暴動、ミリスなどに参加していった。特にミリスは機能不全に陥った社会システムの代替手段と見なされていたが、つまり失業で突然社会との繋がりを絶たれた労働者にとって最も手っ取り早く社会との繋がりを得られる手段がミリスだったということである。ミリスは政治的立場により乱立し、各ミリスは衝突を繰り返していた。これはある種、前線の再現とも言えた。
 既存の中道勢力による対策は何ら効果をあげなかった。国際的な情勢が味方をしなかったこともあるが、これまで政権を担ってきたリベラリスト、サンディカリスト、レピュブリカンらは古典的自由主義経済に固執ししていたこたも災いした。「何も手を加えず自然に任せれば景気は良くなる」という希望的観測は、目の前の失業と貧困に苦しむ大衆にとってはあまりにも残酷であり、無責任であった。これに対しジャック・ドリオ、マルセル・デアといった一部の社会主義者は自由放任経済に反対し、新社会主義者を名乗り国家の経済介入を訴えた。ヴァロアもこの動きに合流した。
 1931年に行われた公安委員会選挙では既存政党の議席が大きく減り、過激政党の議席が大きく伸びた。その一方で、議会闘争を拒否するクロワ・ド=フーは議席を持たずとも街頭行動で支持を拡大していた。フランスコミューン国は建国からたった十年で崩壊へと傾斜しつつあった。

ド=ゴール立つ

 シャルル・ド=ゴールは建国直後のフランス人民軍を支配した有力軍人だった。1890年に北部国境のリールにて生まれたド=ゴールは生粋の武人として育てられ、1909年に陸軍士官学校に入学するとフィリップ・ペタンの下にかわいがられた。ペタンとド=ゴールはWW1のヴェルダンの戦いにおいても直属関係にあり、革命後に軍有力高級幹部となったペタンはド=ゴールの良き支援者となった。ド=ゴールはアクシオン・フランセーズの理論的支柱を与えた右派文芸家モーリス・バレスを愛読し、敬虔なカトリックであった。こうした背景はド=ゴールと右派の間に信頼関係を生んだ。1925年にはオラン戦役に参加し一躍フランスコミューンの英雄となったが、それとは裏腹にド=ゴール自身の胸のうちには常にコミューン体制に対する疑念があったという。祖国フランスの防衛のためにコミューン国家はその使命を全うし、祖国の敗戦を導いた第三共和制の二の舞にならないのだろうか――この疑いはコミューン政府が無能を晒すごとに増した。ド=ゴールは「負けない祖国」を欲していたのだ。
 軍内部では「ド=ゴール派」が形成されつつあった。オラン戦役に参加した者たちを中心にトハチェフスキー、ペタン、さらにド=ゴールとともにアルジェリアで戦車戦理論を研究したアルフォンス・ジョルジュ(Alphonse George)、強硬派の猛将だったが敗戦責任を問われて左遷され、サハラ砂漠探検で余生を潰していたルイ・デスパレ(Louis d'Esperey)らである。また1924年から1930年まで軍事議会副議長*6を務めたマリー=エジェーヌ・ダバネー(Marie-Eugène Debeney)もド=ゴールに好意的だった。ド=ゴールは富国強兵の観点から常に軍事予算の拡大を主張していたからである。この頃のド=ゴール派はペタンのグループとほぼ重なっている。彼らは1926年におけるポーランドでのユゼフ・ピウスツキ将軍のクーデターに影響されていたが、実際のクーデター計画はほとんど練られていなかった。何より、ド=ゴールにはクーデター後の構想を持っていなかった。彼らが軍内部での活動に終始し大衆団体を立ち上げていなかったことからもそれのことが伺える*7
 1931年末に与党CGTからアナキストが離脱し統一労働総同盟(CGTU)を結成し、中道勢力は連立形成さえ困難な状態に陥った。フランスコミューンにはドイツにおける皇帝のような強力な存在がおらず、議会は空転し続けた。SFIOからも新社会主義者の離党が加速化し、中道右派もほとんど力にならなかった。労働者によるストライキ・暴動が常態化するなか、人民軍では万一の場合における事態収集のための行動計画を準備していたが、ド=ゴールらはこの計画を流用してクーデターを準備していたとされる。またこの頃退役軍人によるミリスのクロワ・ド=フーはド=ゴールを英雄として祭り上げており、同時にフランソワ・ド=ラロックはド=ゴールと連絡を取り始めていた。同年末から急遽クーデター計画を練り始めたド=ゴールは翌1932年7月20日の決起を計画し、ペタンを始めとする人民軍の元老らも結局計画に参加した。
 1932年7月20日、まずクロワ・ド=フーとアナキスト系のミリスがパリで大規模な衝突を繰り広げ、17人が死亡した。この混乱に乗じた決起軍は国防委員会や労働総取引所、ラジオ局などの主要部を占拠し、事実上の人民軍総司令官マキシム・ウェイガンは逮捕された。ウェイガンはペタンやド=ゴールなどとは異なる派閥出身であり、ド=ゴールによるクーデターの噂を聞き警戒していた。これに呼応してアルジェリアでもクロワ・ド=フーにより地方行政府が占拠された。クロワ・ド=フーとアナキストの衝突の他に決起軍と抵抗軍の戦闘が起きたが、いずれも小規模なものだった。
 翌日の21日、朝のラジオニュースは以下の決起声明を放送した。

 親愛なるフランス人民諸君!
 去る20日、人民軍は公安委員会並びに行政諸機関を完全に掌握し、管理下に置きました。人民軍は祖国の混乱・飢餓・腐敗を廃し、再び自由・秩序・繁栄を取り戻すべく本日21日をもって革命防衛委員会を設置しました。
 革命防衛員会は以下の点を遵守します。

・祖国を蝕む暴力に対する秩序をもった取締り
・破滅に向かいつつある祖国経済の立て直しと人民を覆う絶望と飢餓の一掃
・一切の腐敗に対する容赦のない打破
・組合を交えた祖国団結と富国強兵

 親愛なるフランス人民は秩序をもって各々の職務を果たし、委員会に協力することを切に願います。祖国はいま、絶滅か復活かの歴史的瀬戸際に立っております。親愛なるフランス人民各々の良心が、祖国の新たな時代を築くのです。
 コミューン万歳!フランス万歳!

 ちなみに当時声明文を読み上げたアナウンサーはジャン・エロール=パキ(Jean Hérold-Paquis)という若干28歳の男だった。エロール=パキはその後フランス新体制の第一級アナウンサーとして活躍することとなる。かくして、第一コミューン体制は早くも終焉し、ド=ゴールによる革命防衛委員会独裁が始まることとなった。

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クーデターを祝う労働者。右手に掲げている拳は「社会主義者敬礼」というもので、ドナウにおけるドナウ式敬礼にあたるもの。握った拳は抵抗の象徴だった。

*1:1918年9月に参戦したエチオピア帝国は仏領ジブチを得ることができた。

*2:何故プロレタリア独裁ではなく「労働者と兵士」であるかについては、当時のフランスの一般大衆における貧困なマルクス主義理解、政治的妥協、社会主義煽動家ではなく民衆のダイナミズムを主体とし革命がなされたことなどが指摘されている。いずれにせよ、この文言はフランス社会主義のロシアやドナウとは異なる微妙な立ち位置を示している。

*3:労働者の共助施設。フランスやイタリアで発展したサンディカリズムの形式の一つである。

*4:公安委員長は政府首班。公安委員会主席議長が国家元首

*5:ルクセンブルク条約で保有が禁止されていたが主に植民地では公然と残っていた

*6:戦時における総司令官にあたる。

*7:大衆の支持なきクーデターはクーデター後の体制を不安定にする。ピウスツキのサナツィア体制は常に大衆による支持の欠如に苦しんでいた。