戦間期ポーランド史

ユゼフ・ピウスツキ。ポーランド国防軍の司令官で、1926年にクーデターを起こし「元帥」として支配した。この「サナツィア体制」はフランスのドゴール体制のモデルとなった。

 ポーランド王国はWW1におけるロシア帝国オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊に伴い誕生した真新しい国家だった。ポーランドは主に二つの地域――北部の旧ロシア領と南部の旧二重帝国領で構成されている。ポーランドの国内政治においてはこの二地域の対立が存在した。例えば、北部はポーランド社会党の票田であり南部は農民党の票田であるという点である。社会構造も地域により異なっていた。
 かつてロシア帝国の領土だったポーランド王国北部はワルシャワを中心に文化と産業が発展していた地域だった。そこではプロレタリアートが少なからずおり、左派的な進歩政党であるポーランド社会党を支えていた。一方南部の「ガリツィア」と呼ばれる地域は後進的な地域だった。土地は痩せ、細分化されていたため数多くの貧農がおり、彼らはドイツやドナウへの出稼ぎ労働者を供給していた。それにもかかわらず、土地改革といった進歩的な選択肢には反対しており、農民党は公共事業を南部で行うことで住民の不満を癒し、支持を取り付けていた。またガリツィア東部はポーランド人ではなくウクライナ人が多かった。本来この地域はウクライナへ引き渡すことがWW1の間に独墺で結ばれた秘密協定に定められていたが、二重帝国の崩壊やウクライナ政局の混乱などに乗じてポーランド軍が占拠し、そのままポーランド領のままだった。ウクライナ政府はガリツィア東部奪還を訴える宣伝を繰り返し、ガリツィア東部ではウクライナ人によるテロが起きていた。こうした背景から、ガリツィア東部のポーランド人はポーランド民族ナショナリズムに敏感だった。一方それ以外のポーランド人は民族ナショナリズムにはあまり関心がなかった。ただし例外としてドイツ帝国に住むポーランド人はナショナリズムを研ぎ澄まし、ドイツ人への同化に抵抗していた。ドイツのポーランド人はドイツ経済の恩恵を受けブルジョワ化していたが、ポーランド王国ポーランド人は貧しい経済からブルジョワが育たず、公務員の多くをユダヤ人に依存していた。
 ポーランド王国は戦前の時代からドイツ帝国に労働者を提供し続けていた。WW1開戦直前にはプロイセンの農業労働者の約7割がポーランド人だったといわれる。彼らが戦争で帰国していったことはプロイセン農業に大きな打撃を与え、その影響は戦後も尾を引いていた。

ポーランド王国の成立

 1916年11月5日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世とオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの共同勅令によりポーランド王国の設置が提案された。この勅令をきっかけに現地行政のポーランド化がゆっくりと進み、翌1917年には首相が選ばれ、後のポーランド王を選出するという責務を負う摂政会議が結成された。しかしポーランド王を誰にするかをめぐって独墺二国は激しい駆け引きをしていた。結局二重帝国はオーストリア革命で崩壊してしまい、ホーエンツォレルン家の者が王になる可能性がより濃くなったが、ガリツィア東部を除く住民はハプスブルク家のカール・シュテファン・フォン・エスターライヒ大公の戴冠を支持した*1。こうして新王が宙づりとなってしまい、摂政会議はその後長らく臨時国家元首として居座ることとなった。
 ドイツ軍の支援によりポーランド国防軍が発足し、司令官はヴワディスワフ・シコルスキだった。しかしドイツによるポーランド国防軍は不人気であまり志願兵が集まらなかったのは事実である。ポーランド国防軍オーストリア革命でガリツィアが事実上独立し、旧二重帝国軍のポーランド人部隊が合流したことで強化された。しかし軍内部ではもとからポーランド軍にいた者と旧二重帝国出身の軍人の間で対立が生み出された。

憲法の制定と政治的混乱

 ポーランド王国では憲法の起草が進んでいたが、王が内定していないことから憲法の根幹は未だ決まっていなかった。1919年10月に「名誉ある和平」が結ばれWW1が終結し、いっぽう中欧ではガリツィアがポーランドに合流し国力を回復し始めると、ドイツ政府はポーランド国家建設に本腰を入れざる得なくなってきた。対独協力を拒否し収監されていたポーランド国防軍の元司令官ユゼフ・ピウスツキが釈放され、憲法制定議会の招集を認めてガス抜きを図った。釈放されたピウスツキは当時左派政治家であると人々に認識され、東ガリツィアのウクライナ人農民反乱鎮圧でさらに名を挙げた。WW1直後の混乱のなかポーランドが東ガリツィアを維持できたのはピウスツキの功績が大きい。またピウスツキは南に接するドナウ連邦とのチェシーンにおける国境紛争においても活躍した。
 憲法制定議会では不安定な経済・社会情勢を反映し、穏健派政党を大きく差し置いて農民党解放派が第一党となった。それに保守派の国民民主党社会党、農民党ピアスト派が続いていたが、いずれも得票率は大して変わらなかった。憲法制定議会においては既に国王が決まることはないだろうと見なされ、国王(=摂政会議)に大きな権力を与えず議会中心の国家体制が国民民主党主導で創設された。
 しかし有力与党が出現しないのにもかかわらず議会主義に舵を切ったことは愚策というほかなかった。1922年11月に実施された議会選挙では相変わらず過半数を一党が抑えられず、複数政党による連立政権ができては崩壊していった。経済状況も最悪で、ドイツのパピエルマルクを基にしたポーランド・マルクは価値が暴落し、ハイパーインフレが続いていた。ポーランド王国ドイツ帝国にますます出稼ぎ労働者を送り出し、復員したドイツ人の雇用を奪う形でポーランド経済を支えた。1923年には不況がピークを迎え、雇用を奪われた多くのドイツ人がハンブルクを経由してアメリカやアフリカに移民し、国民の猛烈な不満と抗議に圧されルーデンドルフ体制は7月に崩壊した。ドイツ新首相アルフレート・フォン・ティルピッツはドイツ人の雇用を保護するべくポーランド人の出稼ぎを制限し、大量のポーランド人労働者がポーランド王国に帰国した。この事件は不安定なポーランドをさらなる貧困と混乱に陥れることとなった。
 1926年の3月から4月にかけてポーランド・マルクが再び暴落し、ポーランド経済は危機に陥った。ドイツ政府はポーランド・マルクをドイツのマルク通貨に連動させることでポーランド・マルクの価値を安定させる提案をしたが、これはポーランドの通貨がドイツに隷属することを意味しており、各党は反対した。第一党の国民民主党はデフレ政策と緊縮政策を実行したことによりポーランド国民の生活はますます窮乏した。しかし各党はいずれもデフレ・緊縮政策を取るほかなく、また国民はいずれの政党も見限っていた。

ピウスツキのクーデターとサナツィア体制

 ピウスツキ将軍は1923年に退役し、隠遁生活を送っていた。ピウスツキはドイツ側から警戒人物に指定され、特に国民民主党は彼を嫌っていた。しかしポーランド国内の混乱とイタリアにおけるムッソリーニファシズム体制の建設に影響され、ピウスツキは軍内部と退役軍人のピウスツキ派を頼ってクーデターによる政権奪取を模索し始めた。無論クーデターに対する国民の支持が得られると考えたからだった。
 1926年5月12日にピウスツキ派は蜂起し、14日にはワルシャワを制圧した。ただしこのとき社会党系の労組による協力ではじめてクーデター軍の輸送に成功したという事実は、後々ピウスツキの負い目となる。宗主国のドイツは当然クーデターに対し否定的な態度を取ったが、ポーランドがドイツの経済ヘゲモニーである中欧経済同盟に加盟することと国王にカール・シュテファン大公を据えることをピウスツキが受け入れ、ドイツ軍の介入という事態は避けることができた。ポーランド国王にホーエンツォレルン家でなくハプスブルク家が戴冠したことはピウスツキに対するポーランド国民の支持を取り付けるうえでは有利に働いた*2
 ピウスツキは以前名誉称号である「元帥」を授かっていたことから、自らを元帥と名乗り、議会でも国王でもない第三の権威として支配体制を構築した。これを「サナツィア体制」という。サナツィアは「浄化」を意味するが、これは議会政治時代に積み重なった不正が一掃されたことに由来する。その後ピウスツキはさらに首相と陸軍大臣に就任して体制の基礎を固めた。
 ピウスツキが元帥として権力の座に就いたのは、ピウスツキを左翼の改革者として大衆が認識していたことに加え、過激なサンディカリスト共産主義者の革命を恐れた国内の右派やドイツの思惑がちょうど合致したからである。しかしこれは同時に、ピウスツキが政治的に微妙な立ち位置にいることを意味していた。ピウスツキは数学教授のカジミエシ・バルテルを、ピウスツキ自身の権威と忖度をもって議会を脅し、首相に登用した。ピウスツキの統治を特徴づけていたのは、議会や大衆などに拠らない政治基盤と、テクノクラートと学者、そして軍人の登用である。こうしたある種客観的な人々の登用は、政府の脱議会化と専門化を意味していた。またサナツィア体制では反体制的な勢力は硬軟様々な手段をもって粛清された。特にサンディカリスト共産主義者には激しい弾圧が加えられた。ポーランドを代表する共産主義者のレオ・ヨギヘスは当初ドナウ連邦のオーストリア共産党の支援を頼ったが、結局見捨てられてフランスへ亡命した。軍も粛清され、要職から旧二重帝国軍出身者が締め出された。
 サナツィア体制へのきっかけとなったクーデターは後に「五月革命」と呼ばれることとなり、フランスのドゴールによるクーデターの着想を与えたとされる。しかし後述の通り、サナツィア体制はドゴール体制とは異なり大衆の支持に欠けたものとなっていった。
 サナツィア体制下のポーランドは深刻な数々の社会問題を抱えていた。ポーランドはWW1以来経済的な破壊と不況のどん底にあり、中欧経済同盟に加入したことにより発生したドイツからの投資による工業化をもってしても、人口増加のスピードに追い付いていなかった。国内資源が貧しく資金調達手段が限られていたポーランドにとって、ドイツとそのヘゲモニーに経済的に従属せざるを得なかった。サナツィア体制はその勇ましさの反面「張子の虎」だった。土地改革は不徹底で貴族や地主の所領地が温存された一方、小農民は分割相続により一人当たりの農地が年々縮小し、農業の非効率化と農民の貧困を招いた。またドイツでは農業の商品作物生産と機械化が拡大したのに対し、ポーランドでは大量の農民の存在から機械化が起こらなかった。鉄道インフラも貧弱で化学肥料の使用率も低かった。
 一方ドイツ国内のポーランド人はドイツ人に比べ貧しかったが、着実に豊かになりつつあった。ドイツのポーランド人はドイツ人より低賃金で働きながらナショナリズムを保持し、議会選挙ではポーランド党に投票していた。
 ピウスツキは大衆の支持の欠如に甘んじていた。むしろ大衆の支持を積極的に取り込もうとするのは議会と手を結ばざる得なくなり、ピウスツキはこれをやり抜く自信がなかった。結局サナツィア体制はドイツのヘゲモニーに媚びを売りつつ、学者と官僚集団による統治をし、その正統性をピウスツキの権威で補うという形になった。この不安定な体制は世界恐慌により危機を迎えることとなった。

世界恐慌ポーランド

 ポーランドが抱えていた農村問題は世界恐慌の到来により一気に噴き出すこととなった。農産物の価格は暴落し、ドイツ帝国はより安価なアルゼンチン産の小麦を輸入し始めた。政府はより多くのポーランド人をドイツに出稼ぎ労働者として送り込み、中欧経済圏のさらなる支援を受け取ろうと奔走したが、根本的な解決にはつながらなかった。
 アメリカ産の在庫商品が世界中に破格の値段で輸出されドイツ産業が打撃を受けると、ドイツ本国の工場はポーランドを含むより物価が安い中欧経済圏各国に移転し始めた。不景気に苦しむポーランドにとっては失業者救済の点で願ってもない幸運だった。一方ドイツ本国ではポーランド人労働者とドイツ人労働者が限られた雇用をめぐって争い、大方さらに貧しい生活水準で暮らしより安い給料でも我慢するポーランド人労働者が職にありつけた。こうして多くのドイツ人は職を失い、ファシズム政党の凡ドイツ同盟を中心に反ポーランド人運動が巻き起こった。これに対しドイツのエスタブリッシュメントであるドイツ人貴族、実業家、将軍たちは冷ややかな態度で応じた。彼らエスタブリッシュメントにとってポーランド人出稼ぎ労働者は縁のない存在であり、ドイツの経済負担を緩めてくれる書類上の存在に過ぎなかったのだ。
 こうした反ポーランド人運動に対し、ドイツ東部のポーランド人は「民族急進同盟(ONR)」を創設して対抗した。ONRは議会政党というより政治結社の面が大きく、職のないポーランド人を取り込み民間軍事組織を創設した。これは凡ドイツ同盟の民族突撃隊をモデルにしている。ポーランド党はポーランド人に対する暴力に関して表面的な抗議をするばかりで、ドイツ国内のポーランド人はポーランド党からONRへ支持を移していった。ONRの過激派にはドイツ国内のポーランド人地域分離を訴えるグループがあったが、当時は非現実的と見なされていた。
 ところでポーランド王国のサナツィア体制は不正選挙や野党の弾圧などで体制を何とか維持していた。ピウスツキ派は「超党派政府翼賛ブロック(BBWR)」という政党に所属し、官憲の圧力によりギリギリ第一党を保っているという状況だった。ピウスツキ自身は過激な民族主義に反対しており、ドイツ国内のポーランド人民族運動に対しても軽蔑視していた。一方野党国民民主党民族主義色を強めていき、ドイツ国内のONRとの連帯を躊躇せず、中にはONRのような過激な民族主義ファシズムを唱える議員もいた。
 ピウスツキは議会に重きを置く憲法を改正し、体制の安定化を図ろうとしたが、BBWRは第一党であったが改憲に必要な2/3には届いていなかった。そこでピウスツキは様々な懐柔策を用意してどうにか2/3を集め、1935年4月に改憲案を可決させた。こうして完成した憲法は「四月憲法」と呼ばれ、国王の宰相任命、宰相による拒否権や議会解散権、各大臣の任命権、宰相命令の発布、上院の1/3の指名権が明記され、宰相(かつての首相)に絶大な権力が付与された形となった。この四月憲法はゴーリズムの先駆けとも評され、フランスでも参考になった。またドナウ連邦憲法との関連も指摘されている。
 こうして権力を確立したピウスツキだったが、改憲に成功した翌月の1935年5月に病死してしまった。議会選挙が行われBBWRは総崩れとなり、国民民主党が与党を奪還した。国王カロル・オルブラフト・ハプスブルグ=ロタルィンスキ*3はBBWRに反対はしていなかったが、選挙結果を受けて国民民主党のヴワディスワフ・シコルスキが宰相に任命された。こうしてサナツィア体制は終わりを告げた。

ファシズム体制

 シコルスキはピウスツキの五月革命に抵抗し、1928年に軍部の粛清でドイツに亡命した軍人の一人だった。ドイツでシコルスキはONRに参加しファシズムに影響されたグループに所属し、ポーランド人の民族主義を盛り上げていた。1935年にピウスツキ危篤の報を受けて急遽帰国し、国民民主党に入党した。国民民主党は軍部掌握の観点から軍人であり軍内部の支持も篤いシコルスキを宰相に推した。これには国民民主党内のファシスト民族主義派などの暗躍があった。
 まずシコルスキは金とポーランド・マルクの交換を停止し、金本位制から離脱した。当時はドイツと中欧経済圏のみが金本位制にかたくなにこだわっており、ピウスツキを支えるテクノクラートらは金本位制に反対していた*4。しかしピウスツキ自身はドイツとの関係を鑑みて金本位制にこだわっていた。またシコルスキはサナツィア体制でピウスツキがしたように、敵対政党の弾圧を開始した。
 当時ヨーロッパではフランスにおける新社会主義が、ドナウにおけるドナウ社会主義経済が、イギリスにおけるケインズ経済学が注目されていた。つまり財政出動と政府による信用創造による不景気の対処であったが、ドイツは古典派経済学を頑なに擁護し、中欧経済圏の各国にそれを押し付けていた。これはドイツと中欧経済圏各国の経済的没落につながっていた。先述のようなポーランドにおける経済政策の大転換は、フランスやドナウなどの影響をテクノクラートが受けただけでなく、大衆がドイツに対し反発していたことによるものだった。すなわち、シコルスキのファシズム体制になってはじめて大衆とエスタブリッシュメントが団結する体制が完成したということになる。しかしそれは自転車操業の経済政策と過激な民族主義・排外主義によってなされたものであり、その犠牲も大きかった。
 サナツィア体制はそれ以前の議会体制同様に汚職にまみれていたが、これはファシズム体制でも変わらなかった。しかし政府はナショナリズムを煽り、経済のコーポラティズム化を試みて国民の関心をそらしていた。1936年に成立したドイツの社会民主党政権は「反ファシズム委員会」を設置しファシスト団体を弾圧した。ONRも例外ではなかったが、シコルスキは大量のポーランド人失業者をドイツに送り込むと脅してONR解党を止めさせた。この頃からポーランドはドナウ連邦の軍事支援を受け取り始めた。また一部の過激派は「大ポーランド」を主張し、ドイツ帝国東部やリトアニア白ロシアウクライナ西部を「旧領」として復帰運動を煽った。東ガリツィアではウクライナ系住民との対立が先鋭化し、同じく反独政権として1937年に成立したニキータ・フルシチョフの左派政権とは対立関係にあった。過激化するポーランド民族運動により、リトアニア白ロシアウクライナに住むポーランド人に対する弾圧が起こった。
 さて、ファシズム体制は先に説明したポーランドの社会問題を解決できたかと言えば、ほとんどできなかった。ファシズム体制もまたサナツィア体制と同様に問題を先送りし、抜本的な解決ができなかった。しかし爆発的に増える失業者に対し、ファシズム体制は全体主義国の例にもれず民兵組織を立ち上げ、吸収させていった。しかし軍需産業の拡大という点における経済の全体主義化を見ると、あまり軍需産業は伸びなかった。これはポーランドの産業の未熟さだけでなく軟弱な財政、さらに伸長した産業の多くはドイツ企業の中欧経済圏への移転により成り立ったもので、その多くは民需産業だったという点が理由として挙げられる。民需産業の軍需化が進まなかったためドナウやフランスなどのような外貨不足には見舞われなかったが、こうした事情は大衆だけでなく政権を支えるテクノクラートにまで「ドイツ東部割譲論」を口に出させる結果となった。しかしポーランド軍がドイツ軍を正面から打ち破ることができるわけもなく、またドナウ連邦とルーマニアを除く周辺国をすべて敵に回していたためポーランドは軍事的な恫喝ができなった。当時全体主義各国がアメリカ内戦やスペイン内戦に支援と義勇兵を派遣していたのに対し、内陸国だったこともあってポーランドは支援を一切送ることができなかった。ドイツのオットー・ヴェルス首相はシコルスキに関して「フランスの真似をして空威張りに終始している」と評した。
 1930年代後半、ドイツ国内のポーランド人は反独主義だけでなく新たに反ユダヤ主義の流行がやってきた。これはドイツ国内のポーランド人が豊かになり、中産階級としてユダヤ人と経済的競争関係に入ったことを示し、ポーランド人の経済的成功を示すものだった。しかし未だジリ貧にあるポーランド王国において中産階級は育たず、公務員や知識職はユダヤ人に依存していたため、シコルスキと国民民主党反ユダヤ主義に警戒した。この反ユダヤ主義問題はWW2においてポーランドが統一された際、表面化することとなった。
 1938年には反帝協定に加盟し、正式にドナウ連邦とフランスの同盟国となった。

第二次世界大戦ポーランド領土の「回復」

ドイツ本国の分割。西部はフランスが、南部はドナウが、東部はポーランドが占領し一部併合していった。中央ドイツには「ドイツ民族国」が建設されたが、やがてドナウの傀儡となった。

 1939年、ドナウ連邦軍ユーゴスラビアに侵攻しWW2が始まった。翌1940年春にはフランスがドイツに宣戦布告し、ドイツはドナウとフランスの挟み撃ちに遭った。ドイツ軍はあっけなく粉砕され、議会はドイツ降伏を決定した。戦争に関してポーランドは事前にドナウから何も知らされていなかった。
 フランスがドイツ西部を、ドナウがドイツ南部を占領・併合したように、ポーランドは念願の民族統一を果たすべくドイツ東部への侵攻を伺っていた。しかし降伏後も活動する継戦派*5が東部国境に張り付き、ポーランド軍の侵攻を迎え撃とうとしていた。これに恐れをなしたポーランド軍は、ドイツ東方軍が完全に撤退してから侵攻したが、もうそこにはすでに抵抗する兵士はおらず、事実上無血でエルベ川以東を占領できた。戦後この地域はポーランド領となり、「回復領土」と呼ばれることとなった。
 WW2に枢軸国として参加したため、ポーランドは主に東部戦線において活動することとなった。フランス、ドナウ、ウクライナをはじめとする枢軸国の戦列に加わりロシアへ侵攻したが、その損害は少なからぬものだった。いっぽう「回復」により旧ドイツ帝国ポーランド人と統一した本国では、ドイツ式の反ユダヤ主義が伝わりWW2末期からポグロムが発生した。これにより発生したユダヤ人難民がドナウになだれ込み、ドナウ連邦政府は戦後ユダヤ人のアフリカ移住を行うこととなった。
 WW2終結後正式にポーランドによるエルベ川以東の領有を認められると、同地に住むドイツ人のほとんどが追放された。その多くがドイツ民族国に流入し餓死者まで発生するありさまだったが、ドナウ連邦中枢の理論家ホライ・ルーリンツと凡ドイツ同盟総裁ヘルマン・フォン・ゲーリングの主導で彼らドイツ人難民のアフリカ移住が計画・実行された。こうして移住したドイツ人難民が東アフリカに建てた国家が「ノイプロイセン」である。

*1:一方ガリツィア東部のウクライナ人はカール・シュテファン大公の三男であるヴィルヘルムの戴冠とウクライナ人国家を要求し、ますます混乱に拍車をかけた。

*2:ルーデンドルフ体制からティルピッツ体制に移行し、ホーエンツォレルン家とハプスブルク家の対立が緩和されたことも原因の一つである。

*3:もともとの名前はカール・アルブレヒト・フォン・エスターライヒだったが、1919年にポーランド国籍を取得後ポーランド語風に改名した。初代国王カール・シュテファンの長男である。

*4:戦間期における金本位制をめぐる攻防に関する詳しい解説は「戦間期ドイツ帝国政経史」を参照。

*5:フォン・マンシュタイン率いるドイツ東方軍のこと。