Historia Donaufederaiha

民族、言語、国境。

『ドナウ連邦建国史』用語解説集(更新中)

『ドナウ連邦建国史』は扱っている内容の壮大さだけに特殊な用語が多く、読者を混乱させることも珍しくない。というわけでここに少しずつであるが用語解説を載せていく。ただし兵器や人物に関してはまた別の場所で解説したいと思う。

あ行

か行

革命的社会主義者

WW1末期からオーストリア革命において、国家と戦争に協力する社会民主党主流派に反して労働者のストライキ武装蜂起を訴えた社会主義者。「左派社会主義者」とも。オーストリアでは1918年1月に革命的社会主義者によって発生した1月ストで臨時政府が誕生し、後の帝政打倒につながった。ハンガリーでは二重帝国崩壊後ドイツ帝国の支援によるクーデターで設立したエステルハージ王家に対して、革命的社会主義者とロシア帰りの共産主義者による武装蜂起が発生、王政は打倒されハンガリーは臨時政府に併合された。通常革命的社会主義者は旧二重帝国国内の者を指し、ロシア帰りの社会主義者には呼ばない。

ガリ青年団

フランスコミューンの青少年組織。ドナウのローゼッカ青年団同様に田園教育や技術教育が行われた他、独裁者シャルル・ドゴール元帥への個人崇拝が行われた。「ドゴール」とはガリアを意味するため、ガリ青年団は実質的に「ドゴール青年団」を意味する。

ガリレイサークル

ブダペストにあるハンガリー王立大学にある学生団体で、ドナウの歴史の鍵を握っている。ガリレイサークルは実在し、史実と同様建国史でもハンガリー中の自由主義知識人が集結・交流していた。ドナウ連邦第二代大統領アレクシス・ローゼッカやドナウ連邦のイデオローグであるホライ・ルーリンツなどもこの団体出身である。他にもマルクス主義哲学者ルカーチ・ジェルジや経済人類学者ポラーニ・カーロイなどもガリレイサークル出身だった。ローゼッカは身の回りの重要ポストにガリレイサークル出身者を登用して身を固め、政敵や異なる思想の持主などであってもガリレイサークル出身の場合は基本的に放任していた。

公共生活省

1933年に新設されたドナウ連邦の省で、公団の福祉と管理を目的としている。省下には国営公共建設公団や国有善隣基金信託公団、国営ドナウ余暇公団などの政治的な機関のほか、国営ドゥカ生活公団というスーパーマーケットまである。比較的独立性の強い省でもある。

公団

ドナウ連邦やノイプロイセン東ドイツイタリア社会共和国などのドナウ系の全体主義国が採用している社会システム。公団は事務所、工場といった人間が集団をもって社会に所属する場所で、経済活動のほかに社会福祉や民間防衛を担っている。全体主義革命前は生産と利益が最重要視されていたが、公団では人々が例外なく何らかの仕事をし社会帰属の欲求を満たすことを最重要視している。なお、軍・党・公共機関を除きすべての社会集団は公団化されたため、例えば大学も公団である。多くの場合国有であるが、生産手段を有する公団の場合経営は公団の生産指導者に委任されている。

公団指導者

生産手段の有無にかかわらずすべての公団において存在する公団の最終的責任者。法律上は公共生活省が指名するが、多くの場合党の推薦が必要。

国営ドゥカ生活店公団

ドナウ連邦公共生活省が運営するスーパーマーケット。ウィーンから店が一軒もない僻地まで必ず存在し、特に過疎地域の生活を支えている。食料品の配給はドゥカ公団が優先的に行っている。

国営ドナウ余暇公団

ドナウ連邦における余暇組織で、類似のものは各全体主義国にある。1930年代の経済の全体主義化以降、民生品生産は削減され給料も国債購入に充てられたことで娯楽が不足した。そこで設立された余暇公団は各公団に集団娯楽や旅行サービスを提供し始めた。階級の差がなく平等に楽しめる余暇活動はマルクス主義的な階級観を否定し、ドナウ国民を一致団結させることに貢献した。また国内外の旅行代理店は独占して余暇公団が担っている。

国営公共建設公団

ドナウ連邦における公共生活省の下にある公共建設機関で、もとはドナウ社会主義建設軍団だったがWW2後メドジェイ・ハーニズディル局長の失脚により同公団に格下げされた。失業者向けの短期雇用を提供する雇用調節機関であるが、このほかにもアフリカから移送した黒人収容者の強制労働を秘密裏に行っている。

国民衛兵隊

もとはオーストリア革命における民兵組織だが、ドナウ社会主義労農党の権力掌握と憲法改正以降は法の定める正式な民間防衛戦力となった。民兵組織時代は地域によって掲げる政治性が異なっており、ローゼッカ率いる左派とヒトラー率いる右派による取り込み合戦が行われた。ドナウ党左派が参加する左派連立内閣成立以降はヒトラー率いる右派への弾圧が行われ、1934年6月30日についに保安省と国民衛兵隊左派が右派を襲撃、粛清しヒトラーを亡命に追い込んだ。憲法改正以降は公団システムに組み込まれ、各公団には必ず国民衛兵隊員が防衛指導者として常駐することとなった。また一般隊員とは別に中央には憲兵局、情報局、調査局などの事実上の秘密警察が存在し、保安省と対立関係にあった。

国民衛兵隊憲兵

国民衛兵隊における秩序維持を任務とするが、事実上の秘密警察として活動し保安省と対立した組織。ただし法律上の警察権はない。憲兵局はドナウ党左派の影響下にあり、ハンガリー人シャライ・イムレ憲兵局長はヒトラー率いる右派を弾圧した。シャライが1932年に暗殺されるとチェルニー・ヨーゼフ調査局長が吸収する形で継承し、政治的弾圧だけでなく国境のルーマニア人やセルビア人などへの弾圧も行い始めた。WW2ではチェルニーの盟友コルヴィン・オットー国民衛兵隊司令官に引き継がれた。保安省とは対照的に憲兵局の幹部は常にハンガリー人だった。ちなみに本部はウィーンでなくブダペストにある。

国民衛兵隊情報局

WW2開戦に伴い設置された対外諜報機関。初代局長はチェルニー・ヨーゼフ。保安省と対立関係にある。

国民衛兵隊調査局

国内外の諜報や社会学的情報収集を目的とする国民衛兵隊の一部局。シャライ・イムレ憲兵局長暗殺後に憲兵局を吸収する形で憲兵局に改組。主な局長はチェルニー・ヨーゼフ。

国有傷病基金信託公団

ドナウ連邦における基金であり、事実上の健康保険制度。全公団所属者の給料から強制的に天引きされた資金をもとに運用している。公共生活省の下部組織。

国有善隣基金信託公団

ドナウ連邦における基金貧困層寡婦などに対する支援のために募金活動と募金の管理運用をしている。1930年代の全体主義経済構築期は実質的な国債として募金が事実上強制され、破綻直前のドナウ経済の運転資金となった。この公団は政府・軍・保安省・国民衛兵隊・党からいずれも距離を置いている公共生活省の下にあるため、少なからぬ不明資金があるとされる。

さ行

シュコダ

シュコダ社はボヘミアを拠点とする機械製造の企業で、ドナウ連邦の代表するヨーロッパ最大の機械製造コンツェルンの一つ。1920年代末には約35000人を雇用し、兵器、機械、鉄道、自動車などのありとあらゆる工業製品を生産した。特にシュコダ製の戦車はWW2初期に活躍した。1930年代の公団化によりシュコダは「国有シュコダ公団」となった。ドナウの国策に積極的に関与し、強制収容所での工場やWW2での敗戦国における生産設備の接収、植民地における産業化を行い、WW2後には世界最大の機械製造メーカーとなった。

生産指導者

生産手段を有する公団における経営者。法律上は経済計画局が指名するが、党による推薦があったり実際に任命するのは経済団体だったりする。まれに公団内で民主的に選出する場合がある。

『戦闘車両の戦争』

1934年にドナウ連邦軍のルートヴィヒ・アイマンスベルガー大将が出版した書籍。装甲部隊による電撃戦の基礎を示したとされ、ドナウ国内だけでなく、フランスのシャルル・ドゴールやジャン・フラヴィニ、ドイツのハインツ・グーデリアンなどに影響を与えた。

宣伝啓蒙省

ヨーゼフ・ゲッベルスが初代大臣の文化統制機関。すべての芸術制作者を統一組織に編成し、芸術様式を統制した。主にモダニズムは忌み嫌われゲッベルス曰く「ロマン主義リアリズム」と呼んだ形式や、建築においては新古典主義が好まれた。これに反発した少なからぬ芸術家が亡命した。しかしながら一部分野、例えば音楽についてはウィーン、プラハブダペストにそれぞれスタジオが置かれある程度の多様性を維持した場合もある。

た行

ドナウ社会主義建設軍団

ドナウ連邦における公共建設機関で、大統領府建設局長メドジェイ・ハーニズディルの下、アウトバーン建設などを行い失業者の生活を助けた。しかし軍需体制にうまく参画できず、戦後は分割され公共生活省の下に移された。

ドナウ社会主義労農党

ドナウ連邦の歴史において多くの期間与党の座を占めてきた政党。もとはオーストリア革命において成立した国民衛兵隊をもとにした政党であるが、組織的な統率にかけ、地域ごとに掲げる政治性が全く異なっていた。しかし1920年代にアレクシス・ローゼッカ率いる左派とアドルフ・ヒトラー率いる右派に次第に整理されていき、結局左派が勝利し1933年には憲法改正を成功させた。憲法改正によりドナウ連邦は大幅に中央集権化されたが、このドナウのシステムはドナウ社会主義労農党との相互協力なくては成立せず、以後ドナウの与党であり続けた。
一応国政では唯一野党にキリスト教社会党がいるが、基本的に協力関係にある。ドナウ社会主義労農党の下にはドナウ社会主義建設軍団やドナウ学生同盟などの大衆組織がある。ドナウ社会主義労農党が掲げた政策と哲学は「ドナウィズム」「ドナウ社会主義」と呼ばれ、フランスのゴーリズムとともに全体主義政治の模範となった。

ドナウシュタット

ドナウ連邦の首都ウィーンにおける新市街。ウィーン市を貫くドナウ川より西には旧市街があるのに対し、東にはドナウシュタットという新市街がドナウ連邦建国以来建設された。連邦政府官庁街のほか「連邦広場」と呼ばれる中心広場があり、パレードがしばしば行われる。バロック建築が主流の旧市街に対し、ドナウシュタットは新古典主義建築で名高い。ドナウ語では本来「ドナウスポリ」であるが、なぜかドイツ語である「ドナウシュタット」の名前で呼ばれている。

ドナウ連邦軍

オーストリア臨時政府に所属する民兵団と人民軍(フォルクスベーア)を総合して1920年に成立した軍隊。ドイツ語でBundesarmee、ドナウ語ではFedearmee。陸海空の三軍制であるがドナウ海軍が本格的に成立したのはWW2中である。武力組織としてドナウ政界に影響力を有し、最後までドナウ式敬礼を拒否した。保安省と国民衛兵隊との対立関係にある。

トランスダヌヴィア

ハンガリー語でドゥナーントゥールという、ハンガリー西北部に位置する地域を指す。1933年以降は「上トランスダヌヴィア州」と「下トランスダヌヴィア州」がこれにあたる。1930年代後半からトランスダヌヴィアには一大工業地帯「トランスダヌヴィア・コンビナート」が建設され、ドナウの工業化を推進した。

トランシルヴァニア

ドナウ連邦東部にある歴史上複雑な過去を持つ地域。オーストリア革命から1930年代後半まではドナウ連邦とルーマニアに分割されていたが、1937年に北トランシルヴァニアが、1939年には全域がドナウに割譲された。ドナウ科学アカデミーによるとかつてハンガリー人が東方より到来した際、トランシルヴァニア無人だったが、ルーマニアの公式見解に従えば、トランシルヴァニアには古代からルーマニア人の先祖であるローマ人の末裔が住んでいたとされる。
オーストリア革命当時はハンガリー人、ルーマニア人のほか中世に移住してきたドイツ人が住んでいたが、ルーマニア王国ハンガリー王国による争奪戦の場となった。1920年ドイツ帝国の仲裁により、旧二重帝国の行政区分が定める「小トランシルヴァニア」をルーマニアが、その周りに広がるルーマニア人の多く住む周縁部をハンガリーが治めることとなったが、これは両国に大きな不満を残した。ハンガリー滅亡後もドナウ連邦にこの領土問題は引き継がれた。ルーマニアルーマニア人が住む全地域をトランシルヴァニア(大トランシルヴァニアとも言う)と定め、国内世論を煽っていた。1937年にはフランス・コミューンによるスイス西部割譲の混乱に乗じ、ドナウ連邦はドイツ人・ハンガリー人の多いルーマニア領小トランシルヴァニア北部とルーマニア人の多いドナウ領トランシルヴァニア南部の交換を強い、1939年のドナウによるユーゴスラビア侵攻直後にはルーマニアを武力で脅しつつトランシルヴァニア全域を割譲させた。
このような背景からドナウ連邦とルーマニア王国の関係は険悪であり、国民衛兵隊や保安省などによるドナウ領内ルーマニア人への弾圧、虐殺、強制移住が多発した。ルーマニア人の強制労働と財産没収は自転車操業状態のドナウ経済を支えていた。強制労働と強制移住により生じた「無主の土地」は入植地に指定され、土地に飢えるドナウ人やWW2で困窮した元ドイツ国民が移住した。大トランシルヴァニアにおけるルーマニア人の大部分は結局国外追放されたものの、完全にドナウからいなくなったわけではない。
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濃いオレンジ色がルーマニア領だった小トランシルヴァニア。オレンジ色がルーマニア領とならなかった大トランシルヴァニア

な行

ノイプロイセン

WW2後東アフリカ(旧英領ケニアウガンダと旧独領タンザニア)に建設されたプロイセン出身のドイツ人による入植国家。全体主義国でドナウ連邦の覇権にある。WW2においてオーデル川以東のドイツ帝国東部領土のポーランドへの割譲が決定的となると、そこに住むドイツ人住民が問題となった。ポーランドはドイツ人を拒否し、ポーランドに割譲されないドナウ占領下の後の東ドイツには大量の難民を受け入れる能力はなかったので、ドナウ党イデオローグであるホライ・ルーリンツの提案によりドイツ人のアフリカへの移住が決定した。ドナウ連邦に協力していた旧ドイツ帝国政治団体「凡ドイツ同盟」の臨時代表ヘルマン・フォン・ゲーリングの主導でドイツ人300万人が1946年から1950年までに東アフリカに移住した。そして建設された国家がノイプロイセンである。
ゲーリングはノイプロイセンの総統として君臨した。ノイプロイセン建国の際、現地にいた約560万人の黒人を即時処刑または強制労働刑に追い込みほとんど絶滅させ、ドイツ人の土地を確保した(黒人絶滅作戦)。この作戦はノイプロイセン版国民衛兵隊である「民族突撃隊」とドナウ連邦の保安省によって行われた。こうして建国されたノイプロイセンは白人農業国家としてドナウ経済を支えていたが、建国の経緯からしてノイプロイセン国民はドナウに反抗的であり、1960年代にはドナウ国内の混乱に付け込み一方的に独立した。また政争に敗れた連邦保安省幹部の亡命先として人気である。
プロイセン民族党」による高度な全体主義システムを構築し、世界で最も全体主義的な国家とされている。

は行

東アフリカ社会連邦

WW2によりイギリス植民地帝国が崩壊した結果、東アフリカにあるスーダンウガンダ北部に設置されたドナウの植民地。同じく東アフリカに建国された植民地ノイプロイセンが過剰人口の処分のためならば、東アフリカ社会連邦は資源の収奪を目的としていた。一部地域を除いて入植はされなかったため、ノイプロイセンで見られたような凄惨な原住民虐殺は起こらなかった。ただし戦略的な要所であるドナウポルト(旧称ポートスーダン)、南スーダンにある油田基地、青ナイルと白ナイルに挟まれたニールスマルク(旧称ゲジラ)には旧ドイツ帝国出身者を中心に入植したが、その数は限られた。資源の効率的な採取のため現地勢力と穏当な関係を結ぶべく、現地勢力は自治といった行政機能を開放しており、領内各地の各部族が集まり議会も開催される。ニールスマルクの入植地と南に接するノイプロイセンとは各部族を取り込む合戦が行われ、両者は各々の部族領地に経済的恩恵を与えることで議会工作を図った。現地勢力優先の方針から教育は各部族の宗教教育が許され、貨幣経済は浸透せず、北部に住むムスリムは南部に住む黒人を狩り奴隷とするのも黙認される*1ありさまだった。そのため国防は盤石とはいえず、西からのサンディカリストゲリラの越境を許すこととなった。特産物は小麦粉、綿花、石油、鉄鉱石。貨幣はアフリカ・クローネ。

バナト

ドナウ、ルーマニアユーゴスラビアの国境が交わるドナウ連邦南東部の地域。近世には欧州中から入植者が集まり、中欧で最も複雑な民族分布を持っていた。オーストリア革命ではドナウ、ルーマニアユーゴスラビアに分割され度々国境紛争が発生していたが、WW2でユーゴスラビアが地図から消滅し、ルーマニアはドナウの恫喝に屈したことで1939年に全域がドナウ連邦の支配下になった。当時居住していたセルビア人、ルーマニア人は強制収容所での労働または国外追放された。WW2後は土地不足に苦しむドナウ人や退役軍人、困窮する元ドイツ帝国民が入植した。

フランス人民軍

フランスコミューンの軍事組織。ルクセンブルク講和条約により軍備制限されていたフランスは、人民軍を少数精鋭の軍隊に育て上げ、非正規民兵がそれを支えるシステムを構築した。ドゴールによるクーデター後人民軍は急拡大し、民兵はフランス民兵団として人民軍に従属する武力組織となった。

防衛指導者

すべての公団において存在する民間防衛の指導者。防衛指導者は国民衛兵隊に指名され、定期的に軍事教練を指導し公団の保有する武器の保守管理を行う。

ま行

や行

ら行

連邦保安省

ドナウ連邦における秘密警察・諜報機関で1933年設立。従来の秘密警察は内務省や国民衛兵隊憲兵局などであったが、ローゼッカ大統領は国民衛兵隊の大衆性やより専門的な秘密警察の必要性から新たに保安省の設置を命令した。国民衛兵隊憲兵局はハンガリー人の古参ドナウ社会主義労農党員が多かったことから、保安省は旧オーストリア共和国の警察関係者を登用し政治的バランスを保った。こうした性格から国民衛兵隊とは対立関係にある。また国民衛兵隊と同様に政治犯罪者や国境のルーマニア人、セルビア人などを強制収容所に入れ「囚人経済」を構築していった。これによるノウハウはWW2後のアフリカ植民地建設における黒人の組織的強制労働に繋がっていくこととなった。初代大臣はアルトゥール・ザイス=インクヴァルト

ローゼッカ青年団

ドナウ連邦の青少年組織。既存の様々な青年組織を再編成して誕生した。有名な指導者はバルトゥール・シーラッハ。本来は奉仕活動や技術教育、ワンダーフォーゲルなどの田園教育的な農本主義教育組織だったが、1933年に国家の認める公式な青年組織になって以降アレクシス・ローゼッカ大統領への個人崇拝教育機関の面も目立ち始めた。1939年に全青年の加入が義務付けられると、防空、消火、救護などのような民間防衛組織に変貌した。戦後は見直され、もとの田園教育機関に戻った。

わ行

アルファベット・その他

『Maréchal, nous voilà !』

フランスコミューンの大ヒット音楽であり、独裁者ドゴールのテーマソング。タイトルは「元帥よ、我らはここに!」を意味する。
作詞はアンドレ・モンタガル、作曲はポーランド系フランス公民であるカシミル・オーベルフェルド。なおこれはあくまで非公式のドゴールに対する讃美歌に過ぎず、正式なフランス国歌は『インターナショナル』で、第二国歌は『ラ・マルセイエーズ』。

Maréchal, nous voilà !
もちろん元ネタはヴィシーフランス。

*1:ドナウ国民やドイツ人なども黒人奴隷を利用しており、家政婦や性奴隷、肉体労働者など様々な奴隷がいた。一方ノイプロイセンでは組織的に原住民を奴隷労働力にした。