Historia Donaufederaiha

民族、言語、国境。

ドナウ連邦戦間期政治史(後編)

憲法とドナウ社会主義革命

 ドナウィスト政権はその圧倒的な熱狂をもって迎えられた。街頭の至る所にはドナウィズムを象徴する覇十字とローゼッカの肖像画が掲げられていた。1933年の憲法改正は実際的にはドナウ党単独政権の樹立とローゼッカによる独裁の合法性確保と反対派の牙城であるオーストリア共和国政府の権限剥奪という意味があった。そして票を投じドナウィズムを支持したドナウ国民にとっては、衆愚政治の打倒と指導者ローゼッカへの全面委託の表明を意味する象徴的出来事だった。1933年3月9日午後、ウィーン郊外にある工業都市ヴィーナーノイシュタットに現れたローゼッカは改憲派の勝利と「ドナウ社会主義革命」の開始を宣言した。ローゼッカはウィーンではなく労働者の街ヴィーナーノイシュタットで勝利宣言をしたのである。ヴィーナーノイシュタットはオーストリア革命のきっかけとなった1918年における1月ゼネストの勃発地であり、ドナウ建国ゆかりの地であった。
 左派連立内閣の人事を刷新し新内閣を組織したドナウィスト政権の第一使命は雇用の回復であり、左派連立内閣を超える経済政策が要された。政権発足直後ローゼッカ大統領は全国ラジオ放送にてドナウ国内の全失業者に職を与えること、企業に対し減税措置を執行すること、ドナウの労働形式は賃金だけでなく幸福も与えるものに変革すること――これは「新生活」と呼ばれた――を表明した。大統領府の下に経済再建委員会が設置され、以降は当委員会がドナウ経済を指揮した。初代委員長はヴァルター・グラーフェである。
 前憲法時代はドナウ党の陰で表立たず行われていた政策指揮は、憲法改正により大統領府の強力な権限の下に心置きなくできるようになった。大統領府は既存の保守的な省庁に頼らず、より大統領の強い指導と権威の下に実験的な政策を命令できるようになった。大統領府部局は未来のドナウの支配者が集まっていたのだ。このシステムは行政の強い中央集権化へ導いた。
 左翼連立政権で実績を積んできたヴァルター・グラーフェを委員長とする経済再建委員会を司令塔に次々と意欲的な公共事業が開始された(第一次四か年計画)。代表的な物はユダヤ人資本家のロベルト・フリードレンナー=プレヒトル率いるアウトバーン建設委員会による高速道路建設である。高速道路はフランス・コミューンが1928年に建設開始したパリ=リール間の道路「オートルート」を最初とし、新しい運送システムという面だけでなく、直線高速道路は航空機滑走路の代わりとなるといった軍事的性格が注目されていた。フリードレンナー=プレヒトルによる高速道路建設の主張にローゼッカは公共事業という点だけでなく軍事的な点にも注目し、大統領府の下での建設を命令した。ドナウ連邦の高速道路は「アウトバーン」と呼ばれた。建設に際してはあえて機会による作業を避け、極力人力に頼った。失業者の現象を第一の目的としたからである。
 車がなければ高速道路の意味もない。政権発足以前から上がっていた安価な大衆車構想が政権獲得後にはより具体化し、国民車生産委員会が発足した。当委員会にはフェルディナント・ポルシェをはじめとするドナウ随一の技術者が集合し、最終的にはタトラがT36「フォルクスワーゲン(国民車)」を発表する。中産階級向けの廉価で合理的な自動車は国外にも衝撃を与え、ドイツ帝国の自動車メーカーであるオペルフォルクスワーゲンに対抗し「ライヒスワーゲン(帝国車)」を発表するほどだった。
 資金面に関しては公債が積極的に活用された。グラーフェとローゼッカは国債乱発を支持したが、サース・ラヨシュ大蔵大臣はこれに抗議し辞任した。しかしヴァルガ・イェネー連邦中央銀行(フェデバンク)総裁はドナウの限界支払い能力に迫るほど公債や証券などを発行し、ドナウの財政を不健全化した。ドナウ財政破産の危機を生んでまでも完全雇用達成は急務であった。さもなければドナウ党が民衆の敵として攻撃の標的となる可能性があった。
 これら経済政策と並行しつつドナウィズムに基づく社会システムの改革が上からの指導により行われた。中心的なイデオローグはホライ・ルーリンツであった。企業を廃止し社会保障制度と民間防衛システムを備え民衆の「居場所」という面を強調する公団と呼ばれる組織に置き換えた。公団化の過程で企業の内部留保は公債に交換され、ドナウィズム経済の運転資金となった。単なる経済組織ではなく民衆の必ず所属する生活組織であった公団は、教会や農地といった身の回りのものと積極的に結びつき、ドナウの農本主義を推し進めた。公団化は失業といういかなる秩序からも疎外されることを防ぎ、誰もが常に何らかの組織に所属しドナウ国民共同体を構成する一員とさせた。何らかの組織に所属させるこの政策は特にドナウ国民を安心させ、ドナウィズムに対する忠誠を強固にさせた。以後のドナウ連邦においては公団が基本的な社会組織単位となる。
 ドナウ党が参加した左派連立内閣では農業の機械化を推し進め農業の資本主義化を促したこととは対照的に、1933年以降のドナウ党政権では農家は積極的に保護された。国民の間に強く農本主義的世論があったためである。農務大臣に任命された元共産主義者のランドレル・イェネーが土地分割論者であることが分かると、農民の間を恐怖が襲った。農民の予想外の反発の声にローゼッカは慌てて土地分割の対象は一般農民でないことであることを宣言した。こうして私有農地の権利は保証され土地分割や強制没収を免れたが、ドナウ各地に存在する広大な貴族の所領は容赦なく攻撃され、分割された。ボヘミアのシュヴァルツェンベルク家はドイツ帝国に亡命した。没収された土地は農民に再分配されたり国営農場になったりした。左派連立内閣の農地相続制度改革が凍結されたことにより、相変わらず農地は長男のみが相続することとなり、次男以下は都市労働者になったり軍人になったり社会不安分子となったりした。ドナウ党の農業保護政策では結局農作物の増産には成功しなかった。ドナウ連邦の慢性的な食糧不足はアウタルキー経済構築にとって懸念事項となった。特に旧ハンガリー共和国をはじめとする一部地域では農本主義に反し集団農業が公団や教会などを単位として行われた。
 ドナウィズム経済のような斬新な経済政策は当時ドナウだけでなく経済的に行き詰まったフランス・コミューンでも行われた。ドナウ連邦からイギリスに亡命したピーター・ドルッカーはドナウ連邦やフランス・コミューンなどのような反資本主義的経済システムを「全体主義経済」と定義した。特徴として、ブルジョワ資本主義に対する信頼が完全に失われ、軍や準軍事組織などが従来の企業に代わる社会所属組織とされ、軍需の急激な増大による軍事国家化が見られた。サンディカリズム国家であったフランス・コミューンにおいてはワロニア人のアンリ・ド=マンが中心的イデオローグだった。他方の形式の差はあれ、ドナウとフランス・コミューンをはじめとする全体主義経済採用国は結局外貨不足に起因する対外侵略による収奪に活路を見出すようになる。これがWW2の原因となった。
 失業者を軍隊組織または準軍事組織(国民衛兵隊など)に吸収するにあたり軍需が急増しドナウ国内の工場は消費財を削ってまで軍需製品を製造する必要に見舞われた。これにあたり、消費財消費を喚起させない労働システムへの転換が主導された。むろんこれには上からの主導だけでなく、下からの民衆による反資本主義的な風潮が関係している。配られる賃金の量=消費財消費量によって判断される資本主義経済への信用は世界恐慌により完全に失われていた。むしろ資本主義を憎み、報酬量ではなく労働による精神的な幸福を重んじる「新生活」を積極的に支持した。新生活政策は給料を削る代わりに保養所や慰安旅行などの遊休施設を活用させ、労働に喜びを見出すことを試み、成功した。かつては富裕層の楽しみだった海外旅行が庶民の手にも届くようになった。
 ドナウィズム経済と国民革命の特徴は、庶民が富裕層を攻撃し、その幸福を奪ったという点である。生活水準が一律に統一されたことにより、恐慌で苦しんだ大部分の庶民は生活が改善し、ブルジョワ資本主義の勝ち組だった貴族をはじめとする富裕層は強力な累進課税で資産を失い、庶民並みの生活水準を強いられた。その様子を見て庶民は笑い、貶した。こうして物資の平等と精神的満足の不平等を約束した社会が誕生した。恐慌以降ドナウィズムを支持したのはこの庶民たちであった。
 ドナウ党以外の政治勢力は支持を失い、各社会民主党は一部政治家がドナウ党に寝返ったのち解散した。社会民主党の準軍事組織である護国団は国民衛兵隊の武力の前に戦わずして降伏し、護国団を構成した大部分の団員たちはやすやすと国民衛兵隊に転属した。ブルジョワ保守政党は党本部を国民衛兵隊に焼き討ちされたり幹部が暗殺されたりして壊滅した。1934年にはドナウ連邦における全国政党はドナウ党とキリスト教社会党しか残らなかった。同年、アドルフ・ヒトラーを首領とするドナウ党右派についにとどめが刺された。国民衛兵隊は蜂起して国民衛兵隊右派とドナウ党右派幹部を攻撃し、両者の戦闘が各地で行われた。これによる治安崩壊を口実に旧オーストリア共和国内における地方自治体のドナウ党右派または保守派による執政府は解任された。アドルフ・ヒトラーは命からがら国外亡命し、ドイツ帝国ミュンヘンにて記者会見を開きローゼッカを批判した。結局ヒトラーは身の危険を受け南米のアルゼンチンに亡命し、そのまま客死した。キリスト教社会党を除くローゼッカの敵を一掃したドナウ党だったが、国民はあくまでも若者を除いて消極的且つ受動的にドナウ党を支持していたのは興味深い事実である。ドルッカーは、ドナウ国民は仕方なくドナウ党を選ばざる得なかった、ほかにブルジョワ民主主義と資本主義を否定する政党がなかったのだ、と述べている。
 キリスト教社会党はドナウ党に代わりえる最大のライバルであった。しかしドナウ社会主義革命の過程で公団をはじめとする草の根社会共同体に教会が活用されると、キリスト教社会党をドナウィズムに協力させ取り込む可能性が出てきた。もちろん、キリスト教社会党の準軍事組織を解体、国民衛兵隊に統合させクルト・シュシュニクは失脚、ドルフーズは暗殺された。こうしてドナウ党は事実上一党独裁を達成した。
 1934年4月8日には正式に全労働組合の公団への発展的統合に関する大統領令が公布された。これにより公団は単なる企業や工場などの生産主体から人民の生活主体に変化することがより明確になった。
 さらに、1934年の国民衛兵隊右派粛清以降、国民衛兵隊に関する方針を転換して民兵組織から準軍事組織への転換を図った。もとはといえば国民衛兵隊右派の存在は国民衛兵隊の統制不足によるものであり、市井の一般市民が自由に寄り合い参加していたことから偶発的な衝突も少なくなかった。そこで国民衛兵隊の一般隊員は大幅に削減され、アウトバーン建設や補助警察官などに斡旋された。ただし国民衛兵隊憲兵局と情報局はその例外だった。この二局はドナウ連邦の秘密警察の一つとして成長することとなる。
 国民衛兵隊改組の結果、国民衛兵隊は秘密警察部門を除いて公団の武装化に努めた。全ドナウ国民が所属する公団を武装化することにより民間防衛を強化することを試みたが、最新の武器は連邦軍に優先的に配備されたため公団に配備された小銃は19世紀時代のものも珍しくなかった。一説にはローゼッカは当時「ハリネズミ国家」と言われたフランス・コミューンの民間防衛をモデルにしたともいわれている。国防能力を高めるという本来の目的は果たせなかったが、公団の武装化を通じて軍事訓練が行われ、人民に規律を与えて無秩序を防いだ。例外なく無秩序を潰し何らかの秩序に動員することはドナウィズムにおいて最も注意の払われたことである。
 また、戦間期ドナウ連邦の経済の詳細については「戦間期全体主義下の経済」で解説予定。
 

秘密警察の成長

 それまでドナウ党は「汚れ仕事」をもっぱら国民衛兵隊に任せていた。しかし先に述べたように国民衛兵隊の過度な大衆的性格が問題となり、「汚れ仕事」をより専門的に隠密に行うことが求められた。反体制派政党の弾圧が完了すると、「汚れ仕事」は主に民族問題や防諜などに移行した。こうしたことから、1933年に連邦政府において「連邦保安省」が設立された。
 保安省はこれまでの党や国民衛兵隊などとは違い、結成メンバーにほとんど党・国民衛兵隊古参がいない新鮮な組織だった。保安省職員は主にドナウ連邦中の警察関係者で構成され、指導者にはほとんど無名の非古参党員が当てられた。保安省指導部にハンガリー人があまりおらずドイツ人が多いのは活躍の場をハンガリー人に奪われていた結果経歴が「清潔」なドイツ人若手党員が当てられたからである。連邦保安省の初代大臣にはアルトゥール・ザイス=インクワルトが任命されたが、ザイス=インクワルトは後に新たに「長官」職を設け自身がそれを務めることで、ローゼッカによる罷免権を避けて事実上政治的に独立するに成功した。
 しかし「古参党員」を用いないという政治的にアンバランスな配置に対し古参が数多く参加する国民衛兵隊は警戒し、結局「汚れ仕事」は保安省と国民衛兵隊が二手に分かれて行うこととなる、それにもかかわらず、「汚れ仕事」の処理方針は両者とも大差なく、却ってウィーンの宮廷政治闘争を泥沼化させるだけだった。
 オーストリア革命とそれに続くドナウ革命戦争の結果トランシルヴァニアは南北に分断され、北はドナウ、南はルーマニアが統治していた。しかし1937年、ドナウ連邦とルーマニア間で民族的緊張が起き、大統領府に「ルーマニア問題委員会」が結成された。ルーマニア問題委員会は建前上少数民族であるルーマニア人の利益を尊重する存在だったが、それは無論事実に反した。議長のオディロ・グロボクニクは保安省幹部であり、ルーマニア人を徹底的に弾圧していたのも保安省だった。
 結局1938年にルーマニアはドナウの圧力に屈し、南トランシルヴァニアはドナウに割譲された。この際ルーマニア国内のドイツ人とハンガリー人はドナウへ、ドナウ連邦内のルーマニア人はルーマニアへ交換移住することが定められたが、移住する人数を比べるとドナウ連邦を発つルーマニア人のほうが明らかに多かった。結局ルーマニア人全員が国外移住したわけではなく、北トランシルヴァニアに多いカトリックルーマニア人は「自発的意思」で国内に残った。彼らはカトリック教会により保護されたが、正教徒のルーマニア人は市民権を失い、保安省により強制収容所に移送された。そこでルーマニア人正教徒は無賃労働に従事した後、財産をほとんど接収されてルーマニアへ国外追放された。
 この一連の弾圧でドナウ政府は追放ルーマニア人の貴金属を接収し、国債の乱発で火の車だった外貨残高に当てた。保安省はこれにより強制収容所経営のノウハウを学び、以降ドナウ連邦では国民衛兵隊も含め強制収容所が多用されることとなる。またルーマニア人がいなくなったため人口過密な中欧に「無主の土地」が誕生した。一連の農本主義政策により慢性的な土地不足に見舞われていたドナウ農民にとって朗報だった。また同年、フランス・コミューンも似たような手口でスイス西部を併合し、つきかけの外貨の足しを得た。
 一方国民衛兵隊に関しては、秘密警察部門である憲兵局を司っていたシャライ・イムレが1932年にヒトラー派に暗殺されると、それまでほとんど権限を持っていなかった調査局のチェルニー・ヨーゼフが新たに調査局を憲兵局に改組し局長となった。チェルニー・ヨーゼフはWW2において国民衛兵隊の対外諜報組織である情報局を結成し、ローゼッカからさえも恐れられることとなる。新たに憲兵局副局長となったオットー・コルヴィンはWW2において国民衛兵隊総司令官となり、チェルニーとともに国民衛兵隊を支配した。国民衛兵隊はWW2においてセルビアの占領を担当し、保安省と同様強制収容所を用いた苛烈な支配を行った。
 

外交戦

 憲法改正以前から外務大臣だったエドヴァルト・ベネシュはドナウはドイツの掲げる中欧の一傀儡ではないことを示すべく独自外交を展開した。しかしながらベネシュは武力を用いた恫喝や領土拡大などには反対であり、1938年にはローゼッカにより退任させられた。後任は開戦も辞さない強硬派のドイツ人ヘルマン・ノイバッハーだった。
 ドゴールによる権力掌握以降、フランス・コミューンは建前上サンディカリスト国家を謳いつつも、実際には好戦的な全体主義国家となった。「反帝国主義」という建前でドイツの覇権を切り崩しドイツに対しての復讐を企てていた。目的のためにはサンディカリストファシストも含める諸派の団結を認める「人民戦線」を採択後、フランス・コミューンはドナウに急速接近してきた。1937年にはフランス・コミューンのピエール・ラヴァル外相とドナウのエドヴァルト・ベネシュ外相の間に「仏ド反帝協定」が樹立され、帝国主義への対決姿勢を明らかにした。当時のフランス・コミューンとドナウによる反帝国主義とは「持たざる国」による植民地保有国への妬みに他ならなかった。それを裏付けるように、WW2の勝利後ドナウ連邦はアフリカ各地に植民地を建設することとなった。同年に君主制国家である日本も反帝協定に加盟した。1939年には軍部が実権を握ったポーランド、人民戦線が勝利したスペイン、反独左翼政権の支配するウクライナ、そして日本の傀儡である満州国がが反帝協定に加盟した。反帝協定はドイツにとって脅威にほかならず、それはイギリスに対しても同様だったが、相変わらずイギリスは宥和政策に固執した。
 世界恐慌以後、中欧各地で農業の換金作物生産に対する反発が発生したり1935-6年には凶作が起きたりしたこともあり、ドイツ帝国中欧諸国ではなく南米からより安い作物を輸入し始めた。今までドイツの凡ヨーロッパ経済覇権である中欧経済同盟に加盟し対独依存を高めていった中欧諸国にとってはこれ以上ない理不尽な事件だった。既に中欧経済同盟を離脱したウクライナ・コミューン、ポーランド共和国、フランス・コミューンの被害は軽微だったが、それ以外の中小の中欧諸国にとっては大打撃であり、これで一気にドイツ離れが進んだ。1937年までにドナウ連邦はルーマニアブルガリアユーゴスラビアギリシャオスマン帝国の売れ残った穀物を買い取りドナウ連邦の新興工業製品を売り込む協定を結び、これらの国をドイツから引きはがした。
 こうした傾向はドナウのほかにイタリアにもみられ、旧協商国という立場からドイツ市場から締め出されたイタリアは南ヨーロッパに積極的に関与し、ドナウと同じように自国の製品を売り込んだ。特に介入したのがユーゴスラビアアルバニアで、ユーゴスラビアオーストリア革命に伴う戦争でイタリアとともにドナウに抗したことからも友好関係を築くことができた。しかし1939年4月のアルバニア侵攻でイタリアの侵略的野心が明らかとなると、ユーゴスラビアは一転してギリシャのような中立化政策に努めたが、既にドナウとイタリアへの経済的依存を解消できなかった。
 ベネシュは親仏派だったが、これはあくまでも対独依存の脱却という目的の上での立場であり、フランス・コミューンと親密になりすぎることには反対した。独立外交というベネシュの方針としてはフランスへの過度な依存は避けていた。しかし、ドナウ外交が次第に軍事的な性格を帯びてくると、ドナウ国内の開戦派はドイツに対抗するためフランス・コミューンとの軍事同盟を画策した。その代表的人物がヘルマン・ノイバッハーだった。ノイバッハーの主導により、先ほどの反帝協定にさらに参戦条項を加えた「仏ド日三国同盟」が1940年に締結された。しかし実際に戦争が勃発するとノイバッハーは外交的実権をほとんど失うこととなる。
 

軍事国家化と宥和政策

 1935年にフランス・コミューンは公式に再軍備宣言をし軍拡の意思をはっきりさせる以前から、ドナウ連邦は軍拡に努めた。これは単なる国防能力の向上だけでなく、失業者を兵隊として吸収する意図があった。
 オーストリア革命にともなうドナウ戦争においてフランス軍が軍事顧問団を提供したことをきっかけにフランス軍とドナウ軍の間には友好関係があった。そのためフランス再軍備宣言以前からフランス軍はドナウ国内で戦車を開発したりパイロット学校を開設したりしてドイツに対して再軍備を隠していた。例えばドナウ軍が開発を放棄した戦車案がフランス・コミューンに渡り歩兵戦闘車として開発、生産された事例がある。
 こうした動きを受けてドイツ帝国は1935年4月に対仏軍縮連帯を呼びかけた。イタリアのストレーザにてドイツ、イギリス、イタリア、ドナウの4国が集合し対仏講和条約の再確認がされた。しかし実際には、ドイツ以外の参加国であるイギリス、イタリア、ドナウはドイツという共通の仮想敵があり、フランスの武装はむしろ好都合だと受け取っていた。そのためその2か月後にイギリスは英仏海軍協定を締結し早速ストレーザ戦線は破綻した。このあっけないドイツの対仏イニシアチブの破綻の裏には、ドイツによる搾取的な国際貿易システムに対する諸国の不満があったとされている。しかしこの英仏海軍条約も1939年4月にフランス・コミューンにより一方的に破棄された。
 ドナウ連邦よりもさらに失業者を抱えていたフランス・コミューンはドナウ同様軍事国家化により危機を脱出しようとしていた。フランス再軍備宣言により徴兵制が解禁されると早速失業者をフランス人民軍に加入させた。1940年の対独開戦直前には210万人がフランス軍に所属していたとされる。その後世界大戦を戦い抜くには確かに兵力不足だったが、ドイツからのフランス人地域奪還により480万人のフランス語話者がフランス国民に組み入れられてフランス軍の兵力を支えることとなった。
 1938年に、フランス・コミューンはスイス西部のフランス人地域の割譲を要求した。これはフランス軍の兵力不足解決に加え底をつきかけていた保有外貨を略奪する意図があった。当時のスイスはフランス系住民とドイツ系住民の民族対立が激化し、「国民連合」を率いるジョルジュ・オルトラマーレはスイス西部のフランスへの併合を主張した。暴動や暗殺、国民投票の否決が繰り返されスイスは半ば無政府状態に陥っていた。
 1938年4月末、いくつかの暴動と反乱が発生しスイス軍と激しく衝突した。既にフランス系住民は中央政府に離反し独自に武装しており(全人民防衛理論)、徐々に内戦の様相を帯びてきた。これを好機としたドゴールは総動員令を発し、スイスとドイツ国境にフランス人民軍が集結し、開戦危機が高まった。当時内戦中のアメリカでも同情的に受け止められ、アメリカ・サンディカリスト国はスイス・フランス人への連帯を表明した。
 1938年9月29日、ドイツのミュンヘンでスイス危機に関する会談が行われた。参加国はドイツ、イギリス、イタリア、ドナウの4か国で当事者であるスイスの参加は許されなかった。翌30日にスイス西部の割譲が決定された。イギリスの保守党代表チェンバレンは今後フランス・コミューンの問題に関して必ず同席するという確約を得たことと戦争を回避したことをもってイギリスの外交的勝利であると見なした。当時はいまだWW1の記憶から戦争反対の世論が強かった。WW1に勝利したドイツでさえメディアは反戦一色だった。この会談直後速やかにフランス人民軍はスイス西部のカントンに進駐した。
 同じく1938年ドナウ連邦はトランシルヴァニア南部を併合した。ドイツはただ指をくわえて見ているしかなく、ドイツの外交的敗北ははっきりしていた。
 ミュンヘン会議以降スイスは事実上フランスの保護国となった。産業の多くを軍需に切り替え外貨不足に陥ったフランス・コミューンにとって、割譲されなかった東スイスによる貿易で得られる利益は貴重な外貨収入源だった。ミュンヘン会議によるスイス西部割譲はフランス・コミューンを確かに延命させたが、いずれにせよフランス・コミューンをはじめとする全体主義による軍事経済国家にとっては既にその破綻は決まっており、その前に戦争で他国の資源を奪うしかなかった。
 

「新生活」の内幕

 理論的には、新生活の最終目的とは全人民を例外なくアレクシス・ローゼッカ大統領の指導の下にし、全人民を統一させることにより階級闘争民族自決などをはじめとするマルクス主義理論を実践的に反証することだった。具体的手段としては公団化が挙げられるが、公団とは単なる党や政府などによる生産手段の掌握ではなく、ドナウ社会主義革命前の一切の社会組織を置き換える革命的手段であるということは忘れてはならない。労働組合はもちろん、街の個人的な楽団に至るまで強制的に公団化された。むろんそのまま公団化されるのではなく、例外なく全国団体に所属させ、ドナウ社会主義労農党の統制下に置いた。地方のカトリック教会関係に関してはドナウ社会主義労農党ではなくキリスト教社会党系の全国団体があったが、これも事実上ドナウ社会主義労農党の統制下にあった。
 一般庶民にとっては公団化により集団娯楽が増えたことが最も目に見えた変化だった。公団化に伴い公団の福祉を統括する公共生活省が設置され、その下に「国営ドナウ余暇公団」が設立された。余暇公団は公団のレクリエーション事業を一手に管轄し、ドナウ国民に資本主義時代には到底ありえなかった格安価格で娯楽を提供した。例えばギリシャへのクルーズ旅行などが挙げられた。国営ドナウ余暇公団は国庫予算から独立し、独自に資金を調達していた。公団所属者(すなわち全国民)からの献金だけでなく、余暇公団が運営する工場から生産された製品の輸出や、果ては不法手段による資金調達もあった。いずれにせよ、国営ドナウ余暇公団が終始強い政治的独立性と権限を維持したことは確かである。
 工場や事務所などの生産手段のみならず、大学や教会などの一切の社会的な集団は公団化され、統制下に置かれた。ドナウ学生公団、ドナウ社会主義年金生活者全国公団など挙げればキリがないが、唯一の例外はドナウ連邦軍だった。退役軍人も含めドナウ連邦軍は一切の公団化を拒否し政治的独立を最後まで維持した。
 ヨーゼフ・ゲッベルス率いる宣伝省でドナウ社会主義の成果が宣伝され集団余暇が歓迎された一方で、ドナウ国民の生活は明らかに窮乏していた。軍需生産を支えるため民需生産を削り外貨不足で食糧輸入が制限されたことで、食糧配給はますます減少した。家畜に至っては牧草が足りなくなり、やむなく通常より早めに屠殺するを余儀なくされた年もあった。
 少しでも食糧事情を改善するために、国境付近のルーマニア人やセルビア人などを強制収容所に入れて必要最低限の食糧しか与えないことで少しでも食糧の余裕を増やそうとした。こうした苦い経験はWW2戦後の植民地建設につながることとなる。
 

ドナウ連邦のスポーツ

 ドナウ連邦はもともとスポーツが盛んだったが、憲法改正でドナウ社会主義労農党が本格的に権力を握ってからは身近な娯楽としてスポーツが推奨され、特に青少年教育でも積極的に取り入れられた。公団においても月に一度の娯楽イベントはだいたいサッカーだった。時代はやや遡るが、1920年代にはドナウ代表サッカー選手ヨーゼフ・ウリディールが熱狂的な人気を誇り、『今日プレーするのはウリディール』という応援歌が作られたほどだった。様々な民族が混合したドナウ代表サッカーチームの活躍はドナウ国民を鼓舞し、国民形成に一役買った。そのほかにもマティアス・ジンデラル選手が人気を誇った。
 ドナウ連邦建国以降、今まで顧みられなかった辺境のアルプス地方に観光開発ブームが訪れ、リゾートが開発された。これはドナウ社会主義労農党の権力掌握後も変わらず、ドイツから観光客が来て優秀な外貨収入源となった。たびたびドイツ国内では禁止令が出されたほどだったが、そのたびにドイツ帝国国民は法の抜け穴をかいくぐってドナウのアルプス旅行を楽しんだという。
 全体主義経済になり公団が組織されると、アルプス山脈におけるスキー旅行が冬季における集団余暇の定番となった。このこともあってか、ドナウ連邦は以後冬季オリンピックのメダル常連国となる。
 

教育改革

 オーストリア革命では帝国時代におけるエリートと非エリートの落差の激しい教育制度が否定され、社会民主主義者により可能な限り階級差別のない普遍的な教育制度が構築された。ドナウィズム統治においても基本的にこの方針を踏襲していたが、ドナウィズム政府はこれにさらにローゼッカへの忠誠を加え、ドナウ語教育をさらに強化した。それまでドナウ語教育はミッテルシューレ(中等学校)から始めていたが、ハウプトシューレ(小学校)からのドナウ語教育が設定された。
 1930年代のドナウ連邦において、子供はドナウ社会主義革命の最も忠実なる支持者であり、ローゼッカを最も愛していた。党は子供の純粋さに付け込み、政治的教育を行った。ドナウ党青年組織であるローゼッカ青年団への加入が強制となり、子供たちは放課後必ず「ローゼッカ青年団」の集まりに参加し、楽しいレクリエーションを交えながら父なるローゼッカ大統領への忠誠を説かれ、集団規律の尊さを身をもって学んだ。こうした政治教育を受けた子供たちは親類さえも容赦なく密告するドナウィズムの狂戦士となっていった。このようなローゼッカ青年団を設計し支配したのがドイツ帝国出身のバルトゥール・フォン・シーラッハだった。
 子供たちに個人主義ではなく集団主義のすばらしさを伝える教育の一環として、ローゼッカ青年団を通じた勤労奉仕が行われた。アウトバーン建設から集団農場の手伝いまで様々な場所に動員されたが、これは褒賞の必要ない安価な労働という他にも幅広い職業訓練という面もあった。この時代に教育を受けた世代のほとんどは簡単な機械修理と農作業を習得していた。戦争中人手不足が深刻化するとサーチライトの操作といった防空助手にまで従事した。
 

1930年代を代表する巨大公共事業

 失業者対策としてアウトバーンをはじめとする巨大公共事業を行ったことは既に述べたとおりであるが、ここではアウトバーンのほかにも代表的な公共事業について列挙したい。
 イストリア要塞線はドナウ=イタリア間国境地帯の一つであるイストリア半島に建設された要塞線である。オーストリア革命直後のイタリアとの戦争の結果、何とかドナウは海港を維持したもののイストリア半島は複雑に入り組む形でイタリアとドナウに分割された。イストリア半島はドナウ=イタリア国境において数少ない平原地帯でありイタリア軍の侵入が予想されたため、1938年に中立地帯に沿う形で要塞線が建設された。ドナウの数少ない港であるポーラとリエカの要塞化もこのとき行われた。
 トランスダヌヴィアコンビナートは1930年代の工業化事業として計画、建設されたドナウの最大の工業地帯である。ドナウ連邦の工業の問題点として交通インフラの未整備や割高な輸送コストが挙げられた。そこで港に比較的近いトランスダヌヴィアに一大工業地帯を築くことが第一次四か年計画で提唱、計画された。具体的にはウィーン、ブダペスト、ムラソンバトを頂点として結んだ三角形のなかであり、この地域にはドナウ川と海へつながる鉄道のほかに油田や炭田などが揃っていた。当時は既に北ボヘミアに世界有数の工業地帯があったが、輸出ルートがドイツを経由するものだったため安全保障上問題だった。ドイツに依存しない独自輸出ルートの創設はドナウの対独独立政策のうち重要な位置を占めた。こうして建設された一連の工業地帯は「トランスダヌヴィアコンビナート」と呼ばれた。また、トランスダヌヴィアコンビナートはWW2中においてもときどき爆撃を受けつつ他の地域からの工場疎開や新規工場建設などがなされ、ドイツ降伏後はドイツにおける工業技術者を大量に連行しこの地に移住させた。トランスダヌヴィアコンビナートには複数の近代的な工業都市が建設され、その後ドナウでもっとも人口密度が高い地域になった。
 シェヴェヒャート飛行場はウィーン郊外に建設された飛行場である。第一次四か年計画では来たる航空戦に向けた国内空軍施設の充実が掲げられ、軍民共同でパイロット育成に努めた。シェヴェヒャート飛行場もその一環で、戦後には「ヨーゼフ・ラデツキー国際空港」に名を変えて中欧ハブ空港になった。
 ドナウシュタットはウィーンの東に流れるドナウ川をはさんだ向こう側の地区を指す。オーストリア革命当時はわずかな住宅しかなかったが、ドナウ連邦成立直後からドナウシュタットを新興地区とする都市計画が策定された。1930年代に入るとドナウシュタットに新たな官庁街や巨大広場などを設定する計画が追加された。こうして古風な住宅が並ぶドナウ川西側のウィーンとは対照的にドナウ川東側のドナウシュタットには近代的な街が建設された。以降毎年の閲兵式はドナウシュタット中心部の「連邦広場」で行われることとなった。ドナウシュタット建設計画に関してはペーター・コラーが指導的地位に立った。