オーストリア革命史(前編)

後編はこちら。
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1月スト

 年が変わり1918年1月、二重帝国はさらなる苦境に立たされていた。将校・食糧不足、前線兵士の疲労などの問題は解決されることなく一層悪化していた。国内で散発していた暴動、銃後の兵士反乱、ストライキ、そして餓死は日常茶飯事となった。
 1月14日に勃発した通称「1月スト」もその小騒乱の一つとなるはずであった。1月ストそのものに特別な特徴は以下の2つを除いてない。1つに、75万人という空前絶後の数の労働者が参加したこと、もう1つは全くの偶然により臨時政府が結成されたことである。
 1月14日、小麦配給の削減に反発した労働者が、既にスト拠点の常連だったヴィーナーノイシュタットを拠点にストライキを開始、瞬く間にオーストリアモラビアに広がった。ストライキの速やかな終結を望んだ社民党指導部をよそに、戦争終結を望む革命的社会主義者による檄文ビラが撒かれストライキは加熱、16日にはウィーンのアーセナル地区で『人民よ蜂起せよ!』が発表された。『人民よ蜂起せよ!』は戦争の即時終結、対露講和条約における普通選挙による代表選出、戦争経済の即時解体、F・アドラーの釈放のほか、ストライキ参加を見合わせていたチェコ社民党支配下ボヘミア労働者のスト参加を要求した。これは事実上1月ストにおける労働者の要求事項であると見なされた。また、ストを抑制する社民党民族主義によりスト参加を拒んだチェコ社民党を批判するものだった。
 これに応えるように翌17日にはボヘミアハンガリーストライキが波及した。ボヘミアに関しては、チェコ社民党の管理外に起こった完全なる労働者主体のストだった。ハンガリーハンガリー社民党の指導下で行われたが、オーストリアのストとは異なり、反戦のほかに普通選挙実施が労働者だけでなくハンガリー社民党の要求にあった。ハンガリー社民党は1月スト直前の1月6日に自由主義者カーロイ・ミハイ伯のカーロイ党と普選実施の共同戦線を張ることに合意したが、1912年5月の「血の木曜日事件」で党が弾圧されたトラウマもあり、オーストリア社民党同様、政府との妥協によるスト早期終結を望んでいた。
 整理すると、1月ストにおいて国内の勢力は二つに大別できる。一つは戦争の即時終結を望む左派的で行動的な革命的社会主義者たる現場労働者。もう一つは戦争より先にストの終結を望む社民党指導部。そしてその社民党においても、オーストリア社民党のほかに、戦争終結よりチェコ民族主義を煽るチェコ社民党と、戦争終結よりもまずは普通選挙実施を掲げるハンガリー社民党に分かれる。1月ストではチェコ社民党は反ウィーンの民族主義から1月スト参加をしないように指令したのにもかかわらず、チェコ社民党支配下ボヘミアにおける革命的社会主義者たる労働者らはスト参加を強行した。チェコ社民党民族主義方針は明らかに揺らいでいたが、この動きはあくまでもボヘミアの革命的社会主義者チェコ民族主義を放棄したわけではなく、民族主義反戦の優先順位を変えたに過ぎないことは、忘れてはならない。
 1月19日、社民党指導部の一人であり、スト終結を誰よりも望んでいたヴィクトル・アドラーがウィーン・アーセナルに到着、革命的社会主義者の労働者らと会談した。労働者はアドラーがスト終結の説得をすると予想していたし、実際にそうだった。アドラーはストの混乱に乗じドイツが介入しかねないことを語り、諭した。労働者らは牢獄にいるフリードリヒ・アドラーの父親たるヴィクトル・アドラーが複雑な状況に置かれていたことはよく理解していたが、ストの終結・中止には反対した。そのとき、誰かがアドラーに向かって叫んだ――「この裏切り者!」。この一声を皮切りに労働者らは一斉に不満をぶちまけた。無論、アドラーに非はなく、アドラーもまた祖国を憂う愛国者であることに変わりはなかったが、飢餓と過労により疲弊した労働者の怒りは止まらなかった。アドラーの恐れていた事態が始まった。身の危険を感じたアドラーがその場を立ち去ろうとしたとき、何者かがアドラーを銃撃した。アドラーはその場で絶命した。いったい誰がアドラーを射殺したのか、今日でも明らかになっていないが、犯人捜しが始まる前に銃声とともにアーセナル地区の労働者の狂的な怒りは爆発した。すぐさまアーセナル地区は無政府状態に突入した。
 アーセナルを起点にウィーンでは街頭にて労働者が蜂起、暴動が始まった。当時の労働者レーテ指導者だった人物も、後に「私とても制御不能だった」と語ったほどだった。「戦争を止めろ!」「パンをよこせ!」「フリードリヒを釈放しろ!」叫びながらと労働者は隊列を組み行進し始め、ヴィーナーノイシュタットでもウィーンへ向かう行進が始まった。郷里兵(3‐40代の元兵士で構成される予備軍)が鎮圧にあたり射撃し、死者が発生したが、同胞の血を見た郷里兵はその後鎮圧命令を拒否し、労働者側に加わった。
 最大幹部の一人であるアドラーを亡くした社民党指導部は動揺し、労働者側へ妥協的に懐柔することを決定、シュトラウセンベルク将軍が「ウィーンは鎮圧不可能」と皇帝に述べた20日に、皇帝側と連絡を取りつつ治安収集のために臨時政府を結成した。この臨時政府の目的は帝国政府の秩序を離れたウィーンなど各都市を懐柔、掌握し完全な無政府状態を回避するとともに、ドイツに介入する理由を与えないことだった。そのため、この臨時政府はケレンスキーの臨時政府とは異なり、皇帝と帝国政府との連携を密にしており、最終的には帝国政府への合流を目論んでいた。しかし、この臨時政府結成が二重帝国分裂の契機となったことは認めざるを得ない。翌21日にはチェコ社民党によりプラハでも臨時政府が結成されたのだ。
 皇帝カールは密かにウィーンを脱出しブダペストのゲデレー宮殿へと逃れた。
 1月20日、ウィーン、ヴィーナーノイシュタット、スチリアのカップフェンベルク、モラビアのブリュンの都市で労働者レーテが正式に行政権を掌握し、臨時政府に加わった。クラクフでも労働者が蜂起したが速やかに鎮圧された。ウィーンにおいて兵士レーテが結成されたが、この頃はまだウィーン駐屯部隊の多くは加わっていないかった。郷里兵などは略奪を防ぐべく官庁街や高級住宅街を中心に警備していた。プラハでは労働者ラダが結成された。自然発生的なストにおける労働者を秩序付けるのに主要な役割を果たしたのがウィーンの「左派行動委員会」だった。
 ハンガリーにおいては、スト4日後の20日社民党ハンガリー王国政府代表ヴェルケレ首相の交渉がまとまり、普選実施の確約と引き換えにハンガリー社民党はスト終結を命令した。これに対し、少数派ながらも革命的社会主義者らは反発、17日に労働者タナーチ(評議会)が結成されたブダペスト、セゲド、ナジカニジャだけでなく、各地方都市にも労働者タナーチが結成された。タナーチは革命的社会主義者の砦だった。しかしながらウィーンのような恐慌状態には陥らず、ストは収束し始めた。しかしながら各都市の労働者タナーチは残された。ハンガリー官憲はウィーンのような秩序崩壊を恐れていたし、現場の警官も労働者に報復されることを恐れた。次第に二重帝国をあからさまな暴力が支配し始めた。
 ゲデレー宮殿の皇帝は臨時政府結成という政党の裏切りに憤し、シュトラウセンベルク将軍を首相に任命し、力づくでこの政変を鎮める意気込みを示したが、このことはむしろ、労働者の武装を促す結果となった。
 1月21日、オーストリアで最も社民党主流派が強い都市とされるインスブルックでも労働者レーテが結成された。同時にこの日、ハンガリー王国においてスト中止に対する反対運動がようやく停止した。それまでハンガリー内の各都市、アソード、ジェール、セゲド、ホードメゼーヴァーシャールヘイ、ペーチ、ナジカニジャ、ヴァーツなどでタナーチが結成された。
 臨時政府は社民党キリスト教社会党の合同だったが、キリスト教社会党では皇帝支持か否かで分裂したため臨時政府は事実上社民党の指導下にあった。首班を務めたのは中道派カール・レンナーで、ほかにはオットー・バウアーと出獄したフリードリヒ・アドラーが有力人物だった。この二人はとりわけこの労働者の蜂起に共感していた。
 しかしながら、ドイツ帝国と二重帝国に挟まれるという臨時政府はその存在を危ぶまれる状態にあった。とりわけ戦争協力は臨時政府の安全を保障する命綱だったため、レンナーは前線への物資が滞ることに神経質だった。この頃はまだ二重帝国と臨時政府のどの地域でも行政機能が破壊されていなかったため、主な物資輸送遅滞の原因は工場労働者のサボタージュだった。レンナーはウィーンと郊外の工場に行脚し、過剰労働の禁止を条件に大方の工場では生産が再開した。過剰労働の禁止を軍ではなく労働者側が監視できるようにほとんどの工場で労働者レーテ結成が始まった。
 ドイツ帝国と二重帝国は臨時政府が戦争協力を止め、協商に加入することを何より恐れた。ウィーンでは両国の外交官と駐在武官が活発に活動し始めた。レンナーの臨時政府はこれを容認するほかなかった。
 2月1日、カッタロにて水兵が反乱を起こし、赤旗を掲げた。即時平和のための措置、自由、無併合講和、軍事解体と志願民兵隊設立、民衆の自決権を要求したが速やかに鎮圧された。カッタロは戦線に近く事実上軍政下にあったことからも反戦サボタージュは困難だったが、逆に臨時政府支配下の上・下オーストリアモラビアプラハ人民政府支配下ボヘミアは政治活動が全面解禁され、大小さまざまな政党が誕生した。
 いっぽう、北ボヘミアには汎ドイツ運動政党の「ドイツ労働者党」が存在した。この党はボヘミアチェコ民族主義に反発したドイツ人によるもので、ドイツ人による民兵組織を設立した。4月ごろプラハ人民政府の弾圧で彼らはウィーンに逃れると、無名の政党「ドナウ人民労農党」と運転資金上の理由から合併する。こうして生まれたのが「ドナウ社会主義労農党」である。後に古参メンバーを粛清し、ドナウ連邦大統領になるアレクシス・ローゼッカは、ハンガリー王国軍を脱走し辿り着いたウィーンにて、このドナウ社会主義労農党に参加した。
 1月スト以降、言論統制が失われた臨時政府にはロシアからの情報やビラが流入してきた。1月スト直前の1月11日、ロシアで革命的捕虜による大集会が行われ、あらゆる国の講和条約ロシア革命完遂を採択した。革命中のロシアは二重帝国を含む中央同盟国からの捕虜がおり、彼らの一部は革命に参加し、支持した。「捕虜社会主義者」と呼ばれる彼らは革命政府に協力し、彼らの祖国への革命伝播を試行し始めたのが1918年初頭である。捕虜社会主義者のなかでもとりわけ熱心なのがハンガリー人だった。1月31日にはロシアにウリヤノフを議長とする「全ロシア捕虜事務局」が設けられ、捕虜社会主義者の武力を組織化し、革命の輸出を支援することがボリシェビキの正式な方針となった。
 二重帝国内においてボリシェビキは様々な受け取られ方をした。まずレーニンの「平和に関する布告」において民族自決が謳われたことに帝国内の従属民族は反応した。辺境の社民党員はこれに従わざるを得ず、春から各地で社民党の一部と従属民族や地元の名士などとの接触と民族会議の設立が本格化することとなる。とくにハンガリーにおいてはどの民族もボリシェビキの土地開放政策を支持した。ハンガリーはいまだ封建的な土地制度が残っており、小作人は劣悪な環境での耕作を余儀なくされていた。またロシアの捕虜社会主義者たちが社会主義者を支持するきっかけの多くはレーニンの「土地に関する布告」だったという。
 戦争、労働、民族、飢餓――これらが戦時体制の軛から解き放たれ、活発に取り上げられ始めたのが1月ストであった。1月ストで臨時政府に加わることができなかったハンガリーは、先の4つに加え、普通選挙の実施と土地解放という問題を抱えていた。ハンガリーは二重帝国への忠誠を守り切ったように見えたが、実際にはツィスライタニエンと変わらず労働者や兵士などが沸々と不満をため、蜂起の機会をうかがうこととなる。
 

二重帝国の崩壊

 2月末から3月にかけて深刻な食糧不足が到来した。ハンガリーが食糧拠出を渋ったのは事実だが、そのハンガリー国内でさえ食糧が足りず、各地で暴動が発生した。2月24日にはドナウ川とティサ川の間にあるキシュクンフェーエレジハーズにて4,5千人の農民による飢餓暴動が起こった。
 同じくハンガリーにて3月12日にはリマソムバト、27日にはペーチで軍の反乱が起きた。この反乱はこれまでのものとは違い、民衆の暴動に呼応して起きたものだった。それまで民衆運動を弾圧し憎みあう関係だった軍兵士はこれをきっかけに接近することとなる。
 ところで、ボヘミアの東隣ににあるモラビアはドイツ人とチェコ人の混住地帯だったが、プラハ人民政府はモラビアを支配に置こうと3月18日にモラビア最大の都市ブルノに「ブルノ人民政府」を設立させた。それに対しドイツ人労働者が抗議し、一触即発の事態になったが、結局臨時政府はブルノ人民政府を認めざるを得なかった。この事件は従属民族の独立運動を加速させることとなった。この間にブレストリトフスク条約が締結され、西部戦線ではカイザーシュラハトが決行された。
 春には食糧不足はやや改善した。相変わらず臨時政府は中央同盟諸国と微妙なバランスに立っていた。
 5月のメーデーでは帝国各地でゼネストが起った。ブダペストでのゼネストでは、協調主義的なハンガリー社民党による「1時間限りのゼネスト」という命令に反し、労働者タナーチに所属する革命的社会主義者を中心にゼネストが1時間以上続けられた。ハンガリー社民党から労働者が離れつつあることがはっきりした。ウィーンでは戦争継続をするレンナーの臨時政府に対する抗議行動が行われた。この頃にはブレストリトフスク条約締結による東部戦線からの兵士帰還が始まり、ブレストリトフスク条約交渉による停戦期間にてロシアの捕虜社会主義者の宣伝を受けた兵士が少なからずいた。彼らは兵士の軍離反と民兵団結成を後押しした。この頃ドナウ社会主義労農党は党の民兵組織「国民衛兵隊」をリンツにて結成した。
 6月15日からはイタリア戦線にてオーストリア軍の大攻勢があったが失敗し、同月末にはイタリア軍が追撃に出て戦線は崩壊した。2月に元帥に昇進したボロイェヴィッチ将軍は混乱する戦線を何とかまとめ上げて遅滞行動に徹したが、帝国軍がほとんど崩壊していることは明らかだった。ボロイェヴィッチは停戦交渉の開始を主張し、ヘッツェンドルフ将軍と対立した。ドイツはカイザーシュラハトの調子を崩さないためにもイタリア戦線の停戦または停戦交渉による時間稼ぎに同意し、臨時政府による停戦交渉が始まった。つまり、イタリア戦線に面する領土は二重帝国ではなく臨時政府の領土であるから、臨時政府の中立を認めよ、という理屈だったが、これに対して二重帝国軍部からも反論が起った。7月には皇帝カールが前線慰問をし、兵士2人が激高して皇帝にとびかかる事件があった。このとき居合わせた者の一人が、当時大佐だったシュトロムフェルト・アウエールだったという。
 これら一連の出来事は結束していたに二重帝国軍に大きなひびを入れ、軍部の権威を失墜させた。二重帝国の臣民たちは自分たちを今まで従属させていた軍部の正統性を疑い、ドイツはこのころから「二重帝国分割構想」を練り始めた。従属民族出身の指揮官を中心に抗命が起き、ハンガリー人将校は忙しいなか呑気に訪問したドイツ人の皇帝を憎み、しきりにハンガリー独立を唱え始めたが、これは1918年秋のハンガリー独立の予兆だった。ハプスブルク帝国最後の攻勢「ピア―ヴェ川の戦い」はこうして最悪の形で終わり、7月20日に停戦協定が発効した。追撃していたイタリア軍西部戦線におけるフランス軍の崩壊を見、フランスの降伏と東西からの挟撃を恐れたからである。
 停戦協定発効と同時に、ギリシャのコルフ島にて協商国とセルビア亡命政府の提携と、二重帝国崩壊後における南スラブ人国家の建設に関する宣言がされた(コルフ島宣言)。イタリアは武力による二重帝国粉砕はいったん諦め、南スラブ人を支援することによる二重帝国崩壊とその後の秩序の支配へと舵を切った。南スラブでは3月に行われた秘密会議の決定に従いスロベニアクロアチアボスニアヘルツェゴビナ各地に民族会議準備組織が設立され、南スラブ独立の動きが本格化した。準備組織は武力で南スラブ各地の行政を掌握したが、スロベニアでは秩序を維持していた二重帝国軍のドイツ人部隊と衝突が起こった。軍部の分裂を根拠に、このころすでに二重帝国は消滅し事実上臨時政府とハンガリー政府、そして独立勢力諸派に分かれていた、と指摘する歴史学者もいる。
 8月1日、臨時政府国防省参謀本部の指揮下に国民衛兵隊が入った。同時にスロベニアで戦闘中のドイツ人部隊が国民衛兵隊に加入した。軍部の解体とともに軍部の有力人物が臨時政府に加わった。特に兵から人気のあったスヴェトザル・ボロイェヴィッチ将軍の帰順は皇帝カールに衝撃を与えた。比較的良好な状態にあった西部戦線に参加している二重帝国軍部隊は冷静を保っていた。
 

ハンガリー独立とドナウ革命戦争の始まり

 8月30日、レーニンが社会革命党員のファーニャ・カプランに暗殺された。
 スラブ人との混住地帯であるヴォイヴォディナでは、9月2日にスラブ人による政治大会が行われ、バラニャ、バーチカ、バナトの分離を望む宣言を採択した。これを主導したのはヴォイヴォディナ出身のスラブ人政治家ヤサ・トミッチだった。
 9月14日、カイザーシュラハトが成功を収めドイツ軍のパリ到達が時間の問題となった。民間人は既にパリを脱出し始め、フランス政府は独自のルートでドイツに休戦を提案したが、黙殺された。
 9月15日、「サロニカの庭師」こと駐ギリシャフランス軍が攻勢計画を放棄し、本土防衛のために撤退した。これにより南スラブは英仏による軍事支援の確信を失った。
 こうしてバルカン半島から戦争の危機が去ったことにより、各国の政治勢力は今まで慎重だったものも含めて積極化し始めた。それに先立つ9月8日にはハンガリー社民党が布告「ハンガリーの人民へ」を布告し戦後におけるハンガリーの独立と普選実施を約束した。
 「ハンガリーの人民へ」以降社民党は一気にハンガリー独立派の論陣を張った。ハンガリーの独立とは、ハプスブルク帝国が離脱しハンガリー独自の王国または共和国を建てることで、ツィスライタニエンを失ったハプスブルク帝国にとっては帝国消滅を意味した。皇帝カールはこうした社民党の動きに憤慨したと伝えられているが、既に皇帝には事態を動かす力は全くなかった。ブルジョワ政党も社民党の独立論に賛成した。
 しかし、ハンガリーの従属民族はこの提案に反対した。9月13日の社民党党大会で、党中央派の幹部ジクムント・クンフィが演説にて新国家における少数民族自治・権利、これが履行されなかった場合の少数民族の国家離脱権利について主張していた。それ対してその少数民族であるスロバキア人の党員アドルフ・ホルヴァートが声を上げた。ホルヴァートはこうしたクンフィの譲歩に納得せず、そもそもスロバキアが新ハンガリーの一部となることに反対した。そしてハンガリー社民党が独立のためにブルジョワ政党と結託していることも批難した。ホルヴァートは決してハプスブルク王党派ではなかったが、これ以上スロバキアハンガリーの一部であることにも反対だった。ホルヴァートをはじめ従属民族の政治家はハンガリー独立をきっかけに従属民族の独立を画策し始めた。
 この前日9月12日にはトランシルヴァニアのナジェヴァラードでルーマニア人民族党指導部会議で自治権承認要求と新洪政府拒否の決議をした。
 ハンガリー東部にあるルーマニア人との混住地帯であるトランシルヴァニアは、ひときわ従属民族の反ハンガリー感情が強い地域だった。しかし現地の社民党と保守派の民族党の連携不足と、隣にあるルーマニア王国が中央同盟国に敗れて降伏したことから、トランシルヴァニアの分離は困難だった。9月6日にはハンガリー社民党ルーマニア支部ルーマニア民族党が会談し民族会議設立について協議したが決裂した。ルーマニア人住民はハンガリー人官吏の苛烈な税の取り立てに対し、暴力による官吏の罷免をもって抵抗しており、また隣国ルーマニア王国から続々と義勇兵が到着していたため、ハンガリー政府にとっては早急な平定が必要だった。
 9月13日にはブダペストの労働者集会でルーマニア社民主義者ティロン・アルバニがトランシルヴァニア独立を主張した。アルバニはルーマニア人向け社会主義系新聞を多数保有する大物活動家だった。
 9月18日、ハンガリーにて自由主義諸政党と保守政党による「普選ブロック」が結成され、新たに首相に指名されたハディク首相の退陣を要求したが、今まで普選に反対していた保守政党の譲歩は衝撃的だった。しかし翌19日に事態は急変した。首都駐屯の軍部隊が蜂起しゲデレー宮殿を襲撃、皇帝カールに退位を迫った。そしてブダペストでは名門貴族エステルハージ家出身のニコラウス4世を新たなハンガリー王とする議会決議を普選ブロックにより採択し、事実上ハンガリーは二重帝国から独立した。もちろん、これはドイツの黙認の下にあった。
 9月19日、南スラブ人はハンガリー独立宣言に素早く反応し、スロベニアクロアチアセルビア民族会議は臨時憲法を発布し独立宣言を果たした。既に南スラブ人は南スラブの支配を奪っており、事実上の現状追認だった。臨時政府は10万につき1人の代表の民族会議の召喚を指示した。9月29日にはスラヴォニア議会とダルマチア議会が正式にハンガリーからの独立を宣言した。こうしてハンガリーの南スラブはドラヴァ川以南が事実上分離した。行政の中心地リュブリャナを含むスロベニアの一部はウィーンの臨時政府軍の支配下にあったが、南スラブ政府はスロベニアの領有権を主張した。しかしどこからどこまでがスロベニアに当たるかは不明確で、ドイツ人との混住地域の領有も辞さない構えだった。
 9月27日にはトランシルヴァニアに先立ちブコビナのルーマニア人民族会議がハンガリーからの分離とルーマニアへの併合を決議した。トランシルヴァニアの独立勢力はこれに押される形となり、9月30日にはトランシルヴァニアに民族会議が出現した。しかし実際に独立勢力がまとまり分離を果たしたのは翌月である。
 9月31日には最も独立に消極的だったカルパト・ウクライナの民族会議がハンガリーからの分離を宣言した。しかし分離後どの国家に併合されるかは不透明であり、当時のウクライナは保守派と革新派の間で揺れ動き不安定だった。そのためカルパト・ウクライナの独立宣言は形ばかりのものとなり、その後しばらくハンガリーの支配にとどまることとなった。
 ドイツは二重帝国の東西分割、すなわち西部のオーストリアボヘミアモラビアドイツ帝国の下に組み込み、独立ハンガリーはドイツの優秀な下僕として支配する、という帝国主義的野望を目論んでいた。このクーデターの直前、首謀者の一人である軍人フリードリヒ・イシュトバーンにドイツの駐ブダペスト大使が金塊を渡したという証言が残されている。このクーデターを計画した勢力は、主にドイツ外務省とフリードリヒ・イシュトバーンのような旧二重帝国ハンガリー軍の右派、そして普選ブロックだった。普選ブロックは新政体が共和制であることを諦めた自由主義諸政党と、普通選挙実施を認めざる得なかった保守政党の連合だった。自由主義政党である「独立と1848年党」の党首ミハーイ・カーロイ伯爵は議会で反戦演説をしたほどの反戦派であったため、カーロイ伯をいかに懐柔するかも重要だった。新ハンガリー王国軍と辺境の独立派との戦闘は続いており、またドイツの命令でハンガリー軍が西部戦線へ引き抜かれる可能性もあったからである。
 このように独立早々危機に見舞われたハンガリー王国は、東部戦線やイタリア戦線などから帰還した兵士を再編成し、武力で対抗した。これに対して厭戦的・反戦的な兵士は身分を隠して田舎に隠遁したり、あるいは都市で厭戦兵士の組織に加わった。前者は地方の在地勢力の戦力として、後者は「兵士タナーチ」を結成し社会主義的な政治組織として機能した。当時帰還兵はまずブダペストに降ろされたことから、ブダペストの兵士タナーチが最も大きな規模を持っていた。兵士タナーチには無論ロシア革命の影響が見られ、土地の分割やプロレタリア独裁といった共産主義的主張さえ聞かれた。こうした地方の在地勢力と兵士タナーチは後のハンガリー王国崩壊において大きな役割を果たすこととなる。
 ところで、普選ブロックと王国政府に参加したブルジョワ急進党のヤーシ・オスカルは9月に密かに偽名で『ハンガリーの将来とドナウ合州国』を出版し、オーストリアチェコなどとの連邦としてのハンガリー像を示した。もともとヤーシはハンガリー自由主義的知識人グループの指導者で、急進的な社会学雑誌『20世紀』の主催者でもあった。ヤーシにとっての「ドナウ合州国」とは急ごしらえで作った構想ではなく、長年の考察と研究を経て完成した構想だった。ヤーシが望んだ「ドナウ合州国」の内容については別の機会に詳しく述べたいが、あくまで連邦内のハンガリーを主張するこの本は、ヤーシが参加した独立ハンガリー王国とも独立を試みる各民族とも反していた。実際のところ、『ハンガリーの将来とドナウ合州国』が好意的に評価されるようになるのはハンガリー王国の滅亡とドナウ連邦の成立にまで待たねばならない。
 ハンガリー王国閣僚としてのヤーシは「ドナウ合州国」のシステムをハンガリー内部へ組み込もうとした。すなわちハンガリーを連邦として改革し、独立をいまだ踏みとどまっていたトランシルヴァニアルーマニア自治問題を解決しようと試みた。これを「東のスイス」構想という。10月13日から15日までヤーシはトランシルヴァニアルーマニア人民族会議との交渉において示した「東のスイス」構想は、スイスをモデルとしたトランシルヴァニアにおける行政・文化的区分の見直しと封建的な行政組織である「県」の廃止、中央への代表出席の保障だった。しかしルーマニア人民族会議はこの提案を拒否し、トランシルヴァニア分離につながることとなった。こうして「東のスイス」構想は頓挫した。
 9月30日にはモラビア方面から侵入したプラハ人民政府の指揮する臨時政府軍がプレスブルクを占領し、スロバキア民族会議が結成された。ミラン・ホッジャハンガリー社民党員などが参加し、「チェコスロバキア国家」成立の布石と見なされた。ハンガリー王国軍は速やかに反撃を開始した。
 10月1日にハンガリー南部の各民族混住地帯であるバナトにおいて、兵士と労働者が大反乱を起こした。すぐにルーマニア王国からの義勇兵セルビア軍が介入し(セルビアは二重帝国軍の占領下にあったが、既に有名無実化しており)乱戦となった。バナトのセルビア人とルーマニア人は反ハンガリー王国・分離独立の点においては協力していたが、セルビアルーマニアからの派遣軍は戦後のバナト分割構想において対立し、必ずしも協力関係にはなかった。バナトの大反乱により兵士タナーチと労働者タナーチが発生し、社会民主党を中心とした臨時政府が誕生した。バナト独立を指導した社民党員や軍人などは、実際にはバナトのハンガリーからの分離ではなく、セルビアハンガリー間の緩衝地帯創設と、特殊な民族事情に配慮した行政改革の施行を目的としていたという。しかし掲げられていた国旗は赤旗であり、暴動を起こした労働者と兵士はハンガリーからの分離を主張していた。結局、バナトは翌1919年にはハンガリー軍により制圧されることとなる。
 10月2日にはロシアのカーメネフとズヴェルドロフが連名で旧二重帝国に対し「民族ブルジョワジー」の打倒を呼びかけるコミュニケを発表した。このころすでにクン・ベーラをはじめとするハンガリー共産主義者グループがハンガリーに入国し、活動を開始していた。共産主義者グループは民衆にたまるハンガリー王国の不満を吸収し支持を獲得してきつつあったが、少数民族問題に関しては「ブルジョワジー的」として独立論を退け、民族独立よりも階級統一を優先した。
 10月3日、バナトのオラヴィツァにおけるルーマニア人集会にて「唯一不可分のルーマニア民族」という言葉が登場した。この文言はトランシルヴァニアルーマニア人の間で人気となり、ルーマニア人独立のスローガンとして用いられるようになった。また同日、アラドにある社民党系のルーマニア人民族会議が行政権を掌握した。民族党と社民党の合同に先駆けて起こったこの事態に対し、民族党員も独自の民族会議を設立した。
 10月4日、ロシアではハンガリー共産主義者によりハンガリー共産党が緊急結成され、既にハンガリーに入国した先発組も含めて参加した。ハンガリー共産主義者ハンガリーでの共産主義革命を本格的に目論むようになりつつあった。
 10月5日にはプレスブルク北のスカリッツァにおいてスロバキア臨時政府が発足した。プラハ人民政府とそれを支援する臨時政府は、ハンガリースロバキアへの侵攻と領土編入の意思をはっきりとさせた。対するハンガリー政府はスロバキア問題解決に関する具体的な解決策を見いだせずにいた。
 10月6日にルーマニア人民族会議は「ルーマニア人民への宣言」を採択した。民族自決承認と民族防衛軍の設立を呼びかけるこの宣言は、トランシルヴァニア分離を既成事実化しようという目論見だった。ハンガリー軍のトランシルヴァニア平定は遅々として進んでいなかった。
 10月7日にはセルビア軍がバナトだけでなく、ドナウ川を超えてハンガリー王国領土のヴォイヴォディナに侵入した。
 10月9日、カルパト・ウクライナのウジェホロド市(アレクシス・ローゼッカの故郷でもある)においてルテニア民族会議が発足し、ハンガリー王国内での自治を念頭に活動を開始した。
 10月10日、スロバキア戦線にてハンガリー軍は劣勢に立たされ、スロバキア西部がチェコ義勇軍の手に落ちた。
 このように、ハンガリー王国において少数民族は各々様々な行動をとった。独立ではなく自治を望んだカルパト・ウクライナ人、チェコとの合同国家「チェコスロバキア」を志向するスロバキア人、セルビアへの分離独立を主張し実行する南スラブ、そして内部対立に終始し未だ方向性がはっきりしないトランシルヴァニアハンガリー政府は独立を視野に入れている各民族のうち、トランシルヴァニアについては交渉次第で独立を阻止できると考えていた。スロバキアは軍事的な形勢次第だった。
 10月11日においてブダペストブダペスト在住のルーマニア人出稼ぎ労働者による政治集会が開催された。そこで民族党代表のヨアン・エルデリはルーマニアへの無条件統一を主張したのに対し、ハンガリー社民党ルーマニア支部代表ヨアン・ミフッチはルーマニアの民主主義的改革をもってしてのルーマニアとの統一を主張し、相変わらず保革対立を鮮明とさせた。ハンガリー社民党ルーマニア支部は統一先であるルーマニア王国ハンガリーよりも封建的な後進国であることを理由に具体的統一を躊躇したが、結局彼らはトランシルヴァニアの単独独立建国やハンガリー内での自治を選ぶことはなかった。このころすでに社民党トランシルヴァニア内での支持を民族党や教会などの保守勢力に奪われており、事態をコントロールできないことを理解していたからである。
 ドイツ帝国スロバキアや南スラブなどの分離に関して反対したが、トランシルヴァニアに関しては外務省と軍におけるハンガリー閥とルーマニア閥の対立から公式見解を決めかねていた。そのためトランシルヴァニアの分離とルーマニアへの統一はドイツからの追認を得られる可能性があった。ドイツ軍は兵力のハンガリー派遣は控えたものの、武器弾薬は積極的に移出した。
 同じく10月11日にポーランド摂政王国が成立し、旧二重帝国領土のうち臨時政府にもハンガリーにも忠誠を誓わなかったガリツィア=ロドメリアにはユゼフ・ピウスツキ将軍率いるポーランド軍が進駐した。二重帝国軍のウクライナ人精鋭部隊「シーチ銃兵隊」とポーランド軍は衝突し、シーチ銃兵隊はウクライナへ撤退した。こうしてポーランド王国ウクライナ人住民が多数含まれるガリツィア=ロドメリアを領有するに至ったが、これは後々ウクライナとの関係に禍根を残すこととなる。
 10月13日から15日かけて、ヤーシをはじめとする王国政府左派である自由主義諸政党や社民党などとトランシルヴァニア民族会議との協議が行われた。議題はトランシルヴァニアの分離か自治かというものだったが、交渉は決裂してしまった。最終日、王国政府代表が会議室に入るとそこには民族会議代表のヴァシレ・ゴルディシュしかいなかった。ルーマニア側はゴルディシュを除き協議のボイコットをした。王国政府代表のボカーニ・デジェーがルーマニア民族会議を批判した途端、ゴルディシュは席を蹴って退出した。
 10月18日、トランシルヴァニアへの総攻撃が開始された。急遽昇進したシュトロムフェルト・アウエールといった後の名将も参加していた。これを受けて民族党が支配する民族会議は「中央民族会議」の名においてルーマニアとの無条件統一したが、社民党ルーマニア支部は抗議した。しかし既にルーマニア民衆は無条件統一に興奮し、武装蜂起してハンガリー軍に立ち向かった。
 10月19日、セルビア軍がヴォイヴォディナの大部分を占領し、バナトも徐々にセルビア軍とルーマニア義勇軍に支配地域を削り取られていた。バナト政府はハンガリー王国にさらなる派兵を要求したが返答はなかった。王国独立の熱狂で大量の志願兵が加入したものの、国境の大部分が戦場となっているハンガリーにとって戦力の新規調達は難しかった。
 同日、一方カルパト・ウクライナではマラノルシュ、ベレグ、ウング、ウゴツァ県の知事をルテニア人に理解ある人物に変えるようルテニア民族会議は要請し、県知事が後退した。武力によって県知事を引きずり下ろしたトランシルヴァニアとは対照的な例だった。加えてルテニア民族会議は宗教省にルテニア支部を、大学にルテニア学科を設けることを要求し、認められた。
 10月24日、ハンガリー国内において正式に共産党が設立した。当局はこれを認めなかったが、治安当局は辺境部の民族運動を鎮め都市の労働者を押さえつけるのに精いっぱいで共産党の弾圧は遅れた。同日、ヴォイヴォディナのスレム地方が南スラブ臨時政府を離脱しセルビア王国に併合された。スレム地域は既にセルビア軍の占領下にあった。
 10月下旬、プラハ人民政府を後ろ盾に持つスロバキア臨時政府のミラン・ホッジャハンガリー王国政府のヤーシ・オスカルが秘密裏に複数回ブダペストで会談した。ホッジャとヤーシは会談において、スロバキアハンガリー行政官解任、ハンガリー軍の撤退、食糧供給、秩序回復、現地の軍部隊を含む主権の民族会議への移譲、ハンガリースロバキアにおける独自民族会議発足、共同の問題はハンガリー人とスロバキア人の民族会議同士での話し合いで解決するという方針などについて協議した。ホッジャはプラハチェコ人政治家と比べて穏便な解決を望んだが、肝心のヤーシはトランシルヴァニアとの交渉決裂以来政府内の立場を危うくしており、実権がなかった。しばらくのち、ホッジャはこの秘密交渉を材料にトマーシュ・ガリク・マサリクから「裏切り者」と非難され、翌年1月にヤーシは正式に失脚することとなる。
 10月25日、南スラブ臨時政府とセルビア王国政府の協議がまとまり、両国の合併と「SHS王国」(後のユーゴスラビア王国)が正式決定された。そのとき、ドナウ川に位置し、バチカとスレムに挟まれた場所にあるノヴィザドにてセルビア人の民族集会が行われ、スレムだけでなくバチカ、バナト、そしてドラヴァ川を北に越えたバラニャまでもの分離とセルビアへの統合を支持する決議を可決した。こうしてセルビア人はハンガリー南部への侵攻の意思を明らかにし、ハンガリー政府は警戒した。
 10月30日、未だルーマニア義勇軍に守られていたクルジュ・ナポカのルーマニア人中央民族会議にて、社民党員と民族党員の対立が一気に噴出した。きっかけはルーマニア国王であるホーエンツォレルン家出身のフェルディナント1世に対する賛辞を述べるか否か、という問題だった。フェルディナント1世はホーエンツォレルン家から追放されてまでドイツに対する抵抗をはっきりと宣言し、ルーマニア人から英雄視されていたが、社民党員にとって君主制への支持は確かに憚れたが、この問題は民族党と社民党の政争を表面化させる些細なきっかけに過ぎなかった。一部のハンガリー社民党ルーマニア支部の党員はハンガリー国内での自治を唱え、戦線の西側に逃亡する者もいた。いずれにせよ、このようにトランシルヴァニア内の民衆の支持を盛り返せず、むしろ分裂を招いたことからこの事件は社民党の最後の悪足掻きだったともいえる。
 これに先立つ10月17日、ハンガリー社民党の一部の党員が秘密裏の会合を行った。いわゆる革命的社会主義者らによる会合で、社民党主流派も参加する王国政府は労働者タナーチや兵士タナーチなどをはじめとする兵労農の支持が離れつつあること、そして革命的社会主義者はそれに応えるべく社民党から分離するか否かが議題だった。結局話はまとまらず、暫定措置として党内に「サボー・エルヴィンサークル」を設けることで合意しようとしたそのとき、クン・ベーラがロシアから帰国したという報告が来た。クン・ベーラの名前は東部戦線やハンガリー国内で配られたビラ・論文などから知られており、革命的社会主義者らにとっては衝撃だった。会合に来たクン・ベーラは革命的社会主義者らと共産党の合同を提案したが、まとまらなかった。
 10月19日、クン・ベーラは臨時政府の支配するウィーンに入り、社民党指導部と会談したが特に成果は得られなかった。
 11月1日、トランシルヴァニア南部のアルバ・ユリアでルーマニア民族の大集会が開かれた。アルバ・ユリアが選ばれたのは、既にハンガリー軍が侵入しオラデア、アラド、サトゥマレなどの諸都市が陥落したこと、そして何よりアルバ・ユリアは初めてトランシルヴァニアとワラキア、ベッサラビアを統一したミハイ勇敢公の本拠地だったという歴史的な点に由来する。ここでの大集会にて代表を民主的に選出し「指導会議」をシビウに設置した。ここで選出された代表者のうち社民党員はわずか10%に過ぎなかった。そしてここで大集会はトランシルヴァニアの分離独立を正式に宣言した。
 11月5日にはハンガリー政府が「東のスイス構想」のコミュニケを公表したが、時すでに遅かった。
 11月10日、ハンガリー王国領内の国境部にあるスロバキア人居住地域のジリナに「プレスブルク人民政府」が設立した。当時、プレスブルクはいまだハンガリー軍が支配していたが、これはプラハ人民政府の支援するスロバキア人分離勢力がプレスブルクを将来支配することを意味していた。プレスブルクはウィーンの東に位置する都市で、ハンガリー人、ドイツ人、スロバキア人がそれぞれ等しい割合で済んでおり、これは中欧特有の民族的な多様性に反する政治的試みであった。ハンガリー王国政府はウィーンの臨時政府に対し交渉を持ちかけたが、ウィーンはよい回答を返さなかった。臨時政府はハンガリー政府がスロバキア人の民族自決を侵害している(無論臨時政府はスロベニア人の民族自決を認めていなかったが)と見なしていたこと、また仮にハンガリースロバキア統治を認めようにも、プラハ人民政府を説得できるほど臨時政府には力がなかったのが実情だった。ハンガリー軍はトランシルヴァニアでの作戦もあり積極的な迎撃には出ず、スロバキア軍とハンガリー軍が互いに主要陣地や都市などを占領してにらみ合い、散発的な発砲をしていた。
 11月21日、カール・レンナーの臨時政府はプラハ人民政府の声に押され、ヴァヴロ・ショロバール率いるプレスブルク人民政府の軍事支援を決定するとともに、臨時政府閣僚会議はハンガリー王国国境部にあるドイツ人居住地域ブルゲンラントについて初めて言及し、現地住民投票による帰属地決定を求め、それが履行されない場合はやむを得ざる措置もあり得る、と脅した。ハンガリーは即時反発し、こうしてハンガリーと臨時政府間の本格的な対立と戦闘が始まることとなった。
 11月25日、「ハンガリーに住むルテニア民族の自治」法がハンガリー王国臨時議会により採択され、ルテニアの自治が正式に開始された。オーストリア革命後の混乱のなか唯一穏便な自治に成功したルテニアのケースは、その後成立するドナウ連邦における自治行政においても参考とされることとなった。
 11月26日、ハンガリー共産党ルーマニア支部が結成されたが、事実上ハンガリー人によるハンガリー共産党の傀儡だった。この日からハンガリー共産党トランシルヴァニア問題に介入し始め、民族対立ではなく階級統一を訴え、地主の襲撃を煽り始めた。しかしハンガリーほど反地主運動はトランシルヴァニアでは受け入れられなかった。それでもこの運動の支持者は少なからずいたようである。
 11月31日トランシルヴァニア問題についにドイツ政府が介入し、トランシルヴァニアにおいて中立地帯を設定した。ハンガリー人居住地域は十分ハンガリー政府に確保されたが、中立地帯の東側にはルーマニア軍支配地域が設定され、事実上ルーマニア人のトランシルヴァニア支配を認める形となった。この決定にはルーマニアハンガリーも不満だった。また、これによりルーマニア王国が公然とトランシルヴァニア問題に介入するようになった。
 11月末、頑強に抵抗が続けられていた包囲下のパリはついに降伏し、西部戦線が集結した。フランスでは敗戦の混乱と屈辱的な敗北からサンディカリストマルキスト、その他雑多な反動勢力による暴動がおこり、1920年にフランス・コミューンが成立することとなる。フランス・コミューンの成立は、ロシアの共産主義政権が内戦で敗北しつつあるなか、欧州中の農民や労働者、兵士などに勇気を与えた。フランス・コミューンの成立と、後に起こるハンガリー赤色蜂起は無関係ではない。
 西部戦線終結したが、いまだに中央同盟国と協商国の戦争状態は続いていたため、イギリス海軍海上封鎖により中央同盟国は孤立状態にあった。臨時政府はイタリア向け食糧をスイスから経由して輸入しており、ドイツは臨時政府と秘密協定を結び軍事支援と引き換えに食糧を得、国内の飢餓を和らげようとした。当初目論んでいたウクライナからの潤沢な小麦は、ウクライナの政情不安と農村部の蜂起により搬出量は予想を下回った。臨時政府はこの食糧を外交カードにし、ハンガリー政府に対して食糧支援の停止を迫っていた。しかしハンガリーにおいて小麦の収穫期に入ると、ハンガリー政府は果敢に臨時政府に抗した。第一次世界大戦末期の中欧は、このような微妙なバランスに立つ外交権謀が続いていた。
 12月4日、トランシルヴァニアにおける反地主運動に共鳴したトランシルヴァニアの農民がルーマニア革命農民党を設立した。この政党がどのような政党だったのか、どのような理論を掲げていたのかはオーストリア革命に伴う戦争(革命戦争)による混乱や焚書、虐殺などにより詳しい資料が残っておらず、はっきりしていない。
 12月18日、王国政府にて内閣改造が行われ、オスカル・ヤーシが失脚した。独立と48年党のユハース=ナジ・シャーンドルは司法大臣就任を打診されたが、王国政府の未来を絶望視し固辞した。
 この内閣改造で一つ事件があった。もともと第一次世界大戦中に反戦派として知られた首相のカーロイ伯爵は新たな国防大臣にリンデル・ベーラという数少ない反戦派軍人を推薦した。しかし大臣職務先生の際にリンデルは「もう軍隊はこりごりだ!」と行き過ぎた反軍発言をしたのである。これにより王国軍内部では反発が起き、不穏な雰囲気が起った。カーロイは9日後にリンデルを解任させ、後任に社民党右派のベーム・ヴィルモシュを推薦した。この事件はカーロイをはじめとする自由主義派と軍または保守派の間に亀裂を生み、カーロイ政権を不安定にさせることとなった。リンデルは後にユーゴスラビアによる傀儡国家の首班を務め、動乱終結後にユーゴスラビアに亡命することとなる。
 12月26日、ブダペストにおいてルテニア民族会議の実力者であるアウグスティン・ヴォローシンとプラハ人民政府のミラン・ホッジャが非公式に会談し、ルテニアがハンガリーではなくプラハ人民政府側に就く可能性について議論した。ホッジャはプラハ人民政府により非公式会談に頻繁に起用されていた人物である。